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「協力」と「大調和」

 霊性を開発するための教科書「神の探究」。その第一課は「協力」。

 「自分」という想いをなくし、神の祝福が周囲の人々に流れるための水路として自らを捧げること、それが霊的な意味での「協力」だとエドガー・ケイシーのリーディングは言う。理想の内に自己を失う時、協力は自然に生じる、とも述べられている。

 「神の探究Ⅰ」を読み始めて、私は、まずこの初っ端で躓いた。えっ、自分を大切にとか、自分軸で生きようとかではないの? 昨今のスピリチュアル界隈では、自分を愛そうとか、他人からどう思われるかを気にしないとか、そのようなことが盛んに啓蒙されているように思う。ケイシーの「協力」は、一見、これに相反するように思える。日本エドガーケイシーセンター会長の光田秀さんは、一方的に私がYouTubeで拝見しているだけの間柄だが、しっかりとご自身の信念を貫いているように見受けられる。自己を失うとはどういうことか。自らを捧げることと自分の信念を持つことは矛盾しないのか。

 もやもやとした疑問が胸の内にくすぶったまま数日を過ごしていたが、ある日、なにげなく聞いていたYouTubeの中で、医師であり作家でもある矢作直樹さんの言葉が、ピタッと耳朶に張り付いた。「大調和」。矢作さんの言葉通りではないが、このようなことをおっしゃっていた。私たち一人ひとりは、例えて言うなら、目であり、小指であり、心臓であり、髪の毛であるのだ、と。耳には耳の役割があり、脳みそには脳みその役割がある。すべての臓器や部位は、この身体全体が機能することを共通の目標として、働いているのだ。胃が心臓を羨ましく思い、卑屈になって自分の役割を放棄したらどうなるだろう。食べ物が消化されず、体調を崩し、やがては憧れであった心臓も止まってしまう。それぞれがそれぞれのお役目を果たすことによって、全体の利益なるのである。

 「神の探究」の序章「瞑想」に次のように書いてある。「肉体は、物質界に現われた創造力が集まった一つの統合体」「この肉体の中にすべてのものが存在し、私たちが理解し得る宇宙はすべて、その縮図を肉体の中に認めることができる」。私たちの肉体が宇宙の権化であるなら、この「大調和」の話は、そっくり第一課の「協力」に当てはまるのではないか。

 それぞれの部位が自我(エゴ)を持っていたら、どうなるか。右足は「俺は今、動きたくねーんだよ。おいっ、左足。俺の分まで動いて、走ってくれ」。人差し指が嘆息をもらす。「隣の中指は生意気だわ。私より背が高いなんて。もう一緒に動くのはやめましょ」。これでは私たちの身体は機能しない。各部位や臓器は、自分の役割を知っていて、それをきっちり果たすことで、身体全体の目標であり理想、つまり生命の維持や健康に献身しているのである。理想の内に自分を失うとは、決して自分のことを蔑ろにすることではない。真逆である。与えられた役割をきちんとできるように、自分を知り、自分を大切にすること、それが全体の理想に達するには不可欠なのだ。

 スピリチュアルカウンセラーの並木良和さん、私は彼のことも密かにメンターとして仰いでいるのだが、彼が先日のラジオ番組で、こんなことをおっしゃっていた。「自分の人生に集中しましょう。自分の幸せや豊かさを探求していきましょう。そうすると、嫉妬したりすることなく、他の人たちのことをほっておけるようになります。自分の人生は自分で豊かに、自分で幸せにできるんだということに気付いた人たちが、調和を持って、新しい文明ができていくことができるのです」。

 自らを捧げるとは、全体の調和に貢献すること。そのためには、自分が整っていなくてはならないのは当然だ。自分軸で生きることと大調和は矛盾しない。

 「協力には、具体的な行動がなければなりません」「否定的な思いを、建設的で積極的な思いに取り換えましょう。誰をも咎めず、誰に対しても親切に語り、思いやるようにしましょう」とリーディングは述べている。有言実行。毎日の生活の中で、自分が何を考え行っているのかを観察し、それが自分の最高の意思と目的に調和するように生きていこう! 「わたし達の住んでいる小さな世界は、わたし達がその一部となることで、もっと幸福に満ちていきます」。 そう、もっと幸福な世界になるように!


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