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無職か、無職以外か。

 12月30日の予定を後輩に訊かれて、「その日はたぶん無職やわ」と返信した。彼は何も言わず、用件である忘年会について説明を開始すると、僕は、その誘いを快諾して、スマートフォンを机に置いた。さきほど、小さめのゾウが暴れれば恐らく全壊するであろう脆弱極まりない造りの銭湯から帰ってきたばかりで、まだ体が温かい。サウナ、水風呂、サウナ、水風呂、サウナ、水風呂。高速でサウナPDCAを回し続ける土方のオッサンに奢ってもらったジュースの味が、まだ口の奥に残っている。オッサンはおそらく50代だが、この過酷な自律神経への攻撃を繰り返せば10年で死ぬだろう。

 僕は、まだ濡れた髪に触れると、はて、と疑問がわき、土方の死期についての考察をやめた。後輩は、どうして僕が30日は暇だと思ったのだろう。いや、そもそも、どうして「無職やわ」という返信を素直に消化し、忘年会の案内へと切り替えられたのだろう。実に不思議だ。絶対に解を導出できない時にロピタルの定理と書けば救われる、関西弁で論述すれば耐えられる、謎の大学受験テクニック並に不思議だ。

 僕は、仮説をつくりあげる。彼の中で、無職という言葉が、ある条件下において、限定的に、「職が無い状態」という言語の収容力を超えたコンテキストへと昇華、あるいは、変形されている可能性はないか。考える為の能力のすべてを、ひとところに集約し、潜思する。


 たいして面白いことを思いつかなかったので、これで終わります。いつもオチがあると思わないで下さい。さようなら

 

 

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金沢 容
お気持ちだけで結構です。ありがとうございます。