「協力」の次に来るのは「自己を知る」
自分探しの旅。陳腐な言葉といえるかもしれない。多くの人がこの言葉を使っているということは、それだけみんな自分を知りたいということの現れだ。つまり、自己を知るというのは人間の根本的な願いなのだろう。
20世紀最高の霊覚者の一人といわれるエドガー・ケイシーは言う。「わたし達は誰もが、一度も発揮したことのない能力や才能を溢れるほどに自己の内に所有しています」と。そうであるなら、是非とも、この能力・才能がどんなものであるかを知りたい! 「自分自身に対する理解が不十分なうちは、自分自身が自らの成長にとって障害となってしまいます」とも述べているので、自分自身のその能力・才能を知らぬうちは、十分に成長できないということになる。「神の探究」の第二課は、「自己を知る」。じっくり読んでマスターしたい課題である。
ケイシーによれば、わたし達は、自分の内側と外側で起きるあらゆることを把握する能力があるそうだ。知識の泉にアクセスできるということらしい。ただそのためには、自らを清め、捧げ、自己を完全に明け渡さなくてはならないのだという。だからだ!と私は得心した。だから第一課は「協力」だったのだ。そしてそれを踏まえて、次の課題は「自己を知る」。自分の中にそのような素晴らしい能力があることを知るには、100%利他心であらねばならないということなのだろう。つまり、協力の精神を持っていなくてはならないわけだ。前回の記事で、自分を捧げることと自分を大切にすることに矛盾はないことを、「大調和」の概念を用いて書いてみた。第二課を読んでみると、同じような隠喩が使われていた。私たち自身が大宇宙の縮図であること、肉体を構成する部分は調和して一緒に働かなくてはならないこと。どれ一つとっても不可欠で、無意味なものなどないということ。
わたし達は、自分の想いや行為にいつも注意を払わないといけないと、ケイシーは言う。なぜなら、想いや行為がわたし達の肉体・精神体・霊体を形成するからだと。わたし達は、自分が考えているもの、そのものになるという。これは素直に首肯することができのではないだろうか。例えば、腹黒い考えを持っている人は、それなりの人相になっている。いつも不安を抱えている人は、背を丸めて
この第二課の中で、ケイシーが、これはわたし達の義務だと述べていることがある。それは、「自分の言葉と行動が、日頃わたし達がそうありたいと願っているものを反映しているかどうか、言葉と行動が不一致にならないよう、自己を省み、自己を鍛錬すること」だ。ここで注意したいのが、”そうありたいと願っているもの” がどんなことなのかということだ。自分自身の本当の理想を明確にして、それを基準として、言葉と行動を測らなくてはならない。そこで第三課「理想を定める」が登場する。「神の探究」の課題の順番は、うまい具合にできているなと、それだけでもリーディングの奥深さに感心してしまう。
次回は、第二課の注釈に載っている、神の名前 I AM THAT I AM について書こうと思う。