あの頃を重ねて
あの頃
「5年前の自分は他人」だと聞いたことがある。
5年前の2019年2月初旬、私は片田舎の女子高生だった。新型コロナウイルスという言葉が世間に知られ始め、これまでとは違う日常の気配が漂う緊張感のある季節だった。
コロナ禍で人生を変えられた人は多いのではないろうか。X(旧Twitter)で、なんの気無しに当時好きだった米米クラブのファンアカウントで知らない人との交流を始めたのもおよそ冬のことだった。齢21の私にとって「これを聴けばあの頃に戻れる曲」といえば、紛れもなくsûre danseなのだ。
これを聴くと、何度でも稲妻が走ったかのような感覚を思い出す。
夜ヒットで観た二次元から飛び出してた王子様のようなプロポーションと歌声で、おそらく初めて一目惚れをした(そして即日石井竜也氏のFCに入会する。14歳の冬だったか。)
もうアカウントの復活期限はとうの昔に迎えてしまったが、国立大学受験を目指していた戸川純好きの女子高生や、自称武道館アーティストのマネージャー、スケボーと音楽が好きな兄ちゃんにたまに想いを馳せる。どうかお元気で。
耽美な人
SNSでの出会いなくしては、今の私はいない。
5年前からの付き合いという種が、青春病真っ盛りの私には予期できないかたちで、根を張り、土を抜けて、眼前に立ち現れているという事実によって強く感じざるを得ないのかもしれず。奇妙なことに、電子空間で出会い一年もせず疎遠になってしまったその人は、同じ市内の大学に通い、お互いにとって縁を感じる場所で生まれ育っていた。
2つ年上の彼女とは趣味は同じでも信念が違った。親しい人にこそ気を使うか、冗談を多くこぼすのか、それも違った。美醜への執着は共通していても、対象にあるのが外側に見えるものなのか内側から溢れるものなのかも相容れなかった。同じライブを見ていても、アーティストに抱く感情が全く違っていた。
それでも、私に姉がいるとするならこんな感じだったのかなあと考えるほどには親近感のある相手だった。結婚式には呼びたいなあとか。
楽しいことも嫌なこともすぐに口に出す彼女とは違い、私は不快に思ったことをその場で言うことは苦手だ。何を言われたら落ち込むのか、今落ち込んでいる状態なのか、自分でもわからないからだ。いつもと同じように電車で揺られて、自室に戻って、心にモヤモヤしたものがあるなあと思っている状態が続いて、何かの拍子にぷつりと切れる。
突然涙が出ること、増えた白髪、夜な夜な寝ずに何かを書いたり話したり、自分が言葉に詰まっていることや、なんとも言えない表情になっていることを指摘されて初めて無理をしていたらしいということに気付く。
自己防衛のための離人感に妙に俯瞰的なのは、そうやってしか生きていくことができなかったからだと小さく声を上げようとも、上滑るだろうか?
次から次に音楽を聴くのも、アニメを浴びるように見るのも、無心でアイドルを眺めるのも、そういったグッズをインテリアやファッションに過剰に取り込むのも、現実との接点をコンテンツに委ねて生きている感じを維持しようとしているからだ。純粋に好きだと思える気持ちのほかには、毎日地に足つけて生活するためのお守りでもあるかのように、自意識を込める。
普通の女の子だから 普通になりたくないけど
個性的なことしてみたい 個性がないから
好きな音楽からこう言われて、そこはかとなく腑に落ち安心できる。
「この曲だけが私のことをわかってくれる」なんてふうには思わないが、特定の音楽を聴くことで自分を内向きにチューニングできている感じはする。
ここまではつらつらと音楽の捉え方の話をしたが、なんとなく、こういったものの見方と人への接し方には相関があるような気がしてならない。だから、こうやって音楽を機能として見ている私は、ある人からすれば「冷たい人」であることに仕方がない。ごめん。
今なら分かる。あの人は自分を大切にするために、そして私を傷つけないように、忽然と連絡を絶ったのだ。悲しさや憤りは感じない。強さ、優しさすら感じる。正反対だからこそ惹かれたし、自分に欠けている視点を一緒にいることで養わえた。離れることの勇気、優しさの方角を間違えないからこそ、人はきっと手放すことができる。
変わりゆくものは仕方がないねと
手を放す、軽くなる、満ちてゆく
毎日、藤井風には尊大な感謝を抱いている。普段考えて口にすれば疎まれるようなことを、説教くさくなく、ヒントとして散りばめてくれるような温度のある音楽を聴けることが幸せだ。自分が信じていることが間違っていないと思えるし、それを押し付けないようにしようと律せる。
そして自分の中で、私と誰かとでは、向き合う必要のある課題が違っていて、出会いはそれに気づくためにあるのだろうということが確信めいて感じられる。
印象派の彼女と、海を見てお互いの青い話をしながらお酒を開けた夜。一緒に行ったキャバレーも先日閉業を迎えたそうだ。行きつけと話していた喫茶店、ここ数ヶ月で何度か行くも未だ出会えたことはない。
かと思えば、昨年たった二日間のきっかけで出会えた坂本龍一を愛好する同志とは、境遇も学歴も性別もまるで違うのになぜか毎日会話が続くほどに意気投合している。
教授の音楽がしっくりきたのはつい最近のこと。Perspectiveのリアレンジからは、方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」にも似た無常感が滲む。
YouTubeのコメント欄にあった以下の感想にも深く頷けた。
日課のように同じ事をしていても、毎日少しずつ歳をとっていき、目の前の幼子はそれよりも速く大きくなっていく。窓から見下ろした眩しい夕方の人の群れは、もうすぐやってくる別れと夜を暗示している。平安時代から連なる日本の美意識に通じる傑作だと思う。
毎日、窓を開ける。
毎日、歯を磨く。
毎日、新聞を読む。
毎日、あなたの顔を見る。
まぶしい光がかすかに光る。
人が傷つき合って分かれていくのを見る。
おそらくそれが彼らの人生なんだろう。
(縁のあった人に彼の名が入っていたことで他人とは思えない、という個人的背景もありつつ…。)
私生活では問題の多かった教授は、誰よりも自分自身の感性や周りに振り回されてきたんだろうと勝手に感じています。誰もが発する嫌な発言、態度、そのどれもにそうならざるを得なかった過去があるんじゃなかろうか。勿論自分も含めて。
他者の弱さを受け止めたいというのは「わかってあげたい」という傲慢さと表裏一体だ。そして、実は自分が誰より受容をできていないのだと薄々気づいてもいる。
今月、東京都現代美術館絶対に行ってきます。
それは何か自分を受け入れるためのきっかけになるかもしれないですから。
出会いの話でいうと、一年前に友人と立ち寄ったタロット占いバーの店主と気が合い、今月からは私自身もタロット占い師になる予定です(わけがわからない…お店興味あれば紹介します)。 明日も、一年越しに恩師から連絡が来て会えることになった。
まだ人生経験が少ないので、人生の先輩にはたくさん頼らせてもらおうと思う。皆、会うだけで元気が出る人ばかりで私もそうなりたいと強く願えています。
出会い、出会う
あれだけ一緒にいても、出会わない時には出会わなくなる。
どれだけの心配があっても、一緒にいるときは一緒にいる。
と、本心から思えているから、小さな不安はあっても遠くを見れば意外にも落ち着いている。「あなたってネガティブだかポジティブだかわかんないね」と言われたらこう返せる。これが今の私の視点なのだから毅然とした態度でいる以外にしようがない。他者は私にどうなってほしくてそんな言葉をかけるのだろう?とまた頭を悩ませる。
ふと、自嘲的になる私に「何度ひねくれものだと笑われてきたか」と一緒になって笑い飛ばしてくれたあの頃が味方でいてくれる。どこかの山道。ずっと車を走らせていたかった。
そして、他人との比較だと思っているものは、納得のいかない現在地から見たときに過去がちょっとだけ解像度が落ちて綺麗に見えるだけだって、今共にいる人と思い出は比較対象になり得ないことを知っている。
だから、正直そういうことをしている人を見ると的外れだなあと思う。
同時に、それを指摘してしまうことが下世話になることも頭では分かっている。
結局、こういう仕草を受け流すことができるようになること、余計なことは言わず自分の中で納得できてこそ、他者や自分を受け入れられるということだと仮定したい。言わぬが花!
ここまで一貫して、どの人にも、あの頃は良かった、と戻れる過去があること自体について、とても幸福なことだと思っているよ。そこは誤解されたくない。
ドイツの哲学者フンボルトは言う。
幸福な出会いはたいてい人に呼ばれずにやってくるものであり、押しのければ押しのけるほど、いよいよやってくるものなのです。
かつて日本の哲学者、森信三も同様のことを言った。
人間は一生のうち逢うべき人に必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎないときに。
この類の言葉だと、元乃木坂46の橋本奈々美さんが述べた「人は必要な時に、必要な人と出会う」という言葉で初めてハッとさせられた記憶がある。
出会いは必然だ。そして別れもその時が来なければわからない。
私は他者に、他者は私に自らの何を重ねているのか。
優しさとは、素でいるとは、受け入れるとは何か。
本当に受け入れたい自分は、こうやってうだうだ悩み考える私だ。
たれもかも、今を積み、あの頃を重ねてゆく。
いつかくる終わりに多少の安心感を持っても良い。愛は思うままに。
さだまさしさんが『北の国から』について「本当に目を見張るような絶景を眺めた時に言葉なんか出てこない」と言って歌詞をなくしたと聞いた覚えがあるが、小川美潮さんの『On The Road』もまた、天女が羽衣で全て包んでくれるかのような調べに涙もそのままに身を任せることができる優美な作品の一つだ。
先々月、勢いのままに当日券とって青山のライブハウス(月見ル君思フ)でお目にかかれて光栄だった。良いヴォーカリストとか良い音楽ってこういうことだと思うわ。
誰といたいか、とか、この人のこと苦手だなあとか
判断するにはまだ時期尚早で。
淡々とかつ能動的に因果を見ていく。さすれば、
走り出した午後も
重ね合う日々も
避けがたく全て終わりが来る
きっと、満ちてゆける。