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【読書会後】一見無造作な物語の中の権力構造、エロティックさーーー大江健三郎・シュルレアリスム

大江健三郎の『死者の奢り・飼育』を読んで、読書会をした。

シュルレアリスムの展示を観た

といっても、我々の読書会は読書をするだけではない。
まず行った先は板橋区立美術館。芸術も愉しむのである。
館蔵品展として「もっと魅せます!板橋の前衛絵画 シュルレアリスムとアブストラクト・アート」をやっていた。

板橋区立美術館では今年2024年3月〜4月にかけて「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」という企画をやっており、その続きとして今回の展示をやっているようだった。

で、シュルレアリスムって何か。
よくわからなかったので、文庫版の巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』を手に取った。その内容を簡単に箇条書きしてみる。

  • 「シュル」と「レアリスム」には分かれない。「シュルレアリスム」は写実的な表現を否定していないし、作者の主観にも依っていない。むしろ客観に至ろうとした結果として作品が生まれている(pp.10-14)。
    切るとしたら「シュルレエル」と「イスム」(p.18)。

  • 接頭辞の「シュル」には超える、離れるだけの意味ではなく、「過剰」「強度」の意味もある(p.19)。

  • 「レエル」と「シュルレエル」、つまり「現実」と「超現実」は繋がっているとも考えられる。超スピードを出す際は段階が上がっていく形で早くなっていくように。つまり「シュルレエル」には現実との連続性がある(pp.22,23)。

シュルレアリスムとは現実と連続した形で、あるいは現実に内在した形で存在する『超現実』のことである。またシュルレアリスム芸術においては、主観的な幻想ではなく、「自動記述」によって言葉を配置するように、客観的にオブジェとして配置される(pp.66, 67)。

メンバーの感想

西川口はシュルレアリスムが好きだ。面白がり方がわかりやすい。シュルレアリスム以外の絵画を観るのは、様々な美的規則に基づいているあまり知識が要求されて、それよりもシュルレアリスムの方が自由な感触があって好きなのだという。

信濃はシュルレアリスムのどこでもない場所を描くところに心を惹かれたという。またどのようにシュルレアリスム絵画が描かれているのかに興味を持った。つまり、自動記述のように描いていると、「このように描こう」とまず初めに決めてから描き始めても、休憩を挟んだりして描いていれば、最初の計画からズレて行ってしまうのではないかと疑問に思ったそうだ。

※記事の画像は美術館近くの売店に棲む飼い犬。こちらをじっと伺っていた。西川口撮影。


『死者の奢り・飼育』について

かなめの感想

正直私はかなり読めなかった。死者の奢りについては、生きているものよりも死んでいるものと対話がしやすい主人公が出てきて、わかる感じがするな程度の理解しかできなかった。

奥健介『「新しい時代」の文学論』を手にして、なるほどこういう感じか、敗戦後にどうやって生きればいいのかを真剣に悩んだ作家なのだとわかった。「戦争がもたらす絶望、苦痛、悲しみ、罪悪に抗うものとしての希望と再生への意志」(p.47)を描いているという。
また日米関係を通じた政治・性的な大江の分析についても興味深かった。ここでの「他者」とは日本、「自分」とは米国のことだろうが、「他者を他者として認知するのではなく、他者をあたかも『自分の躰の一部』として自己のうちに取り込むことによって他者性そのものを溶解させる。」こうした他者との関係とは「自己の存在のためだけに他者を存在せしめるほかない暴力ともいえる」(p.101)という分析が興味深かった。
まるでカウンセラーが存在するのは患者が目の前に座るからだという話と似ているように思えた。つまり一見してストレートに考えると、カウンセラーが上位の権力であり、患者が下位である。しかし裏を返せばカウンセラーは患者が目の前に座らなければカウンセラーたりえない。とするとカウンセラーは患者に対して、ずっと患者で居させなければ自分の存在意義が損なわれてしまう。こうした構造を日米関係も持っている。米国は自分が存在し続けるために、下位たる日本を存在させ続けようとする。
こうした関係は個人的に親子関係にもあるようにも思えた。つまり、お前は永遠に子供なのだから死ぬまで言うことを聞くべきだという、親から子への圧力である。これは裏を返せば子供がいなければ親は親たりえない。それ故の圧力というわけだ。このような気持ちの悪い光景を想起させる文章だった。

メンバーの感想

西川口は大江健三郎作品の魅力を改めて実感したようだった。
二項対立、生と死、妊娠した女子大生と主人公の男などからマウントの取り合い、競い合いが行われる。対立する力の構造がどの作品からも見出されることを指摘した。

「人間の羊」を現代的な作品だと信濃は評価していた。Twitterのように、被害者は沈黙し、被害者を傍観していた人たちが加害者を糾弾せよと盛り上がる。

敗戦から80年近く経過した現代からすれば、かなり馬鹿馬鹿しい話が続く。「人間の羊」では外国軍人から裸にされたり、「不意の唖」では靴がなくなったことを村の中で騒いで犯人を探す。しかし物資の乏しい敗戦直後の当時としてはリアルな作品ではないか。

信濃は自身の読みについて話を展開した。読書会前の記事にもあるように、スマホ的な読みとは行動を抽出して一つ一つを要約する読み。一方で一つの小説全体を一文に要約できない読みが弁当的読み。それら二つの読みは相容れない。
社会問題を扱うのであれば社会問題そのものを文章にすればいい。であればわざわざ小説にする意味は無いのではないか。あえて小説にするということは、直接社会問題を扱う時には掬いきれない何かを描こうとするからだ。
大江自身は社会問題を扱うことに自覚的だった。一方で大江の作品について社会問題を全面に押し出して要約・解釈することができるわけでもない。社会問題だけではない、スマホ的にも弁当的にも読める大江作品の深みに触れることができたとのことだった。

「飼育」の言葉について言及された。主人公は子供であるはずなのに大人びた言葉が使われている。西川口は大人になった主人公が回想している、あるいは過去の自分に完全に身体を移して言葉を語っているのではないかと解釈した。捕らえた軍人の人間性に触れて、束縛を解いて触れ合い始めるものの、その後事態が反転してゆく。そのスリリングさに感心したという。

西川口は大江作品の分類をした。初期から中期までは村の話と都会の話の2パターンに大きく分けられる。
息子の光さんが生まれることを境に息子のことを書くようになった。
後期は詩や文学を読み込むことで作品に昇華させていった。例えば『新しい人よ眼ざめよ』。ブレイクの詩を念頭にしながら光さんと対話することで、詩の意味を獲得してゆく。作家としての内容の振り幅、その広さに驚いたという。

「不意の唖」について

読書会後、「不意の唖」を読み返してみた。この短編にもまた権力構造があるように読めた。
通訳は「人間の羊」でいうところの教員、つまり正義の人として振る舞う人物像である。虎の威を借る狐であり、実力はそれなりしか無いのに外国兵から力を借りて存在している。「人間の羊」では外国兵からの力の移譲はそこまで描ききれなかったが、「不意の唖」ではより鮮明に、外国兵との依存関係の中で力の移譲が行われている様が見える。外国兵がいなければ通訳は存在し得ないし、通訳がいなければ外国兵も村人に対して権力を十分に発揮し得ない。
最後のシーンでも女の子供が出てくるが、全く喋らない。外国兵への反発をはっきりと喋らせるわけではない。社会問題を鮮明化させるわけではない。しかし大江はわざと女の子を表現している。文言として記載して表現して、女の子と外国兵との対立軸を作っている。

シュルレアリスムのように現実を過剰に読み込み、平易かつ美的に表現し切った先に、異様な社会問題や権力構造、エロティックさが際立って示されるのが大江作品かと思った。

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