【小説】 旅草 — かつて栄えた島 神月
一頁
果てしない青が四方八方を囲む。この青が果てしないのは、何千何億もの生物が住処とするこの地球という星が、丸い形をしているからだ。四角い虫籠のような、生物を閉じ込める壁などなく、ころころ転がって何処までも進んでいく硝子玉の如く、どれだけ進もうと果てなどない。
果てなどないから、何処までも、何処にでも行くことができるのだ。
何処にも行くことができるのに、地上に住う生物たちは、皆、生まれ落ちた場所地域で一生涯のほとんどを過ごす。
生物の中でも、卓越した知性を持つ人類でさえも、馴染みのある場所から外れることに臆病になりがちだ。
それが当たり前の世の中で、たった一人、“世界を旅する” と決意し、果てのない青へと飛び出した青年がいた——。
果てしない青は、青年の好奇の心を掻き立てた。
そして、記念すべき第一号となる島に、上陸した。
やつの名は恵虹。藤色の長い髪を風になびかせて、紺藍の羽織、和服の下にはフリルのついたシャツ、ボトムスには七部丈のチェックスカート、足にはブーツを履いていた。一見は女だが、やつは歴とした男である。しかし、やつは、性へのこだわりが薄く、どちらにとらえられても気に留めない。スカートも好きこのんで履くという、変わったやつである。
恵虹は、振り返り、降りた船に手を振った。
それからやつは、着物に帯びている棒状の何かを取り出した。花開く数日前の、彼岸花のような形をした、真っ白い筆である。筆と言っても、先に毛はなく、万年筆のように硬くつるつるしている。
その棒は、『彩色の杖』といい、恵虹の使う力を引き出すのに適した、特別な杖だ。これは、やつの師範で、神より偉大な、物凄い猫が授けた品である。
二頁
恵虹は、彩色の杖を使って、自らの持つ力を使った。
【現し絵・白雲丸】
杖を前に出し、ぐるっと円を描くように手を動かすと、やつの目先にもくもくの白い雲の絵が現れた。
するとその雲の絵は、立体感を出し、すぐに空を舞った。
恵虹が使う力は、【色の力】だ。頭の中で想像した色、または絵を具現化し、時に生命体にし、動かすこともできる。
それが今、恵虹が使った【現し絵】の技である。
やつが現した雲には、顔がついており、動くうえに言葉を話した。
「おっす、ご主人!」
話せるくらいの知性を持った生き物ならば、それなりに自我を持っている。
「白雲丸、私を乗せて街を巡ってください」
「かしこまぁー」
白雲丸は、恵虹を頭に乗せて、空高く舞いあがった。あの雲を出すのは、これが初めてではなく、よく空を飛んでいた。しかし、あいつ、雲としては知性があるが、賢いやつかと言われれば、そうでもないな。
島の名前は『神月』といい、月の神が治めている土地である。
恵虹と雲は、廃墟の街を巡り巡って、時折ボロボロの壁に触れて、会話を繰り広げた。
「どこもかしこも酷い有様ですね……」
「家とかボロボロだな」
「今から百年以上前の時代には、すごく栄えた街で、海外からも人が沢山訪れて、賑わっていたようですが」
「それがなんでこんなボロボロに?」
「百年前に、黒鬼族の者たちが世界の中枢都市を征服したあと、この島にも攻め入ったからです」
「えぇ!? どうして?」
「彼らの持つ【闇の力】が、この島を治める月の神様の【月の力】に弱いからです」
「そんじゃあ、攻めても負けるだけじゃ?」
「【月の力】もまた、【闇の力】に弱いからです」
「? どういうこと?」
「光は闇を掻き消しますが、大きすぎる闇は返って光を飲み込んでしまいます。また、月の神・月夜様と姉妹関係にある、太陽の神・陽霊様の治める島も滅ぼされました。太陽は、月以上に厄介ですから」
「それってケッコーヤバイ?」
「らしいですよ。当時の新聞記事や書物には『光が失われた』とか『暗黒期の到来』だとか悲観的なことばかり書かれていたようですが、今日も良い天気ですね」
「うんうん、ぽっかぽかだー」
能天気なやつらだ。
「白雲丸、あの坂のてっぺんに行ってください」
この世界には、八百万の神が存在している。陽の神や月の神、水の神などといった地球上の万物に関する超常的な力を持つ、特別な存在である。
地球上に住む人類は、そのうちの一柱の神を信仰し、その神の持つ力を授かり、生活に役立てている。
人類が絶対に守らなければならない戒律には、信仰する神は、一生涯で一柱とある。一度神を信じれば、鞍替えすることは許されない。
そこには、広い敷地 —— かつて『神月』の国を治めた王族の城の跡地である。無論、ここもこっ酷くやられた。
三頁
恵虹たちは、城の石垣の門の前で着地する。
雲に「待っててください」と言いつけをし、恵虹のやつは、大穴の開いた石垣の辛うじて残っている残骸に手を触れた。
そして、二つの目を閉じ、一つの目を開いた。
時計の針を巻き戻すように、この石垣が見てきた歴史を遡る。
つい先ほど、この地に降り立った私たち。
それから少し遡れば、二人の少女が、仲睦まじく、階段を登ってやってきた。片方は、耳がうさぎのように長い兎人族の子。もう片方は、トウモロコシのように黄色い肌、額に二本の角が生えた、長身の黄鬼族の子。淡濃の差はあれど、どちらも黄色い髪をしていた。
ちなみにこの力、視覚以外の感覚も感じとる。彼女たちの可愛らしい会話も聞こえてくる。
さらにぐんぐん時を巻き戻すと、一人の女性が、赤子を抱えて走ってきた。
そのずっと前には、別の女性が一人蹲って暗い様子だった。
その少し前の夜には、栄えた街が闇に覆われた。
その前まで遡ると、石垣の前を、華美で優雅な衣服装飾に身を包んだ人々が、往来していた。かつて、この国を治めた王族やその関係者であろう。黒鬼に襲撃される前のこの島は、本当に栄えていたのだった。
この島の歴史を調べた恵虹は、ほろほろほろと涙を流していた。
閉じていた目を開けると、その涙を拭って、雲に指示した。
「白雲丸、次はあの山の頂上に行ってください」
「アイアイサー!」
恵虹は雲に乗って、また大空へと飛び立った。
恵虹のやつが雲に指示した、山の頂上には、月の神を祭る祭壇があった。高さ八メートル程の巨大な壁に、月の神が描かれていた。
二人は、でっかい壁を見上げて、感嘆の息を漏らした。
「凄い。立派な壁画ですね」
「真ん中に描かれているのは誰だ?」
「そりゃあ、月夜様でしょう」
「月の神様って、こんな兎の顔してるんだな」
恵虹は、何も知らない雲に、神についての説明をした。
「この世に存在する八百万の神様は普通、地上に住う民たちの目に捉えることは出来ません。
ですが、神様自身の力で、人の前に姿を現し、言葉を交わすことが出来ます。それは、その人と同じ、人の姿か、その神の力の象徴となる動物の姿。人と動物の半人半獣なんてこともあります。そこは神様によって千差万別です」
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「じゃあ、この神様は、頭が兎だから半人半獣かな」
「いや、頭だけですから……頭獣人じゃないですか?」
「闘牛?」
「頭獣」
阿呆な会話をする二人。普通に獣人でいいんじゃないか?
ぐうぅぅぅぅ。
恵虹の腹が鳴った。ちょうど、都合の良い頃合いで鳴ったものだ。
顔を赤く染めて、やつは雲に指示した。
「そ、そろそろ船に戻りましょうか」
「かしこまー」
「あ、あのー」
雲に乗ろうとする恵虹に、声が掛かった。それは、一人の小柄な娘だった。
娘は、少し前から阿呆どものやりとりをじっと見ていたが、やつらが帰っていくのを見て、声を掛けたのだ。
声に驚きそちらを向く二人。そこで恵虹はさらに目を見開いた。
さらさら吹く風が、髪や衣をさらおうとする。褪せた黄緑色の草木が生茂る森の中。
一目見た途端、私は彼女に気を奪われた。お城の石垣が見た歴史の、初めの方に映っていた、兎人族の子だ。淡い黄色の。つぶらな眼やぶどう飴の如く丸が連なったおさげ髪が可愛らしい。
「……葉緒ちゃん」
私は彼女の名を、いつも口にしていた彼女の呼び名をぽつりと呟いた。
その葉緒の方は、きょとんと戸惑っている様子だった。
「あなたは……」
これに恵虹は、はっと我に返り葉緒に謝った。
「すみません。急すぎて、戸惑いますよね」
そして、自己紹介をした。
「私は、姓を石暮、諱を匡、字を恵虹と申します」
姓とは、そいつの家を表す名。諱は、子が生まれた時に親から授けられる名で、字は、その子が成人した時に自分でつける名だ。成人の人類は、種族を問わず、多くの者が三つの名を持っている。
「わたしは、姓を阿月、諱を葉緒姫。字は……葉緒です!」
娘はまだ、成人の歳にはない。その字は今つけたものだろう。
「葉緒ちゃん……」
すると、恵虹は、踵を返し、葉緒に背中を向けた。
「私はそろそろ、船に戻ります。壁画だって見ましたし、私は月の信者でもありませんから」
「行きましょう」と雲に指示する。
五頁
「う、うっす」
白雲丸は訝しい顔をしつつ、恵虹について行った。
ささささ。
ぎゅう。
葉緒は、去りゆく恵虹を追いかけて、その背中を抱きしめた。
驚いた恵虹は、振り向いた。顔は涙に塗れていた。
葉緒は、恵虹の顔を見上げて言った。
「恵虹さん、お腹空いてますよね? 葉緒は料理得意なので、お昼ご飯はわたしがお作りします」
「葉緒ちゃん……」
「あと……」
「?」
「恵虹さん、頭からも涙が出てますけど。その前髪の向こうには何があるんですか?」
ついに急所を突かれ、やつは色々と真っ白になった。
「何があるんですか?」
葉緒は、なぜか目をキラキラと輝かせながら、もう一度尋ねた。
「秘密です」
「えぇーっ!
いいでしょう? ここには、葉緒と恵虹さんしかいないんですよ!」
「ダメです! なんで、そんなに見たいんですか!?」
「気になります! ロマンてやつです!」
「なにがロマンですか! こんなのただの物の怪でしょう?」
「物の怪もまたロマンです!」
葉緒のこの言葉に、恵虹は少し目を見開いた。
「もしかしたら宝石かもしれません」
それから、そっぽを向いて言った。
「……いいえ、葉緒ちゃん。宝石などではありません。……爆弾です」
恵虹は、キリッと葉緒を睨んだ。
「爆弾?」
そして、恵虹のやつは、葉緒のほおを両手で潰して言った。
「いいですか? もし、私の額が第三者の目に晒されれば、葉緒ちゃん諸共……この島さえ消滅することになるでしょう」
つぶらな眼がぎょっと見開いた。
「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
葉緒はあっさりと信じ込んだ。この叫び声は、島中に轟いた。まったくだ……。
「や、やばいじゃないですか! みんな死んじゃう!」
「そうです。だから、誰にも見せてはいけないんです。これは、私の宿命でもあります」
「大変なんですね」
「すみませんが、この話は打ち切りです」
「わかりました。それじゃあ、わたしは、祭壇にお祈りしますね。それが終わったら、お昼にしましょう」
(良い子だ……)
「了解です。白雲丸も、それまで待っててください」
「かしこま」
すると、下の方から、ゴロゴロと音が聞こえた。
「……なんだろう、この音。雷?」
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瞬間、ピカッと激しい光が現れた。少し遅れて轟音が耳をつんざいた。
「葉緒ー!!」
黄鬼の少女。山吹色の髪を二つに丸め、上半身はサラシ一丁、下半身は虎柄のドデカいボンタンといった、男気溢れる格好。背中には四つの太鼓のついた輪っかが浮いていた。その様はまさに、雷神である。
彼女は、城の石垣の歴史を見た時に、葉緒と一緒にいた、濃い黄色のお団子の方。
娘は地面に着地し、恵虹らと対面した。
「ん、アンタ誰だ?」
恵虹は、彼女に自己紹介をした。
「私は、姓を石暮、諱を匡、字を恵虹と申します。秋の大国、黒槌の地から来た旅人です」
「黒槌……。あ、アタシは、埜良。葉緒の守り神さ」
「葉緒ちゃんの?」
「そうだ。それがアタシに課せられた使命だからね」
「使命?」
そこへ、葉緒がやってきた。
「おまたせ」
「葉緒。大丈夫だった? さっき、すごい叫び声が聞こえたけど」
「埜良ちゃん。うん、大丈夫だよ、すごくびっくりしただけだから」
「それ、大丈夫なの?」
「さっ、お昼にしましょ。葉緒が腕によりをかけた、美味しい料理だよ!」
葉緒がそういうと恵虹は雲に指示を出した。
「白雲丸、二人も一緒に乗せていくことって出来ますか?」
「そんなの、容易いことだよ。ホラ」
雲は大口を叩いて、自身のもくもくの面積を広げた。
「これに乗って行きましょう」
見たことない生物に、葉緒と埜良は、感嘆の声を漏らした。
「スゲェ、これ、恵虹の力か?」
「はい。私の特別な力で生み出しました」
「かわいい!」
三人は雲に乗った。すると、埜良が雲に手をかざした。
これに恵虹が尋ねた。
「埜良さん、何してるのですか?」
しかし、埜良は得意気な顔をするだけで何も答えない。やがて、白雲丸は、灰を流し込まれたかのように暗く濁り、ビリビリと電気を纏った。要は、雷雲と化したのだ。
「できたっ! 白雲丸改め、雷雲丸!」
「ワイにかかりゃあ、どこへでも一瞬や!」
「人格が変わってる!!」
雲だから、人格じゃないだろうに。
「カッコよくなったー!」
勢いに任せ、埜良が雷雲丸に指示を出した。
「さあ、雷雲丸! この山の麓まで行って!」
「任せときィ。全速全身! 麓なんか秒で着いたるワァ」
どこで覚えたか知らない言葉使いを用いて、急に熱苦しいやつになったな。
その熱苦しい雷雲の言葉に、恵虹と葉緒は顔を青くした。
「ちょっと待って、雷雲丸!」
七頁
しかし、もとの主人の言うことも聞かず、雷雲野郎は、ビリビリ電気を溜めて、猛スピードで飛び立った。
「着いたで」
麓には、本当に秒で着いた。
一人立ち上がって、「ついたー」とケラケラ笑う埜良。あとの二人は、雲の上に倒れて、しばらく動けなかった。
山を降った、島の裏側には、卵白のような淡い黄色の鳥の子色の砂浜が広がっていた。潮のさざめきが耳を障る。
目が覚めた恵虹は、立ち上がり、辺りを見渡す。
「ここには、何もないみたいですけど」
ちっ、ちっ、ちー。埜良が調子良く指を振る。
「あるんだなー、それが」
「へ?」
「見えないだけで、あるんです」
葉緒も調子を合わせて言った。二人は真っ直ぐに駆けて行って、海に向かって叫んだ。
「玉兎さまー!」
「玉兎ー! 帰ったよ〜」
すると、二人の前に道が現れた。その道を進んだ大海原の上に、ぽつんと家が立っていた。
その家から、一人の女性が出て来た。葉緒ちゃんと同じような髪色で、耳はうさぎの形をしている。その身形は、夜を思わす色合いや装飾の襦裙スタイル。全体的にお淑やかな雰囲気を感じる。
身形は違いますが、お城の石垣の歴史を見た時、黒鬼にこの島を襲撃された後に、一人蹲っていた、あの女性に違いありません。彼女はきっと……。
葉緒と埜良が、玉兎と呼んだその女に、葉緒は駆け寄り、飛びついた。埜良と恵虹も近寄った。
「おかえり、葉緒、埜良。そちらの者は?」
「恵虹さん。旅人のお客さんだよ!」
葉緒がそう言うと、玉兎はにわかにハッと驚く表情を取った。だがすぐに冷静を取り戻し、皆を中に入れる。
恵虹は、彩色の杖を取り出し、「ありがとうございました」と、雲を突っついて消失させた。
「いくよっ! 『お月食堂』開店〜!」
家の中に入ると、葉緒は直ちに昼食作りに取り掛かる。
着物の内側を漁り、取り出したのは、御守りだ。低明度の青紫の袋に、葉緒の髪と同じ、淡い黄色の「月」の文字が刻まれていた。
【玉兎さま! 身支度お願いします!】
葉緒はその御守りを挟んで、パン! と合掌した。
すると彼女の全身が黄色い光に包まれた。
光が消えると、葉緒は、大きく身形が変わっていた。
うさ耳リボンのバンダナの下。淡い黄色の長い長い髪は、垂れたうさぎの耳のように、低い位置でツインテールにまとまっていた。
黄と白の水玉柄の割烹着は、ひざ丈のワンピースのようにきゅっと締まって、その後ろには大きなリボンがついている。
割烹着の下には二部式の着物で、下は割烹着よりも少し長めのプリーツスカートになっている。色は、紅桔梗色辺りの明度の低い青紫。
八頁
「可愛いです」と恵虹は歓喜した。
「葉緒ちゃんの料理が食べられるんですね。楽しみです」
「葉緒の料理は、格別なんだよ!」
二人は料理の出来上がりを心待ちにしていた。
やつらのいるこの家は、廃墟の島に建つ家にしては、やけに綺麗である。
大きさは三人で住うに過不足しない程度だが、まるで社だ。木造建築のようだが、使われている木材は、地球に生えているものではない。他所の星から取り寄せたやつだろう。
葉緒の調理場だって、バッチし整っている。神月が食の聖地と呼ばれてたから、そこには力を注いでいやがるか。
「お待たせ。お手軽で美味しい、お月ラーメンだよ〜」
食卓に上ったのは、切り分けた焼豚とトウモロコシの粒を盛り付けた、味噌ラーメンってやつだ。その上にのせた目玉焼きの黄身を月に見立てているのだろうが、太陽の神を信じるやつがこれを作れば、お陽様ラーメンとでも名付けているだろう。
つうか、案外素朴だな。まあ、昼飯なんて、こんなもんか。
「わぁ〜。お月ラーメンだ〜!」
「ラーメンは好きです」
埜良と恵虹は、目をキラキラと輝かせていた。ラーメンごときに大袈裟だと思うがな。
「いただきます」と合掌し、箸を持って、葉緒ちゃんのラーメンを頂く。つややかな黄身の目玉を割り、とろとろ流れ出た卵液をラーメンの汁に絡ませる。そして、麺をトウモロコシ ごと束で持ち上げ、口に運ぶ。つるつる啜り上げて、その全てを口に含める。
口の中いっぱいに入った麺やトウモロコシをモグモグと咀嚼する。
「恵虹さん」と葉緒ちゃんに声をかけられた。何だろうと顔をあげると、彼女は自身のもつ特別な力を用いて、光り輝く紐のようなもので、私の髪を縛った。
「これで、髪が邪魔になりませんよ」
「……ありがとうございます」
葉緒ちゃんにお礼を言い、口の中のものをゴクリと飲み込んだ。
私は思わず、目を見開いた。
「美味しいです!」
埜良さんは言った。
「お腹だけじゃなくて、心も満たされるでしょ?」
「はい。何だか心が綺麗になっていくような気がします」
「それが葉緒の持つ、月の力さ」
「これが……」
私はまた、麺を啜った。つるつる啜って噛み切って、モグモグ咀嚼し、飲み込む。これを淡々と繰り返して、時折焼豚を齧りつつ、麺の量を減らしていく。
途中、埜良さんに「いい食べっぷりだな」と笑われた時は、針で身体を突っつかれたように、むず痒い思いをした。
麺や焼豚を食べ終えてしまうと、箸を置き、器を持って、汁を飲む。トウモロコシも一緒に飲んだ時は粒だけを残して、シャキシャキ咀嚼する。
ついに汁をも飲み干し、トウモロコシの一粒すら残っていない空の器を、机の上に置いた。
「ご馳走さまでした」と合掌した。
「恵虹さん見ていると、清々しい気持ちになります」と葉緒ちゃんは、のほほんとした面持ちで言った。
葉緒ちゃんまで……。
九頁
昼飯を食った後、恵虹は玉兎から話を持ちかけられた。玉兎のやつは、昼飯を食ってる時も、ずっと不満げな顔をしていたから、良い予感はしない。
「恵虹殿。少し、伺いたいことがあるのですが」
「……何でしょう」
「彼方はどうして、旅に出たのですか?」
「……広い世界を見てまわりたいと思ったからです。幼き頃から遠いところへ行ってみたいという思いはありました。それが、とある紀行文を読んで、その人物に憧れ、私もそうなりたいと思いました」
同じ空間で聞いていた葉緒が、恵虹に尋ねた。
「その紀行文の人って、どんな人なの?」
「飯次郎という、料理人です」
「料理人!?」
「彼は、十六の時に故郷を出て、世界中の国や島を冒険し、出会った人々に料理を振る舞って、みんなを笑顔にしたそうです」
恵虹のこの言葉を聞いて、葉緒の瞳はきらりと光った。
「料理でみんなを笑顔に……」
「十六って、今の葉緒とおんなじだな」と埜良は言った。
「飯次郎殿は、最高の旅草です」
「旅草?」
「旅人のことです。民草のように、人を草に喩えた言葉です」
「でもなんで草?」
「雑草のようにいっぱいいるからじゃないですか?」
「雑だな!」
バン! と葉緒は食卓を叩いた。
「恵虹さん、葉緒も旅草になりたいです! 恵虹さんの旅、一緒に行っていいですか?」
恵虹の顔を真っ直ぐ見て、旅の同行を志願した。
「葉緒が行くなら、アタシも共に行くよ」
「葉緒ちゃん、埜良さん……」
恵虹が答えを出す前に、口を挟んだのは玉兎のやつだ。
「ダメだ。二人の旅の同行は、許さない」
厳しい口調で、二人の希望に立ちはだかる。これにとっさに反発したのは、埜良だった。
「なんでだよ! 玉兎が決めることじゃないだろ!」
葉緒も、玉兎に頼み込んだ。
「玉兎さま、お願いします! わたし、自分の料理をたくさんの人たちに食べてもらいたいんです!」
「ダメだ。お前たちを危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「ですが……」
「いいから、私の言うことを聞いていなさい! お前たちのためを思って言ってるんだ!」
この一言に、葉緒も埜良も口をつぐんだ。
そこへ、恵虹が口を開いた。
「二人の気持ちも汲まず、なにが『お前たちのため』ですか」
「五月蝿い。馬の骨が口を挟むな」
十頁
それから、玉兎は恵虹に表に出るよう促した。葉緒と埜良には家にいるよう命令を下した。
玉兎と恵虹は、家を出て、鳥の子の浜で対峙する。当然、葉緒と埜良は、家の口からひょっこりと二人の様子を覗き見た。
「さて、石暮匡」
玉兎のやつは、恵虹を姓と諱で呼んだ。やつの前では誰も、その名を口にしていない。
「どうしてその名を?」
「其方なら分かるだろう」
玉兎のやつはそう言うと、全身を黄白に光らせ、ぐんぐんと大きくしていった。仕舞いには、恵虹の五倍弱の大きさになった。
淡い黄色と、明度、彩度の低い青の衣を身に纏い、頭は兎のものに変貌した。
ああ、そうだ。やつこそが、壁画に描かれていた月の神、月夜だ。
やつの余りのデカさに、少々怖気付いた恵虹のやつは、【彩色の杖】を取り出し構えた。
覗き見ている葉緒と埜良は、固唾を飲んだ。
「やはり、彼方が月の神だったのですね」
「気づいていたのか?」
「はい。一目見た時から、感づいていました」
「そうか。其方のことも私は知っている。神の役目は自らを信じる者の日々の様子を見守ることだからな。今から十七年前、其方の故郷である猫石に、二人の私の信者が訪れた。彼らは随分と、其方に世話になった」
「月を信じていなかった者も合わせれば、三人。いや、四人です。彼らとの出会いは、私の運命を大きく変えました」
「それ故、最初の地をここにしたのか」
「はい。飯次郎殿の故郷とありましたから」
「そうか。では、話を本題に移す。
恵虹、其方は、はなから葉緒を旅の仲間に加えるつもりで来たのだろう?」
月夜の核心を突くような一言に、恵虹は衝撃を受けたように目を見開いた。完全に図星だからだ。やつが神月の島を訪れたのは、街の有り様を見るとともに、葉緒と再会するためでもあった。
「そうですが、それが何か?」
「動揺しているな。短い期間だったが、其方は葉緒と共に過ごしていたからな。幼い其方は、赤子の葉緒を心底愛でていた」
「そりゃあ、葉緒ちゃんはかわいいですから」
さらに月夜は、恵虹の額を指差した。
「其方が厚い前髪で額を隠している理由、私は感づいている」
まったく、月夜のやつ、禁忌に触れやがった。恵虹の心はさらに大きく揺れ動いた。グッと右手を握り締めた。
「額に隠れるその力を使えば、大切な存在に迫る危機を察知することができる。葉緒がこんなことになることもなかったはずだ」
十一頁
その時、ピカッと眩しい光が、恵虹の横を通り抜けた。怒る埜良が家を飛び出し、月夜に蹴りを食らわそうとした。無論、蹴りが届く前に、やつのデカい手に掴まれた。まるで蠅ころのように。
「埜良ちゃん!!」
葉緒が叫んだ。葉緒自らも、家から飛び出した。
「玉兎さん! 埜良ちゃんを離して!」
葉緒は月夜に、精一杯訴える。
「葉緒、埜良、中に居なさいと言っただろう」
咎める月夜に、全身を握られながらも、埜良は反発した。
「やだね。特にアタシは、アンタを信じてるわけじゃないんだ。誰がアンタなんかの言いなりになるものか」
「……そうか」
これに何か察知したのか、恵虹は手に持つ彩色の杖を空へ突き出した
そして、唱えた。
【お色直しです!】
すると、杖先に白い光が灯り、光は次第に恵虹の身体全体を包んだ。
すぐに光が消えると、やつはまるで別人になったかのように、大きな変貌を遂げた。
髪、眼、目の周り、唇が純白に染まり、肌も一段と雪のように白っぽくなった。衣に関しては、天使が着るような白い長袖のワンピースをまとった。
姿を変えた恵虹は、すぐに技を唱えた。
月夜のやつは、一瞬顔を歪ませたあと、苛立ちを募らせ、手に握っている埜良を横へ放り投げた。あのデカい手で力一杯投げられれば、当然遠くへ、勢いよく吹っ飛んで行く。
その上、やつはこれで赦す気はなく、更なる一手を浴びせた。
【月光弾】
掌から光の球を飛ばした。球は吹っ飛ぶ埜良に直撃し、派手に爆発した。
浜の砂を攫い、周囲に爆風の波紋が怒涛の勢いで広がった。葉緒は反射的に着物の袖で顔を覆った。それが終わると、あのデカい爆発の核となった、埜良のことを思い出す。
「埜良ちゃん……、埜良ちゃん! 埜良ちゃん!! 埜良ちゃーーーーん!!!!」
葉緒の悲痛の叫びが、場に響いた。砂埃で視界が悪い中、埜良のもとへ駆けつけようと走った。「どうか無事でいて」という願いを抱きながら、あの爆発じゃ無事ではいられないという、予測が過ぎっていた。
「大丈夫ですよ。葉緒ちゃん」
十二頁
砂埃から声が聞こえた。無論、恵虹だ。やつの声が聞こえると共に、葉緒の向かう方向から、強い風が吹き、砂埃が払われた。
葉緒が見上げると、そこには恵虹のやつが埜良を抱き抱え、低い姿勢で、杖を構えていた。真っ白だった髪は、深い緑に染まっていた。
【風の力 —— お払い】
これが、恵虹の使う【色の力】の真の領域。彩色の杖で、真っ白な姿に変身すれば、風や火、水、雷など、他の神を信じるやつが使う技は、全部使うことができる。やつの想像力の限りだがな。技は、使用者の頭で思い描いたものを発現する。
やつの動きはこうだ。恵虹は、月夜の動きを察知して、即座に変身。すぐに【雷の力】の迅速な速さで瞬発的に動き、埜良を受け止め、迫り来る【月光弾】を 守りの壁 を創造して防いだ。
この一連の動きが終わるまで、そう時間はかかっていない。比喩でもなく、瞬きする間の出来事だった。
そんで舞い上がる砂埃を【風の力】で払い除けたということだ。
これが色の力だ。宇宙一の力だ。見たかこの野郎。
「恵虹……」「恵虹さん……!」
驚いた面をした月夜のやつが、恵虹に尋ねた。
「其方……その力……」
「色の力です」
恵虹は、月夜に近づきながら言った。
「色!? 色彩宇宙様の力をなぜ……」
「私の前に現れたのは、色という、小憎たらしい顔をした白猫ですが」
小憎たらしいとは何だ、この野郎。
「それは十中八九、色彩様だろう。白は色の力を象徴する色。色彩宇宙様は、この世界を創った創造の神。其方の持つ力は、想像力の限り何もかもを創り出すことのできる、全能の力だ。そのような強大な力を持ち得て、其方は一体何がしたい」
「守りたいものを守りたい」
「その守りたいものとは、葉緒のことだろう。なぜ埜良を?」
「目の前で危機に瀕している人がいるのに、黙って見過ごすことなど、私にはできません。
それに、埜良さんは、ずっと長い間、葉緒ちゃんの側にいて、守ってきてくれました。葉緒ちゃんの大切な人は、私にとっても大切な人です」
「恵虹……!」
「それに、色の力は、人の心を癒す力です。人を傷つける為には、使いたくありません」
恵虹は、切なげな顔で、両手に抱える彩色の杖を見やった。
そして、鋭い眼差しで、月夜を見上げた。
「私の方からも、聞きたいことがあります、玉兎様。彼方の月の力も、人を助けることができる力です。飯次郎殿は、月の力を肖って、その力で料理を振る舞い、多くの人を笑顔にしてきました。葉緒ちゃんのラーメンを食べたとき、心の底から晴れていくような、清々しさを感じました。
人を笑顔にすることができる力を —— どうして人を傷つける為に使うのですか?」
十三頁
「私は、月の神だ。私を崇む者を祐けるのが、神の役目。そうでない者に世話を焼いてやる義理はない。月ではなく、雷の力を信ずる埜良のことなど、どうでも良いことだ」
「夜空に堂々と浮かぶ満月を見ていると、自分まで気が大きくなったように思えます。でも、その大きな力を司る神様は、ここまで気が小さいのですね。まるで、影の多い三日月のようです。まあ、三日月だってとても美しい……」
あとちょっとで言い終えるところで、何かを察知した恵虹は、瞬時に横へ避けた。
【月光弾!!】
直後、埜良に飛ばした、爆ぜる光を飛ばしてきやがった。
「煩い、黙れ」
どうやら、やつの傷口に触れちまったみてぇで、目が本気になった。
【精強の兵】
前にかざす手。その先に、黄色い楕円の空間が現れ、そこから武装した筋骨粒々の、イカつい兎人の兵が二体現れた。
月夜のやつは、兎どもに命を下した。
「その者をやれ」
「御意」
やれやれ、月夜のやつめ、マジで恵虹を殺す気でいるらしい。
やつの一言に、葉緒と埜良は戦慄した。
「玉兎さん、やめてください!!」
「本気か!?」
二人は叫んだ。
「お前たちは黙っていろ!」
月夜は二人に厳しい口調で言った。
「葉緒ちゃん、埜良さん。ここは私に任せてください」
恵虹も、落ち着いた口調で言った。
「恵虹……」「恵虹さん……」
心を潰す二人に、恵虹は得意気な顔を見せた。
「大丈夫です」
それから、月夜に向かって言った。
「かかってきなさい、月夜様。私は彼方がたには負けません」
生意気な挑発に、月夜のやつは歯を食い縛り、兎どもに命を下す。
「行け!」
『はっ!』
兎どもは、手に抱える大斧を構え、恵虹に飛びかかった。
【現し絵 —— 白雲丸!】
「おっす! またオイラの出番だ!」
恵虹は白雲丸を現した。だが、この島を移動していた時のやつよりもやや小さく、横長になっていた。
そんな雲に、恵虹は飛び乗った。
兎どもの、キラリと光る斧の刃先が迫りくる。
十四頁
「白雲丸!」
「ウッス!」
二つの斧が、恵虹の体を切り裂く前に、やつらは空へと飛び立った。さながらサーフィンの如く、均衡を保って、空をスイスイと泳いでいやがる。
やつを捉え損ねた兎どもは、またもや恵虹を目標に定め、兎の優れた脚力を使って、空を泳ぐやつに斧を構えた。
一方、当然恵虹側も、敵の動きを警戒し、彩色の杖を構えていた。
【水の力 ——極大手 !】
純白を青に染め、巨大な掌の形をした高圧力の水を召喚し、空を飛んで迫ってきた兎の一体を押し返す。
しかし、敵の数は二体。まだ一体が残っている。
【月塊】
兎野郎は、空中に月石の塊を現し、そこに足を置き、一旦後ろに退いた。
普通の神の力も、色の力と同様に、頭の想像力で何かを発現し、それを動かしたり何だってできる。無論、持つ力から連想される範囲に限る。
しかし、こいつ、ただの脳筋野郎かと思っていたが、意外と利口なんだな。
【銀兎の飛】
兎野郎は、何やら小細工をしたようだ。そんで構えの姿勢を取り、再び恵虹を狙う。
「白雲丸! もっと後退を!」
「あいよっ!」
白雲丸は、ぐんぐん加速し、敵から大きく距離を取る。
「……! やっぱ右へ!」
「あいっ!」
やつらが大きく右へ逸れてすぐ、その横を兎が神速の速さで、通り過ぎていった。
(危なかった!)
あのまま、後退を続けていては、やられていた。
またしても捉え損ねた兎野郎だが、まだ諦めるつもりはないらしい。飛んだ先にも【月塊】を創って、足場にし、また目標に向かって飛び跳ねる。
今度は余裕を持って、左に躱した。兎はその先でも足場を創って、また飛び跳ねる。無論、これも躱される。
【植物の力 —— 拘束樹!】
今度は深みのある黄緑の萌黄色に髪を染めると、地面から樹幹らしきものを二つ生やし、ぐんぐん伸ばして、兎野郎の体に、蛇の如く巻きついた。見るからに頑丈なやつで、拘束された兎が踠こうとも、びくともしない。
やっと一体の動きを止めて、一息つく恵虹。
「恵虹、危ない!」
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そう叫んだのは、埜良だ。というのも、さっき恵虹のやつに落とされた方の兎野郎が、弓矢を創って、やつを狙っていたのだ。ちょうど、やつの動きが止まった今、狙いも定まり、放たれる。
—— が、それを横から遮ったのは、埜良だ。
「埜良さん!」
「埜良……!」
月夜は、歯を噛み締め、埜良をギロっと睨んだ。。
「恵虹、こいつはアタシに任せて。やられっぱなしは、悔しいからさ」
「……では、一つ。倒すのではなく、動きを封じてください。そっちの方が容易いと思います。危なくなったら、助太刀に参ります」
「わかったよ」
埜良に譲った恵虹は、雲を動かし、葉緒のところへ行った。
「さあて…… 、ここからはアタシが相手だ兎兵」
下衆くニヤついた面で、拳と掌を合わせて言い放った。
それに対して、兎野郎は言った。
「拙者は、其方の相手をしろとの命は受けていない」
これに月夜のやつは言った。
「構わない。私を苛立たせる者は、皆排除せよ!」
「はっ!」
【玉兎の飛】
命を受けた兎は、恵虹と戦ってたやつも使っていた技を使い、埜良に向かって、光速の速さで飛びかかった。埜良はヒョイと舞い上がって、軽々とそれを交わした。その後も、光同士の接戦を繰り広げた。
(私の目の力もないのに、あの速度を見切れるなんて……)
埜良の戦いの様子を見ていた恵虹は、感心した顔をしていた。
「……ごめんなさい」
その隣で、葉緒が俯きつつ恵虹に謝った。
「わたしが旅に行きたいと言ったばかりに……」
葉緒は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「顔を上げてください、葉緒ちゃん」
恵虹は、優しく声をかけた。それから、雲を降りて、葉緒の前に屈んだ。
「あなたのせいではありません。憧れを持つこと、何かを望むことは、決して悪いことではないのですから。
ですが、何かに憧れ、何かを望んだ時、必ずと言っても、それを否定する者が現れます。それは悪意か、善意か、未知なるものへの恐怖心か、それは様々ですが、そのどれだったとしても、言えることは一つ。
葉緒ちゃんの人生は、葉緒ちゃんのものなんです。
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ですから、あなたがどう生きようが、それが悪の道でもなければ、他人に口出しされる筋合いなどありません。例えそれが、長い間自分を育ててくれた親だろうが、結局は他人同士なんです」
(あ、でも、玉兎様は神様ですから、他神?)
恵虹の言葉を聞いた葉緒は、涙に濡れるつぶら眼をきらきらと輝かせていた。
「……私も、『世界を旅したい』という夢は、両親には応援してもらいましたが、それ以外の人たちからは、否定的なことをたくさん言われました。しかし、父は言いました。
『周りが否定してくるということは、それほどあなたの挑戦が新しくて、輝いて見えるということの裏付けでしょう。胸を張って生きていれば良いのです。匡の人生は匡のものですから、誰かの言いなりになる必要はありません』
葉緒ちゃんは葉緒ちゃんらしく、信じる道を突き進めばいいのです」
恵虹の強さも感じる微笑みに、葉緒はまた、ぽろぽろと涙を流した。
二人のやりとりを遠くから見ていた月夜のやつは、ぐっと歯を食いしばり、拳を握り締めた。
恵虹は、埜良の戦いの方に目をやった。そして立ち上がり、雲に乗った。
「埜良さん、大丈夫ですか!?」
「平気、平気! かすり傷程度だから!」
玉響の間に繰り広げられた光速戦闘の中で、ほおにかすり傷を作っていた。
また兎野郎の斧を躱した埜良。
【必殺・雷虎デンデン!!】
全身を大の字に広げると、その前に虎を模した雷が、轟音を伴って突進した。
雷虎が兎を捕らえると、兎は「ギャー」と叫んで、倒れた。
「ちょっと、埜良さん!」
轟音に耳を塞いでいた恵虹は、倒れた兎を見て、埜良に迫った。
「大丈夫だよ。死なない雷だから」
埜良は、呑気に言った。すると、倒れた兎が気を取り戻し、起き上がった。
「恵虹、とどめだよ!」
「は、はい!」
【青の帳】
彩色の杖を構え、埜良と戦っていた方の兎の周囲をぐるっと周る。すると兎は瞬く間に青の世界に閉じ込められた。
兎野郎から見た世界《せかい》の、天上天下四方八方が、青一色の何もない真青の世界。この世界でやつは、青という色の壮大さや冷たさ、憂鬱さなんかを、肝の内からじんわりじんわりと味わっていることだろう。そんで、己のちっぽけさや、愚かさをかみしめているだろう。
恵虹は、やつ自身の手で捉えた方の兎野郎にも【青の帳】を張った。
「やったのか? 恵虹」
「はい。もう戦意は、なくしているでしょう」
耳栓を外した恵虹の答えを聞いて、埜良は歯を見せて笑った。
「よっしゃあ! 兎兵を倒したんだな! 葉緒ー!」
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飛び跳ねるように喜んで、すぐさま葉緒のもとへ駆け寄った。
そして、恵虹はまた、月夜のやつと対峙した。
「さて、玉兎様。兎たちには勝ちました。次は彼方の番です」
月夜のやつは、顔を赤くし憤慨した。
「何の小細工かは知らないが、神を侮るでないぞ!!」
「では、彼方も試して見ますか?」
そう言って、恵虹は雲に乗って、空に上がった。
「ちょっと、待ってください!!」
叫んだのは葉緒。堂々とした面持ちで、月夜の目の前に立ちはだかった。
「葉緒ちゃん……!」
「玉兎様。わたし、恵虹さんと一緒に旅がしたいです。この島を離れた先には何があるのか、この目で見てみたいです」
「何度言えば分かる? 許さないと言っているだろう」
「わたしの人生は、わたしのものですから、玉兎さんに認めてもらえなくたって、もう月の力が使えなくたって、それでも葉緒は、絶対に行く!!」
葉緒の真剣な眼差しに、月夜のやつはその眼を震わせた。
(あぁ、葉緒、その目をやめて。あの子の顔が目に浮かぶ……)
『月夜様、オレは世界を旅してみてぇ。あの水平線の向こうには何があるのか、この目で見てみてぇんだ」
『アンタの力を借りれば、怖いものなんて何一つねーだろ?』
無邪気に輝いていたあの笑顔に惹かれて、まだ十六の子どもに私の力を授けた。
あの笑顔と料理の才もあって、行く先々で、種族を問わず、多くの人に好かれていた。
百年前の、黒鬼が攻めてきたあの夜、私は何もできなかった。
あの夜、いつものように明るく賑わっていた街を眺めていたら、突然目の前が闇に覆われた。
『やあ、月夜姉さん。久しぶり』
目の前には、幾星霜生き分かれた弟がいた。
『……闇奈緒!?』
闇の神・闇奈緒だ。
その姿は異様なまでに細長い。腕や脚、首の長さは、常人の倍近くあり、後ろ髪は膝に届くまでの長さで、蛇の如くうねった前髪は、顔の中央を覆い、胸元まで伸びていた。
神故に、自らの大きさなどいくらでも変えられるが、その時の闇奈緒の身長は三メートルに届かんとする程だろう。
何より、彼の大きな特徴は、黒色だ。
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この世界に、本当の黒色は存在しない。色彩様が「不吉の象徴」として忌み嫌っており、封じられていた。世間の人類が黒と呼ぶ色は、赤や桃、青といった有彩色の、明度を下げたダークカラーがほとんどだ。
黒色は闇の力の象徴の色。闇は主に、呪いや物の怪など、不吉なものを司る。
色彩様に嫌われ、幾星霜の間封印されていた力。
それが何らかの理由で解かれたのだ。
『いやぁー、僕は嬉しいよ。長い長い眠りから目覚めたんだ。それで僕は決めたのさ、この世界を僕のものにするって。僕が二度と眠らされないような、最高の世界を』
彼は目と鼻の距離まで詰め寄って、私の顎に触れて言った。
『喜んでよ、姉さん。可愛い弟の時代が花開くんだから。陽霊姉さんと一緒にさ』
漸く闇から解放された時には、賑わっていた街は消え、廃墟の街がそこにあった。
私を慕ってくれた民たちも、料理を味わっていたあの笑顔も、誰もいない。見上げれば、青空が広がっていて、今までの記憶は全部、一夜の夢だったかに思えた。
だがあの子は、この時も無邪気な笑顔で旅をしていた。それが胡蝶となって羽ばたく私の心を現実へと叩き落とした。
あの笑顔が、今でも私の心を穿つ。
(お願い。葉緒、お前まで私の前からいなくならないで ——)
「葉緒……」
『—— その大きな力を司る神様は、ここまで気が小さいのですね』
そうだ。あれは図星だ。私の心はとっても小さい。穿って、穿って、穿ち続けて、いつの間にか、ちっぽけなものになっていた。
そもそも私は、月の神であれる器ではないのかもしれない。肝心な時に役に立てないで。
こうして、大きくなっているのも、虚栄を張るためか。
虚しい。虚しい。
するとなんだか、心がボッと火を上げたように、暖かく、熱くなった。まるで直接、陽の光を浴びているような気になった。
「月夜様!」
顔を上げれば、そこには恵虹がいた。入道雲の上に乗っていた。ずっと乗り回していたあの雲を、ここまで大きくしたのだろう。私の目線と同じ高さに立っていた。
ふと横を見てみれば、鮮やかな赤色の衣が私の肩に掛かっていた。目に止まって仕舞えば、より一層、身体がじんじんと温かくなった。とても心地良い。彼の色の力にやられたか。
彼は優しい声色で言った。
「彼方も一緒に行きませんか?」
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その時、ピカッと眩しい一閃が現れた。埜良が葉緒を抱えて飛んできた。
「アンタも来なよ、玉兎!」
「葉緒たちと一緒に、旅草になりましょ!」
ドシン!
月夜のやつは、膝から崩れ落ちた。ぽろぽろと涙をこぼしながら、黄白く光ってその姿を小さくした。
「白雲丸も小さくなれますか?」
恵虹も雲に命令し、段々と小さくしていって、仕舞いにはぴょんと飛び降りた。
地に降り立った三人は、変化した月夜の形に驚いた。
『か、可愛い!!』
なんとやつは、二頭身の白いチビ兎になっていた。やつは決まり悪い面で、もじもじ言った。
「大した器も持ってないが……良いか?」
皆は喜んで迎えた。
その後、厄介になったお詫びとして、家の中へ戻り、皆で一服することになった。
「月苺茶だ」
「月苺?」
「私特製の苺だ。月のように黄色い苺で、それを食べたり、飲み物にしたりして摂取すれば、どんな怪我や病気も治し、心の不調もすぐに浄化する。そのままでは酸味が強いから、茶で薄めて飲む」
「万能薬ですね」
「玉兎はいっつもそれ飲んでるよな〜」
差し出された飲料をさっそく飲んで、埜良は言った。月夜は苦笑いで言った。
「これを飲むと、気持ちが楽になるからな」
この答えを聞いた恵虹は、苦々しい気持ちになった。
私も、月苺茶をいただく。
軽くお茶をすすると、お茶の深い風味に、レモンのような甘酸っぱさが加算されたような、真新しい味わいがあった。
お茶が体内に浸透すると、何やら力が発揮され、身体の疲労をキレイさっぱり消していった。
「凄い。疲労すらもきれいさっぱり消してしまうのですね」
埜良さんを見れば、頬の傷は完璧に治っていた。
怪我も疲労も回復したところで、いよいよ神月の島に別れを告げる。
玉兎様は、小さな兎の姿になって、葉緒ちゃんの腕の中に収まった。呼び方については、彼女のお願いで、玉兎の名で呼ぶことにした。
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しかし、玉兎様は神様。神様の役目は、信者をはじめとする人々を見守り、時に窮地に立つ者あれば、救いの手を差し伸べる。ただし、前を向こうともせず、努力しようともせず、怠惰に祐けを求めてばかりいる愚者には決して手を差し伸べない。
愛ある厳しさというものだ。
要は、この先の旅で多少のトラブルに巻き込まれたとしても、安易にその力にすがりつくことはできない。一回でもそんなマネをして見れば、私の玉兎様からの信頼は落ち、何が起こるかわからない。
無論、多少のトラブルくらい自分たちで解決して見せる。それを大きく支えてくれる力を持っている。
どんな危険が待っているかわからない、未知なる道だって猪突猛進。死のリスクだって、承知の上だ。それが旅草という者だ。
「おかえり、恵」
白雲丸に乗って船に戻ると、船縁で寛いでいる白猫がいた。
「猫さんだ〜」
「変わった猫だな」
そう、そいつは、ただの猫ではない。人の言葉を話し、額にツノが生えていて、馬のような立髪も生えている。こいつが先程言った、宇宙猫の色。
「随分とえれーことになってたじゃん」
相変わらずの小憎たらしいニヤニヤ顔を向けて言った。自称「神よりも偉い、宇宙猫」である。
すると色は立ち上がり、私に飛びかかってきた。やつの行動はもう読めているが、敢えてじっと動かない。
「誰が小憎たらしい顔だ、この野郎!!!!」
やつはそう叫び、尻尾で殴りかかってきた。私はそれをヒョイと避け、色はそのまま、重力に引っ張られて落下。
葉緒ちゃんと埜良さんは、色を気にかけ、白雲丸の下を覗いた。
「猫さん!」
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。あいつはただの猫じゃないので」
「淡白だな、アンタ……」
色のことは気にせず、船に乗り込んだ。
するとパッと、色が現れた。
「まったく……」
摩訶不思議な現象に、葉緒ちゃんと埜良さんは目を丸くし、呆気に取られていた。
驚いたのは、玉兎様も同様だった。葉緒ちゃんの腕の中から消えて、色のすぐそばに現れた。
「あ、あの……」
「おお、月夜。お前随分と荒れ狂っていたな。もう少し酷くなってたら、俺が出ていたところだぞ」
「……」
「え? 助ける気あったんですか?」
「さあな。お前が死にかけたら行ったかもな。あんまり俺が前に出過ぎたら、つまらなくなるだろ?」
「おい……」
玉兎様は、戸惑っているのか、さっきまでとは打って変わって、随分と謙った様子でいた。
「あの、色彩様で在られますか?」
「今は色で通してる。お前もそうしてくれ」
「……御意」
この船は、私が金銭をためて購入した、大型木造船である。それを色の力で私好みの色に染め上げた。
船のど真ん中に貫く帆柱の天辺には、薄の紋章が描かれた旗を掲げている。あれは、この船が海を旅することを許された、その証。あれがなければ、私たちは海賊となり多くの人に怪しまれてしまうことだろう。
そして私は、彩色の杖を持ち右手を空高く掲げて叫んだ。
「虹色隊、集合!」
『虹色隊!?』
すると、『ウィー!』と複数の声が聞こえ、私の周りに、全身一色に染まった七人が現れた。
私は彼らを新しく旅仲間になった皆に紹介した。
「紹介します。彼らはこの船の操縦を任せている、虹色隊です」
葉緒ちゃんと埜良さんは、目を丸くして彼らをじっと見た。
「かわい〜」
「恵虹、それホントすごい力だよなー」
そこに、船に戻ってきた色が口を挟んだ。
「そいつらの色合わせが、虹色のあれだから “虹色隊” って、安直すぎるよなー」
色の無礼千万な一言に、葉緒ちゃんは首を傾げた。
「え、そう? 虹色だし、葉緒はかわいいと思うけど」
ありがとう、葉緒ちゃん。
「……馬鹿女郎め」
気を取り直して、虹色隊の隊員を紹介をする。
全身真っ赤な彼は赤太。橙色の彼は橙太。黄色い彼は黄太。緑色の彼は緑太。青色の彼は青太。藍色の彼は藍太。
「名付けテキトー過ぎね?」
埜良さんにまで言われてしまった。
「えー? かっこいいじゃん」
葉緒ちゃんの純粋で優しい一言が、少し身にしみた。ありがとう、葉緒ちゃん。
「……マジか!?」
「そして最後、紫色の紫太です!」
「シタじゃねぇの?」
「語呂悪いじゃないですか」
七人全員を紹介し終えたところで、いよいよ出航する。虹色隊のみんなのキビキビとした働きによって、船は動く。
葉緒ちゃんと埜良さんは、長く暮らしてきた島に向かって、盛大に手を振った。
『じゃーーねーー!!』
続き↓