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論理で神話を殺し、神話を現実に求める

今回読んでいる『悲劇の誕生』で、私の中で軸にしたい言葉は「擬似的な信仰」だ。『悲劇の誕生』の中で出てくる言葉ではないのだけれど、でもそのことについても言っている気がするのだ。

放送大学の授業を受けた中で哲学の授業があって、そこで提出した課題文が気になって仕方がない。多分これからも自分で書いたその文章を何度も見返しながら、その文章の意味合いを自分で考え直していくんじゃないかと思う。

その課題では現代における哲学の可能性について問われた。私は「疑い、思考し、理解するというプロセスにある」と回答した。近代化による普遍性が宗教に自滅させ、人々は自由を求めて神から逃れようとした。それによりこれまで問題とされてこなかった「存在」「本質」「真理」「理性」といった根本概念をゆるがせにした。根本概念について信念を持つことができない人々は「情報の連なりをもって擬似的な信仰を複数持つようになった。」
「また総力戦を代表例として、近代の普遍空間が危機を可能な限り最大化させた。」ただし情報技術はこうした危機を緻密に分離・分類している。罵声は小さく絞られて、異分子に対してはドローンによってミサイルが打ち込まれる。「擬似的な信仰に基づく、とある『善』が明白かつ低コストで実現する。」・・・

つらつらと以下続いていくのであるが、今気になっているのは「擬似的な信仰」である。妄想、思い込みとでも言えようか。なぜ人は思い込み、それに付き従ってしまうのだろうか。


人間というのは不合理だ。ここ最近そういったやるせないことばかり身の回りに起こっている気がする。いつも通りのこと、平凡なこと、普遍的なことなのだろうか。
なぜこんなにも人間が不合理なのかという疑問からパラパラと本を読んでいる。ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』。行動経済学者のダンが様々な心理実験を通じて人間が経済的に不合理な思考で行動していることを説明している。ダンいわく、おとりの選択肢があるとそれに近しい物を選択しやすいだとか、「無料」の言葉によって人はひきつけられているとか、とにかくふんだんに事例が紹介されている。
無料の例がわかりやすいので紹介したい。ダンはチョコレートの実験に関わった。人が集まる公共の場で2種類のチョコを売った。一方は安物、他方はトリュフが入った高級チョコだ。低い価格を双方につければ73%はトリュフチョコを買う。しかし安物チョコを無料にすると69%が安物チョコを選ぶようになる。
特にはっきりとした驚きはない結果だが、とはいえどうしてこうしたことが起こるのか。ダンの答えは感情にあると説明する。無料であることに人は感動して、提供物に価値づけしてしまう。なぜ価値づけしてしまうか。

それは、人間が失うことを本質的に恐れるからではないかと思う。(…)無料!のものを選べば、目に見えて何かを失う心配はない(なにしろ無料なのだ)。ところが、無料でないものを選ぶと、まずい選択をしたかもしれないという危険性がどうしても残る。

ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』, pp.103,104

人々が思い込みで動くのは、それが案外間違えないからだ。人間の本能というのは素晴らしいもので、それがぐるぐると人間の下部で(例えば恐れとして)駆動しては個々人の安全をある程度は守る。また興奮に基づく幻想も作り出す。ソクラテスは幻想の中で思考を巡らすように、理性に本能を持ち込んだのではないか。動物的生物の本能には無知の知はないとすると、動物の体である人間がその動物性を、本能を理性で理解しようとして理性が本能を引き込み、理性の内に本能を孕むようになった。
まさにそのような記載が『悲劇の誕生』にもある。

すべての生産的人間の場合には、本能がまさに創造的肯定的な力であって、意識は批判的かつ諫止的に振舞うにもかかわらず、ソクラテスの場合には、本能が批判者となり、意識が創造者となる

『悲劇の誕生』p.116

上の「擬似的な信仰」、妄想、思い込みがなぜ起こるのかということの答えが今回の読書によって少しでも前進したらと思う。というか、たぶんその理由までは到達しないのだろうけれど、ともかくそれが何なのかについて、神話信奉者のニーチェの議論からより深く知ることができるのではないか。
恐れだけが私たちの答えではないはずだ。本能が批判することで私たちは喜び、「擬似的な信仰」を強化して妄想をふくらませるのだろうと思う。が、では一体どのようにしてか。


さて、私たちが今読んでいるニーチェの『悲劇の誕生』である。私たちが手にしているこの本は全集の2巻目でいくつかの論文が集まった本だ。
タイトル通りの「悲劇の誕生」という論文もあれば「悲劇の誕生の思想圏から」といった周辺議論までまとめられている、主にニーチェ初期の議論が見られる本だ。

今回読み進めたのは「音楽の精神からの悲劇の誕生」の一二節から最後まで。一二節前まではアイスキュロスやソフォクレスの悲劇を分析して、ここからはエウリピデスの悲劇、ひいては当時から権威とされていたソクラテスへの批判を取り扱っていく。

内容に入る前に少しだけ今回の箇所について、感じたことを大枠として書いておきたい。ニーチェは哲学者と言われるがごとく、世界観を持っている。その世界観とは人間は神話に囲まれているということだ。これを時代観としたり、観念とも言いかえても良いかもしれない。が、その言い換えはニーチェの批判している理論的楽観主義に陥っている可能性もある。神話と表現する根拠としては悲劇が呼び出されるからなのだろう。なぜならば実際的に、私たちには最後の最後、つまるところ別れ(=死)しかないがための呼び出しだろう。
悲劇によって神話たるこの世を理解することが可能となるのにもかかわらず、その悲劇を台無しにする考え方がある。それがソクラテスによる理論的楽観主義だ、ということらしい。

さてエウリピデス。その悲劇は前二者とは違って「非ディオニュソスな芸術、倫理および世界観の上に(悲劇を)打ち建てること」(p.105, 丸カッコ内筆者)がエウリピデスの傾向であり、それはソクラテスという「鬼神(ダイモン)」(p.106)の力によってディオニュソスは悲劇の舞台から追放されたと主張する。結果として「演劇化された叙事詩のみ」が残ったという(p.107)。
この付近の文面を読みながら、特に以下「アポロン的なものはいかに戦慄すべき事物をも、仮象にたいするあの歓喜と仮象による救済とによって、見る見るうちに魔法にかけて変貌させる」(p.107)のあたりを読みながら、魔法や変貌という言葉からディズニーを想起させた。
ディズニー映画などソクラテス的な演劇の典型例ではないか。演者が歌い、そこには合唱隊がいない。アニメーションだから、現代の私達から考えれば音声と映像を混ぜ込む以外に方向性はないとはいえ、例えばVTuberを見てみても「俳優そのものになり切ることはない」(p.107)という表現にもうなづかざるを得ない。(VTuberは明らかに中の人の特性、逸話をネタにもする。彼らは完全に世界を映し出すような「音楽」を廃したトークで商売している。)

ショーペンハウアーの引用部分も気になった。音楽が高度に一般的な言語であること、意志の努力、興奮、表現は無限の旋律によって表現されうること、音楽が意志そのものの模写であること、世界が具象化された音楽であること、旋律が現実の抽象物であること、そしてニーチェに決定的に影響を与えた文言でありうる部分は以下である。

概念は、まず第一に直観から抽象された形式、いわば事物の剝ぎとられた表皮を含むにすぎず、それ故全く元来が抽象物であるのに反して、音楽は事物の、あらゆる形式に先立つ最奥の核、換言すれば心臓を与えるからである。

『悲劇の誕生』p.137

なぜ人々はそのような音楽を通じた悲劇を手放したのだろうか。人々は「無限なるものを凝視する普遍性と真理との唯一の範例として直感的に感得せられることをあくまで要求する」(p.144)神話ではなく、「人為的な副次的特徴や陰影によって、あらゆる線の精妙を極めた明確さによって個体的な印象を与え」る「強力な写実性と芸術家の模造力」(p.145)を求めた。ここには科学的な認識や理論的世界観への希求が読み取れる。
そう。我々は科学や理論的世界観を求めているのだ。そうやって人は思い込みや「擬似的信仰」に引きずり込まれていく。だがそれは疑似であって本物の信仰ではない。歴史的な多数の人間に検証された信仰の形態を持たないがゆえに間違いが多分に含まれてしまう。

理論的楽観主義はその快楽や認識によって生の傷を癒やしうるとする妄想を起こす。誘惑的な芸術の美のヴェールや現象の背後には永遠の生があるとの形而上学的慰めが人々をある種の監獄へ叩き込む。本来であればこうした刺戟剤は高貴な天性の人が生存の重圧に際して利用するものであったのだが、それを一般の人々が文化として享受するようになった。
アレクサンドレイア的文化に馴染む人間、悲劇を殺そうとする人々、そういった事柄がなぜ発生するのか?なぜならば人々は道徳的だからだ。甘美な事柄だけではない、無慈悲な暴力や圧倒的力で敗北することも、すべてを含む悲劇を受け取るわけにはいかないと判断した人々は悲劇を論理で殺し始めた。高等教育機関の教師すら妥協してギリシア的理想を放棄した。

この他にもオペラやドイツについてなどいくつか論点はあるけれど、長くなった気がするので一旦今回は割愛したい。とにかくも、擬似的な信仰によって私たちは「論理武装」するのだが、ニーチェにとってはそれは監獄であり、ただ捉えられているだけでそこから抜け出そうとしたことに着眼したように思われた。そんなニーチェが「自由主義」を批判しているのも面白い。言葉で「たが」がはめられているとでも言えるのだろう。

信濃さんへの質問を最後にまとめて今回の文章を締める。
我々もこうした試みにまだあまり慣れていないこともあるし、すれ違いをなるべく起こさないように基本的なところから話をすり合わせたいとも思っています。
1.ニーチェの哲学について、どのあたりが気に入ってますか?何か信濃さんの気になるポイントはありますか?
2.私は今回の読んだ論文の問題点として、まずもってドイツを理想視しすぎたところがあるかと考えたのですが、いかがでしょうか。その他になにかあると思いますか?(書きながら、結局ニーチェは哲学しか主張できなかったところに弱さがあるような気もしてきました。つまり具体的に何が起こるのかを主張できなかったのではないでしょうか。これもまた一つの妄想ですが、人は論理で神話を殺すから、逆に神話を、あられもない悲劇や暴力を現実に求めて起こしてしまうのかもしれないと思いました。しかしそれはなぜなのか?)

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