廣松渉の存在について
我々は廣松渉「新哲学入門」を読んだ。
新書。読みやすいかと思って手に取ってみたが、完全に廣松の文章だった。現代語とは言いづらいと個人的には思う。漢文や欧州語を扱ったであろう知識人の独特の言語に圧倒させられる。
緒論、つまりはじめの章を読んで、まずヒュポダイムという用語についてが気になった。廣松においてヒュポダイムとは「不協和を明識しない信念や知識の秩序態、そこでの基幹的発想の枠組み」(p.5)を指す。私なりに解釈すれば、当たり前の物事、自明の論理といったところか。
哲学とはヒュポダイムを疑い、吟味し、新たなヒュポダイムを何よりも早く提唱する学問だという。哲学は当たり前なことを疑うだけではない。それだけではなく、新たな「当たり前」を考え出して提唱する。
さて、このような序章の後で、三つの章が展開される。
第一章 認識するとはどういうことか
第二章 存在するとはどういうことか
第三章 実践するとはどういうことか
今回は第二章のはじめの部分を読んでみようと思う。
存在するとはどういうことか
おおよそ「存在しているなあ」と思うときというのは、とりあえずは見えているときだろう。さて、では「向きを変えたり目を瞑ったり」(p.115)とにかく何らかの障害で見えなくなってしまうとどうか。
もちろん、「あそこにあったのだから、まぶたの裏にはあるよなあ」とか、「横を向けばあるよなあ」とか思う。「見える・見えないということと存在する・存在しないということは別であることがここに知られ」(p.115)る。
「距離や角度に応じて変わるその都度の見え姿の変貌・相違にもかかわらず自己同一性を保っている」ものが実在物だとされるのは、ごく自然なことだ(p.116)。
さて、とにもかくにも見えるものが実在するのだとして、どのような見かけであれば実在するということになるのかを説明しようとするのは、どうも存在の説明としては狭すぎる。ということで廣松は存在についての議論を深めてゆく。
所与と所識の関係について
さて、この文章では第二章から説明しているのだが、議論を戻して第一章での認識について。そこでは所与と所識の関係が議論された。所与とは前々から与えられる認識であり、所識とは後から知(識)ったことだ。
さて、上記から考えて実在するというのはとりあえず見えるものだった。見えるということは、生まれた後に見えているということであり、所識だ。であれば実在とは所識なのだろうかというと、そうではない。所識には「イデアール=イルレアール」「"超時空的"な存在性格」が生まれるのだった(p.120)。
後から知ることというのには、「あるべき姿」と重ね合わせるようにして見てしまうのが人である。
例えば犬。人は世界のすべての犬を見て回ることはできない。だが、出会う犬に対して、これは犬だと認識することは十分可能だ。とすると、犬という言葉には普遍的な側面が存在するといえる。言い換えれば、犬というものを知る前から与えられる何らかの犬に関する認識(=所与)がある、と言わざるを得ない。
このように考えると、所識、つまり後から知ることというのは、所与、前々から与えられている認識から離れることができない、と廣松は主張する(「所与を離れて所識なるものが自存するわけではない」p.121)。
ここで第一章の野球場の例えをもう一度引き合いに出している。先程は犬という概念を例に筆者は所与を説明してみたが、廣松は野球場という現実的な場から所与と所識の関係を表現する。
例えば投手からバッターを見れば、バッターはかなり小さく見える。それは投手とバッターに一定の距離があるからで、当然、投手がバッターを見るときは遠近法的に解釈している。
この時何が起こっているのか。投手とバッターの間の実際の所与の空間/場所に、投手が見た空間のイメージを割り当てている。所与の空間に対して一人の人間が生み出したイメージとしての所識が結合して「”受肉化”している」。そしてこの受肉化したあり方が「実在体」であるという(pp.122,123)。
ここでは単に超時空的な、イデア、概念が扱われているわけではないことに注意が必要だという。所与の現実空間に根ざす後天的イメージとしての所識。この二者の関係性によって実在が生まれるのだ。
最後に
さて、受肉化という言葉を最後に考えてみたい。
受肉というのはデジタル大辞泉曰く「神が人の形をとって現れること」なのだが、おそらく廣松は受肉の文字の意味をそのまま使っているのではないだろうかと想定した。つまり、所与という肉に所識が受け止められる、入り込む様をイメージさせる意図があると思われた。どうなのだろうか。
廣松渉のwikiページによると、受肉化という日本語にはinkarnierenというドイツ語が割り当たっているようだった。
inkarnierenを調べてみると、英語でinstantiateとかincarnateの意味で、具体化するとか、化身、生まれ変わり、転生などの意味があるようだ。
存在をデカルトのような延長や形、位置といった属性にただ分類するのではなく、事物そのものに人間の認識が埋め込まれ、新たに生み出されるのが存在であるとして位置づけたところに、廣松独特の存在理解の一端があるように思われた。