【小説】 旅草 —呪いと狂気の夢の国 千輪桜 前半
一頁
白レンガの隙間から、炭のごとく黒い秋桜が無限に咲き乱れている。
それは、地面だけではない。建物の外壁のレンガの隙間から、はたまた、三角の屋根の瓦の隙間から、気が狂うほどまでに咲き乱れ、まるで自らの意思を持っているが如く、風も吹かないこの街で、ゆらゆら、ゆらゆら、楽しげに揺れ踊っていた。
そんな楽しげな街には、自我を持たず、ただフラフラと街を彷徨うだけの奇妙な者共がいた。
その街のもっとも|奥の位置にそびえ立つ、洒落た高い塔のとある部屋。
日付も時刻も知らないが、皆で食卓を囲み、晩餐会が行われた。
「ああ、私の 愛しき姫 お姫さま〜♪」
「……私は……あなたを……愛してい……ます〜」
「いつ何時も あなたのことを 愛しお守りします〜」
「なぜなら あなたは 可愛い姫 ♪」
『ああ、我らの 愛しき姫 桜姫〜』
「そうよあたしは〜 かわいいひめ
みんながあいしてくれる まもってくれる〜
だってあたしは おひめさま〜」
二頁
大きな食卓には、五つの椅子が並べられており、その椅子に座る五人で卓を囲っていた。
歌い終わると、姫と呼ばれていた、紫色の猫の縫いぐるみを抱く少女は満足げな笑みを浮かべた。
「みんな、大好きよ」
すると、姫のすぐ隣に座る女が、姫に駆け寄ってぎゅーっと抱きしめた。
「うちもよ、桜姫♡」
「ふふ、ありがと口奈」
口奈と呼ばれた女の髪は、まるで自我を持っているが如く縦横無尽にうごめいていた。その先には、蠅捕草を思わせる大きな口がついている。
「ぼ……イー! ……僕もですっ!」
言動を乱しながら言う、若い男。男の頭には、触覚の如く釘が二本刺さっていた。額と右頬には縫い傷がある。
「ありがと釘宮」
「イッ! ……いえ」
改めて桜姫は、皆に話した。
「今夜の晩餐は、とっても面白いものになるわ。あたしたちの目的とする彼らを、ここに招待したのだから。手厚くおもてなししてあげなきゃ」
「ええ、姫様。この闇小路箱斗、貴女様のために尽力を尽くして参ります」
きっちりと身を固めた老紳士は、桜姫に忠誠を誓う。
「桜姫、目的は月姫の討伐だよね」
口奈とは反対の、桜姫の隣に座る少年が言った。
「そうよ、蓮くん。太陽の力と月の力、それから、色の力も、あたしたち闇の力の大きな障害となる。闇奈緒様の命は、闇の力の妨げとなる存在の撲滅だから、色の彼も一緒に倒しましょ。ついでに、他の二人もね」
「分かった。姫のためにがんばるよ」
「ぼ……僕もです!」
「うちも姫をお守りするわ」
「ありがとうみんな。これからがたのしみだわ」
ここどこ?
気がつけばアタシは、知らない不気味な街にいた。街路や建物の壁は、白いレンガが敷き詰められている。かなり文明が発達した街のようだが、レンガの隙間からは、花びらも茎も葉も全身が黒い不思議な秋桜が大量に生えていた。
しかもそいつら、風もないのに不自然に揺れていた。訳がわからなくてゾッとする。
覚えているのは、恵虹と一緒に謎の黒い箱を開けて、すぐに意識が飛んで、ここに来ていた。あの箱を開けたせいか?
それなら、恵虹もここに来ているはず。
恵虹は?
その時、背後から「ヴー」と低い呻き声が聞こえた。
バッと振り向くと、肌が酷く黒ずんで、シワシワになっている人たちが、ぞろぞろとアタシに迫ってきていた。頭には、そこら中に咲いている秋桜が、一輪ポツンと咲いていた。
「な、なんだコイツら!?」
でもまずは、あれが恵虹じゃなくてよかった。しかし、迫られていい予感がしなかったから、奴らの反対方向にビリビリ飛ばして逃げた。
すると奴らの呻き声は、獰猛さがぐんと出て、足も速くなった。
もちろん、アタシの雷速には敵わないが、逃げている方向からも、同じような奴らが迫ってきた。
逃げ道がなくなったアタシは、空高く昇って、高い建物の屋根の上に着地した。
ああ、おっかねぇ。アイツらはまるで理性を無くし、人に襲いかかるだけの怪物だ。
三頁
「ぎゃああああ!!!」
「きゃああ!!!」
歌龍と葉緒だ。二人もこの街に? そんで、この化け物たちに襲われてる? すぐに助けに行かなきゃ。
なんなんだここ!!
黒い秋桜が咲きまくっている妙な街で、俺は奇妙な奴らに追いかけられていた。
記憶が曖昧だ。どうして俺はここに来た? なんでこんな目に遭っている?
これは夢か? 悪夢か? そうなら今すぐに目覚めたい!!
しかし、覚めないどころか、悪夢の恐怖度はさらに増していく。さっきまで、生命力を失ったようにぞろぞろと歩いていた奴らは急に様子が変わって、猛獣のように激しく唸り、動きも速くなった。本気を出した葉緒のように、ピョンピョン跳ねた。
「ヴー!!」「ヴー!!」「ヴー!!」
こりゃあ無理だ!! アイツらから逃げ切れる気がしねぇ。俺は埜良や葉緒みてぇに高速で動く術も、敵に太刀打つ術もねぇ。俺にできることは、琵琶を奏でることだけだ。今ここに琵琶はねぇから、それすらできない俺は、もう終わりだ。
頭は濃霧が現れたが如く、真っ白だ。
……もし、コイツらに捕まったらどうなるんだろう。
そんなことさえも思った時、後ろから強く押し倒され、地面に強く顔をぶつけた。
いってぇ!
それだけには止まらず、怪物共は俺の体に次々とのしかかってきて、圧迫する。
お……重い。
唯一自由に動かせる頭を横に向けて見ると奴らの顔が、俺の顔に迫ってきていた。
な、何する気だ、コイツら!?
【雷虎の爪!】
瞬間、俺を襲う化け物共は、雷撃に晒された。
『ギャーーー!!』
しかし俺は、微塵も痺れていない。
「おらぁ、歌龍から離れろ!」
俺の上にのしかかっていた奴らを蹴っ飛ばし、その顔を見せた。
「埜良!」
「歌龍、大丈夫か?」
久々に見た馴染みある顔に、俺は頑丈だった恐怖の檻から一気に開放された。
安堵のあまり、埜良に泣きついた。
「うわあーーん! 埜良〜。こわかったぁ〜」
埜良はため息をついて屈み「無事でよかったよ」と頭を撫でてくれた。
恥ずかしいことだっていうのは分かってる。俺の方が年上で、男なのに。
「……わりぃ、埜良。情けねぇよな。年下の娘に泣いてすがって、恥ずかしい」
四頁
別にいいんじゃないの? アタシが年下だろうと女だろうと、怖い時には誰かに泣いてすがっちゃえばさ」
「……そう?」
「それなら、恵虹だったら泣きつくことも抵抗なくできるの?」
「……それは……」
どうだろう。流石に今みたいにピーピー泣きつくことは、やはり憚れるだろうが、多少の弱音なら吐きやすいだろうか。
そもそも、他人に弱いところを見せること自体が情けない。俺はあの龍のような勇敢な男になるんだ。
俺は立ち上がった。
「行こう埜良、葉緒や恵虹もこの世界にいるのか?」
「きっとね。葉緒は声聞こえたから確かよ」
「じゃあまずは、葉緒と合流だ」
「ねぇねぇ、お姉さん、お兄さん」
『?』
【月来香の馥郁〜うたたね〜】
パン。と手を鳴らせば、辺りには月来香のお花の香りが広まって、それをかいだ人たちはみんな、気持ちよさそうに眠っていく。
申し訳ないけれど、彼らに捕まってしまうのは良くない気がする。今の技で、たくさんの人たちが眠りについたけれど、まだまだたくさんの人たちがいて、みんなが葉緒をねらっていた。
葉緒は、パンと手を合わせて、唱えた。
【月兎の脚】
葉緒の兎人族の脚をさらに月の兎さんたちのような俊敏な脚にする。
葉緒は、立派な建物と建物のすきまに入って、壁をけってけって屋根の上にのぼった。
屋根の上にも黒いお花が咲いていた。お花たちはみんな、楽しそうに踊っていた。
「楽しそうだなぁ」
するとぴくんと耳が何かを察知した。正面を向くと、六本の黒くて鋭い物が飛んできた。
「きゃあ!」
慌ててすぐに、頭を低くして、それをかわした。
顔を上げると、道を挟んで向こうの建物の屋根の上に、大柄な男の人が立っていた。
「呪う!! 呪う!! 呪う!!」
そう叫んだあと、両手の指と指の間に六本の釘を出して、葉緒をねらって三本ずつ投げてきた。
葉緒はあわてて、飛んでくる釘をかわした。
どうしよう……。葉緒からも何か攻撃した方がいいかな?
……いや、だめだ。玉兎様からもらった力を傷つけるために使ったら。月の力は、人を癒すためにあるんだ。
ここは逃げよう。
そして、建物と建物の間を飛び越えて、釘の彼から距離をとる。
五頁
【屈曲の呪い】
葉緒が着地して走っている建物が急にぐにゃりとまがった。葉緒は屋根からはじきだされて、落っこちてしまった。
この高さから落ちてしまっては、無事じゃすまない。
あぶない! と思ったけれど、途中で誰かがうけとめてくれた。
目を開けると、ふわふわと優しい顔をしたきれいな人だった。
彼は、空中を駆けているようだった。それだけでも驚きなのに、彼の腕は四本あった。葉緒を抱える腕とは別に、左右二本の腕があり、その手には鉄砲を二つ持っている。
「ヴァー!」「ヴァー!」「ヴァー!」
下の人たちが、葉緒たちを目がけて飛び上がってきた。すごい脚力で、葉緒たちに届いてしまう。
葉緒を抱える彼は、さらに高く飛んで、飛んでくる人たちを持っている鉄砲で狙い撃つ。
【恋染め堕栗花】
鉄砲から放たれる赤紫色の淡い光で、飛んでくる人たちの胸のど真ん中を貫く。撃たれた人たちは、何の抵抗もなく落ちていく。
その身のこなしは圧巻で、一人もこぼさずに撃ち落としてしまった。
「イー!」
あっ、釘の人。彼はまた、六本の釘を放った。ここは葉緒が——。
【爆恋タイフーン】
鉄砲から放たれたのは、赤紫色の淡い光の今度は渦だった。渦は、向かってくる釘たちをさらって、そのまま釘の彼のもとへ、曲線を描きながら進んでいく。
【打ち消しの呪い】
釘の彼は、渦に向けて一本の釘を飛ばした。釘が渦の中に入るとその一瞬でパッと渦が消えた。唯一残った釘は、そのまま葉緒たちに向かってくる。あれに当たったら、葉緒たちも消えちゃうのかな?
赤紫色の彼は、ヒョイと飛んで釘をかわした。釘の彼は、別の方向から来た同じ渦に巻き込まれてどこかへ行ってしまった。
赤紫色の彼は、鉄砲を二つ持っている。飛んできた釘に向かって撃った少しあとに、もう一つの鉄砲を横に撃った。急に何もない横に撃って、どうしたのだろうと思ったけれど、釘に向けて放たれた渦よりも、さらに歪な曲線を描いて、釘の彼に当たるのを遅らせたんだ。
つ、強い。
「ったく、可愛い娘を消し去ろうとするなど、外道め」
可愛い……?
彼はまるで、本に出てくる王子様のようだった。
夢の中の王子様……!!
六頁
「おれと遊ぼうよ」
俺と埜良の前に現れたのは、二つ目の黒鬼の少年。闇を信じているようで、髪も目も大方真っ黒だが、髪の毛先は明るい橙色に染まっていた。
声も様子も明るげだが、どこか怪しい。
「遊ぼう」と誘う少年に、埜良は尋ねた。
「あんた誰?」
「おれは蓮。ねえ、遊ぼうよ。おれの自慢のカボチャでさあ!!」
【爆ぜカボチャ!!】
最後は叫ぶように言い放つと、空中に四体のカボチャの|化け物を出現させて、俺らを狙って放った。
「ケヒヒヒヒ!」
埜良が俺を抱えて、光の速さでカボチャをかわした。外れたカボチャどもは、落ちた地点で大爆発を起こした。
埜良はそのまま、蓮から離れた。
「戦わねぇのか?」
「うん、アタシらには、あいつを倒したい理由もないし」
「まあ、そうだな」
「ばあ」
目の前に蓮が現れた。埜良の意に反して、コイツの方はヤル気マンマンだ。
「ねぇ、どうして逃げるの? おれと遊ぼうよ」
「“遊ぶ” って何? 戦いならやんないよ」
「なんで? やればいいじゃん。楽しいよ」
「あのね、蓮。アタシは雷なの。とってもビリビリするの。痛いの。熱いの。死んだりもするの! 危険すぎるわ」
埜良の主張を聞いた蓮は俯いた。「へえ、そうなんだ」と、意外と素直なヤツらしい。
「だから楽しいんじゃん」
ヤツは不適な笑みを浮かべた。そして、浮き上がって、カボチャの化け物どもを次々に現して、勢い任せに放っていく。
【爆ぜカボチャ——連打】
「いいじゃん、いいじゃん! やり合おうよ! その身朽ち果てるまでさあ!」
ダメだ、コイツ! ガチで狂ってやがる!
埜良は俺を抱えつつ、爆風の中をかけていく。周りのしわくちゃなやつらがその爆風に巻き込まれて、ことごとく吹き飛んでいく。
光の速さで逃げていく埜良。またもや先回りする形で蓮が正面に現れた。
埜良ができねーなら、俺がやるまでだ。琵琶は鳴らせなくとも、音は出せる。俺は、すうと息を吸って、声を発した。
七頁
鹿の如く甲高く、アイツの気を飛ばすような、凄まじい声を。
普通ならこんな声は出ないし、出しても喉が死ぬだろうが、俺は音の神を信じ、音の力を手に入れた。頭で思い描くだけで、異常なほどの金切声も、耳が壊れるほどの大音量も、簡単に発することができる。
神の力、万々歳だ。
声を止めて目を開けると、蓮は倒れて、気を失っていた。
よっしゃあ、倒した! そう思ったのも束の間、俺は埜良の腕から落ちて、地面に顔をぶつけた。さらにその上に何かが倒れてきた。もちろん埜良だが、それを見た途端、俺は青ざめた。
「の……埜良!」
蓮を倒すつもりが、味方の埜良も巻き込んで、一緒に倒してしまった。そんなつもりじゃなかった。でも事実、仲間に危害を加えてしまった。
俺はなんて無能なんだ。全く役に立たないどころか、足でまといで、超危険な爆弾でもある。なんて最低なんだと、自分が情けなくて、悔しくて、腹が立って、悲しい。
「ごめんよ……埜良……ホントにごめん……」
「歌龍くーん!」
「……葉緒!」
葉緒が謎の男に抱えられてやってきた。男は、赤紫に、青色が差し色として入った派手な髪をして、腕が四本生えた奇妙な姿をした霊人だ。
「大丈夫か」
「! 埜良ちゃん!」
葉緒は、倒れている埜良に気づくと、すぐさま男の腕から飛び降りて、埜良のもとへ駆けつけた。
「埜良ちゃん、大丈夫? 誰にやられちゃったの?」
「……俺だよ」
「え!?」
「ヴァー」「ヴァー」「ヴァー」
こうしている間にも、しわくちゃなヤツらが迫ってきていた。
いつの間にか、腕の数が二本に減った男が、手に持つ二丁の銃でそいつらを狙撃する。
「とりあえず、どっか、建物の中に入ろう」
と言って、片方の銃をパンと鳴らした。すると、俺らの近くにソリが現れた。ソリを引く動物は、羊のような、象のような、豚のような、奇妙な生物だった。
「な、なんだ、コイツ」
「早く、荷台にのりむんだ」
「あ、ああ」
俺は埜良を抱え、ソリの荷台に乗せた。「あ、あの子も!」と葉緒は蓮のところに駆け寄って「うんしょ」と持ち上げる。すると、ソリが動き出した。謎の生物が、葉緒のところに駆け寄ると、葉緒は蓮を埜良の隣に乗せた。
葉緒の無垢純粋な優しさが、俺の心をさらにえぐった。蓮を倒したことにも、もうちっとも喜べなかった。
視界が開かれると、見知らぬ天井がそこにあった。
八頁
「……知らない天井だ」
何故だか、天井には、全身が黒い秋桜の花畑が広がっていた。
ここはどこだろう。そして、額に並ただならぬ開放感を感じた。前髪を上げられて、髪留めで止められていた。それはつまり、私の三つ目が晒されているということだ。
私は慌てて起き上がり、髪留めを外し、前髪を下ろした。
誰かに見られていなければいいが、こんなの誰かが故意的にやったものだろう。その者には確実に見られている。
……どうしよう。と項垂れた。
「あ、おきた。ふたりきりになりたいから、口奈はみんなをてつだってきて」
「了解したわ」
几帳の向こうから、二人の声が聞こえた。一人は幼い少女。もう一人は大人の女性。
「もー、かってにまえがみおろして」
少女は、そう言ってから、几帳の中を覗いた。
「せっかくあたしがかわいくしてあげたのに……」
彼女はふくれっつらで入ってきた。
「すみません、額を晒されるのは嫌なので」
「なにがいやなの?」
「生まれてからずっと隠してきたので、今さら晒すのには……抵抗感が……」
ドスン。
彼女は、押し倒すように、私の胸の上に飛び乗った。そして、両手で頬を挟んで言った。
「ずっとかくしてきたもの、いまさらしたらいけないの? ここはあたしたちのあくむのなか。かみさまもだれもみていないから、なにをさらしてももんだいじゃないわ」
「……」
「まあでも、いまここで、あたしがあなたのいのちをちょうだいしたら、げんじつのあなたもしぬんだけどね♡」
「え!?」
「ふふふ。あんしんして、いまはまだとらないから」
今はまだって、いつかは殺すつもりなのだろうか。色が見ていないとなると、戦闘となった時にだいぶ不利だ。
「あたしは、桜姫。あたしと遊びましょ?」
ポロロン。ポロロン。
「好きなことはなに?」と尋ねられ、「琴」と答えると、部屋にあった琴を用意され「ひいて」と頼まれた。
琴を弾くのは好きで、気が向いたときに弾いていた。それくらいで、得意と胸を張って言えるほど、上手いわけでもない。ましてや、楽譜もなにもない状態。弾けそうな曲は限られてくるけれど。
私は、とりあえず爪をはめた手で、弦に触れた。
九頁
「 あめ あめ あめが まい おち た
あめ あめ あめが まい おち た
あめ あめ あめが まいおちた
あめ あめ あめが まいおちた
あめ あめ あめは だいちうるおす
あめ あめ あめは だいちうるおす
あめ あめ あめは こころうるおす
あめ あめ あめは こころうるおす
あめ あめ あめが まいおちた
あめ あめ あめが まいおちた 」
すごく単純だ。歌の詞も、琴の音も。単純だからこそ、ひとつひとつがまっすぐに突き刺さる。
今まで聞いてきた楽器の演奏は、どれも複雑で、豪華で、高度なものばかり。それらが嫌いだったわけではないが、ここまで深く刺さったことはあったか。
彼の顔を見ると、ほろり、ほろりと涙を流していた。一つ、二つ、三つの眼から、自分と同じように。
「どうしてないているの?」
自分のことは差し置いて、彼に尋ねた。彼は恥ずかしそうに答えた。
「過去を思い出してしまって。幼き私が泣いている時に、母がよく歌ってくれました」
いいなぁ。彼には愛してくれる母親がいるんだ。
「まさに私にぴったりの歌で、今も心が震えます」
「どうしてあなたのおかあさんは、そのうたをしってたの?」
都合いい話だ。三つ目なんて、滅多に生まれないもの。母親は自分の子に生まれてくると予知していたのだろうか。
「私も気になって尋ねてみたのですが、幼い私がほんのささいなことで泣いて、困っていた母の頭に舞い降りてきたそうです。母は、歌の神様が贈ってくれたのではないかと言っていました。母が信じているのは、風の神様なのですが。
先日、歌および音の力を司る神様が管轄する島を訪れたので、尋ねてみました」
『私の母が、幼い私《わたし》をあやす時に歌ってくれた歌、あなた様から授けられたと言っていたのですが、本当でしょうか?』
歌龍さんの故郷である音虫村のある島、響芸。その島を管轄する音の神様、沙楽様が祀られている社にて、私はこのようなことを尋ねた。
沙楽様は、私の前に姿を見せてくださり、問いに答えてくださった。
『ええ、そうよ。三つ目の子を持つって、二つ目、一つ目の子を持つこと以上に神経をすり減らすから、特別にね』
『しかし、母も父も、あなた様を信仰しているわけではありません。あなた様がさようなことをしてくださる義理はないはず』
『いいえ、義理ならあるわ。音楽というのは、人を励ましたり、活気づけたり、癒したりするためにあるの。私は、音楽の力で元気付けたいと思った者がいれば、その者の近くにいる私の信者を働かせたり、私が直接、脳内に歌を送ったりして、民草に歌を届けているのよ。それが、音や歌の力を司る神の責務だと思っているから』
そして、沙楽様は、私の母に授けた歌にまつわる話をしてくださった。
十頁
『もう二百年以上前になるわね。あなたと同じように、よく泣く三つ目の子がいたの。黒鬼が世を統べるようになる以前も、三つ目は災いを招くとして、忌み嫌われていて、三つ目の子が生まれた親は、額の眼を隠さなきゃと必死になる。
三つ目の子は、他人に涙を見せてはいけない。額の眼からも涙は零れる故に、泣けば三つ目であることが知られてしまう。
母親は三つ目の子が泣くのを嫌がるのだけれど、その子はよく泣いて、母親は困り果てていたわ。そこで、親子の近隣に住んでいた音楽家の私の信者に向かわせたの。彼が三つ目の子とその母親に向けて作ったのが、その歌よ』
『雨 雨 雨が 舞い落ちた
雨 雨 雨が 舞い落ちた
雨 雨 雨が 舞い落ちた
雨 雨 雨が 舞い落ちた
雨 雨 雨は 大地潤す
雨 雨 雨は 大地潤す
雨 雨 雨は 心潤す
雨 雨 雨は 心潤す
雨 雨 雨が 舞い落ちた
雨 雨 雨が 舞い落ちた 』
「そのおんがくかのひとは、みつめをみても、なにもおもわなかったのかしら?」
「それも尋ねましたが、問題はないと思います」
『大丈夫よ。私の信者に、差別や偏見なんてあり得ない。そんなもの、この私が許さないから』
そう言った時の、場の重圧感はもの凄かった。
(お、恐ろしい……)
「あのお方に背けるような強者など、滅多にいないでしょう」
「そうなの。いいね、きみは。ないているときにあやしてくれるようなおやがいて」
「……桜姫にはいないのですか?」
「うまれてからずっと、かおもみたことがない」
私は、彼女の頬に触れようとした。しかし、その意図を感づかれたのか、手を振り払われてしまった。
「かってにひとのかこをせんさくしようとしないでよ」
「す、すみません。……では、もう一つの特技の方をしてもいいですか? 寧ろこちらが本命ですので」
「かまわないわ」
「ありがとうございます」
私は感謝の意を述べて、取り出したのは、彩色の杖。
十一頁
「……それはなに?」
杖を見た桜姫は、やや身構えた。
「とある猫からもらった、特別な力を宿した杖です。あなた様に危害を加えるつもりはありませんので、ご安心を」
それでも桜姫に、警戒を解く様子は見られなかった。
「とりあえず、見ていてください」
そう言って、適当に杖を八の字に動かし、唱えた。
【白の帳】
わたしはいつの間にか、家具も何もない、純白の空間に身を置いていた。目の前には、彼がいた。
「白という色は、“潔白” という言葉があるように、清らかさ、素直さを象徴する色です。一度全てを吐き出して、心を洗浄するのはいかがでしょう」
…どうしよう。無性に全てを吐き出してしまいたくなった。いつか彼に話したいと思って秘めていたあれこれを。
「ここには、私とあなた様しか居りませんから、ご安心を」
「……わたしは……僕は……両親を、奪われたんだ」
一人称が変わったと思えば、その姿が変化した。福楽実の国で初めて姿を晒した、コウモリの彼だった。そんなことよりも、衝撃の話が彼の口から飛び出した。
両親を奪われた?
「誰に?」
「闇奈緒様にだ」
「!!」
「色彩宇宙殿に対抗するための黒鬼の三つ目が生まれて、大層喜んだのだろう。震え怯えながらも、我が子を必死で守ろうとする僕の両親を惨殺し、僕を手中に収めた」
赤ん坊の頃は、乳母を用意されていたが、ある程度動けるようになり、言葉も覚えた頃になると、闇奈緒様による教育が始まった。
「闇奈緒様は、僕を屈強な黒鬼にするべく、泣くことや他に甘えること、我がままを言うこと、弱みを見せること、失敗すること、怠けること、悩むことすら許されなかった。
反すれば、厳しい罰が下される。顔や身体を殴られ蹴られ、生傷が絶えないのが日常だ。
初めは食事もろくに与えられなくて、ひもじかった」
「それは酷い。そんなやり方じゃ、寧ろ卑屈で貧相な子に育つのでは?」
私がそう言うと、彼はかすかに笑みを浮かべた。
「幼少の頃は、黒鬼家にいたのだが、そのようなことを闇奈緒様に申したお方がいた」
「え、闇奈緒に意見した者がいたのですか?」
「ああ、その方はまさしく猛者と言える。武術も学術も笛の腕も優れていて、それでいて勇敢で心の優しいお方だ。非の打ち所がまるでない。あるとするなら、完璧過ぎて妬ましく思うところかな」
「す、すごい」
(私よりも何枚も上手だ)
「彼は僕のことも気にかけてくれて、そのおかげで僕はいくらか楽になった。でも、苦しい日々だったことには変わりない。何より苦しいのは、誰からも愛されなかった」
「誰からも?」
十二頁
「そうだ。僕に親切にしてくれたあの方も、僕を置いてどこかへ行ってしまった。僕のことよりもずっと大事なことがあったんだ。僕を本気で愛してはいなかった」
「そんな!……」
「そうだよ。お陰で僕は、闇奈緒様から暴力を受けたくないと、抱く悲しみや孤独、助かりたいといった欲なんかを闇の力で封印した。
それに比べて君はいいね。君を愛してくれる母親がいて。泣くことも許されて、子守唄を歌ってくれて。信仰してすらいない神から、歌が贈られて。しかも、色彩宇宙にまで守られて。
神の中でも最上位にある存在で、この世界を創った宇宙という存在は、祈ったって簡単にその加護を受けられるわけじゃない。
なのに君は、祈ってもいないのに、霊人の三つ目に生まれたからという理由で守られて。
君は恵まれてるね。生まれながらの勝ち組だね」
「違う! 色はそんなんじゃっ……」
「僕は黒鬼の三つ目に生まれたから、闇奈緒様に奪われて、地獄の日々を送ってきた。
僕は生まれながらの負け組さ。全くの同じ日に生まれたのに、どうしてこんなにも対照的なんだろうね」
「? 同じ日に生まれた?」
「ほら、音のあの子の母親が言ってただろ? 二十六年前の『鯉登り』は、双龍だったって」
“音のあの子” とは、歌龍さんのことだろう。歌龍さんの母親、鈴止゛无さんは、確かに言っていた。
「『鯉登り』で鯉が登り切った数だけ三つ目が生まれる。双龍が誕生して、生まれた三つ目が君と僕。|魂だけは共通するものが宿ってるみたいだね。
ようやく君に、僕の名を教えてあげよう。姓を誰羽根、諱を出御、字を夜玄だ」
「夜玄……」
私は真っ直ぐ駆け出して、夜玄をギュッと抱きしめた。
「どうして抱きしめるの?」
「何となく。其方からは、その身に余るほどの大きく深い哀しみを感じられる。言いたいことは沢山あるけれど、一番は——この世は自由なんです!」
「……自由?」
「もちろん、人として守るべき道理や神様の定めた戒律はあるけれど、そういう絶対に越えてはならない一線を越えさえしなければ、自分の思いや願いのままに動いたって構わないのです。
世の中のつまらない常識や迷信なんかに流される必要などありません。嫌いなものを無理に我慢し続ける必要などありません。そんなもの、クソくらえです。
自由に生きようと、不自由に生きようと、どうせ最期は死ぬだけですから。だったら、少しでも苦しくならない生き方をしたいです。
彼方の人生だって、幾ら辛いことばかりだったとしても、投げやりになって、全てを包めて “負け組” だなんて、決めつけてはいけません。
たとえ長く続かなかったとしても、些細なことだったとしても、幸せな瞬間や彼方を大事に想ってくれた人もいたのでしょう、それを蔑ろにしてはいけません。
彼方が一方的に “勝ち組”だと決めつけた私の人生だって、苦しいと思ったことなど星の数ほどありました。それでも、些細なものから大きなものまで、幸せだと思った時も沢山ありました。故に、私のこれまでの人生は総じて幸福だったでしょう。
大事なのは、自分がどう捉えるかなのです」
「え……なにそれ……なにそれ……」
夜玄は、動揺していた。私は、彼の身から離れて【白の帳】を解除した。
「どうです? 少しはスッキリしましたか?」
「うん、ありがとう。やっぱり、名を名乗る必要はなかったな」
「え……?」