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長野のまちを学びのフィールドに。学生とまちを繋げる「まなび対話コーディネーター」という仕事

こんにちは!矢野叶羽(やのかなう)です。

私は、長野市を拠点に高大生・若者向けの「まなび対話コーディネーター」として場づくりの仕事をしています。「まなび対話コーディネーター」とは、「まなび」と「対話」を通して、まちの大人と学生・若者をつなげる仕事です。

私は高校卒業後に地元・函館市から長野市に移住してきました。長野市での暮らしは四年目を迎えます。ここで暮らしはじめてからというもの、長野のまちの人・こと・ものに惹かれ続けています。大学を卒業する来年度からも、長野のまちで暮らし、働いていくことを決めました。

「まなび」や「対話」をする仕事はパッとイメージしにくいものかもしれません。今回は、この記事を通して、なぜ私が「まなび対話コーディネーター」を名乗るのか、どんな取り組みで、どのような役割をしているのか、そして、どうして私が長野のまちでこの仕事をしていきたいのかをお伝えしたいと思います。

<プロフィール>
矢野叶羽(やのかなう)
長野県長野市を拠点に活動するまなび対話コーディネーター。北海道函館市出身・長野市在住。長野県立大学グローバルマネジメント学部大室ゼミでソーシャルイノベーションを学ぶ。長野県内の公立高校や公民官連携で行う高校生対象の事業に関わり、まなびの場づくり・ワークショップの企画運営等に携わる。

「学び」を通じて、まちと学生をつなげる

「NPO法人青春基地」での公立高校でのワークショップの様子。学生インターンとしてグループワークに加わり、非言語的なアプローチであるコラージュを作成するワークを行った  

ーーまずは、叶羽さんの「まなび対話コーディネーター」としての役割や働き方について教えてください。

「まなび対話コーディネーター」の役割は、学生とまちをつなげること、そして「対話の場づくり」をし、学びを深めるサポートをすることです。

具体的には、学生と対話する中で出てきた「こんなことをしてみたい」「こういうことに興味がある」という思いと、まちの人やお店などをつなげて、学生がまちを学びのフィールドにしていくサポートをしています。また、対話を深めていくためのマッチングや、場に投げかける「問い」の設計、椅子の配置などの環境をコーディネートしていきます。

ーーこれまで関わってきたプロジェクトは、どんなものがありますか?

2024年から、合同会社キキにジョインし、「さとのば大学」と連携して、高校生・大学生向けの地域留学体験プログラム「Learning Journey(ラーニングジャーニー)」の企画・運営を担当しています。2024年度の夏には、「善光寺門前町で『まちの編集者』になろう!」というテーマのプログラムを企画しました。

「さとのば大学」は、キャンパスを持たず地域をフィールドとして学ぶ市民大学。「Learning Journey」では、6〜7人の大学生や高校生が三泊四日で長野のまちを訪れる

ーープログラムの具体的な内容を教えてください。

まずは、長野のまちで発行されたパンフレットやフリーペーパー、イベントのフライヤーなど、あらゆる紙のメディアのアーカイブの中から自分が気になるものを選んでもらい、「なぜそれがいいと思ったか」「どこが気になるポイントか」を参加者と紹介し合います。

そのあとは、一度紙のメディアを離れて、「まちの編集者の声」を実際に聞いたり、その話を踏まえてまちを歩いてもらったりしてから、自分なりにまちを再編集するワークを行います。

学生たちが「自分の見た長野」を再編集した作品。まちの人にも「このまちでこんな学びをした学生がいた」と知ってもらうため、市内の施設の窓に掲示を行った

今年度は、計十二校の学生が同プログラムで長野のまちを訪れました。当日の運営やアテンドの他、各学校に合わせて、ゲストやまち歩きの場所を調整していくのが私の仕事です。

ーー調整というのは?

「まちの編集者の声を聞く」では、学生たちの少し先輩である、二十代の移住者をゲストに迎え、移住の経緯や現在の暮らしや仕事について話してもらう

たとえば、東京の提携校から長野市を訪れる高校生たちには、20代で東京から長野に移住してきた方をゲストに呼ぶなど、学生と「まちの大人」の間に「わかりやすい共通点」が生まれるようにします。そうすると、親近感を持ってもらえたり、「都会からどうして長野に?」と疑問が生まれたりと、「自分ごと」として話が入ってきやすくなるんです。

同じ地域・同じ学校からきた人たちが、同じまちを見て、同じ人に話を聞いても、人によって見え方や感じ方は全く変わってきます。プログラムを通じてその「違い」を体感することで、自分は何が好きなのか、何に興味があるのかを見つめ直す時間になればと思っています。

肩書きや年齢を飛び越えた、「対話の場づくり」

誰もがフラットに対話ができるよう、学生同士、大人同士が固まらないような配置で椅子を丸く並べる。こうした「場」の設計をするのも、コーディネーターの役割

ーーただ人と人をつなげるのではなく、相乗効果が生まれるような組み合わせを考えるのが「まなび対話コーディネーター」の役割なのですね。もう一つの役割である、「対話の場づくり」というのは?

「対話の場づくり」の具体的な例の一つが、2021年から運営事務局として活動している「JIBUN発旅するラボ」(以下、Jラボ)の取り組みです。Jラボは、長野県の高校生を対象にした約一年間の対話のプログラムです。

「JIBUN発旅するラボ」では、高校生たちがさまざまな地域の大人との交流から生まれた「問い」について考え、対話をすることを通じて、「自分が何者であり、何を実現したいのか」を明らかにしていくことを大切にしています。

ーーいわゆる「職場見学」で終わらず、対話をすることまでがプログラムのかたちなのですね。

高校生たちと一緒に県内の中小企業を訪問し、社長の生い立ちやこれまでの道のりを聞いたり、会社の中を見学したりしながら、さまざまな働き方や生き方があることを知り、視野を広げていく

たとえば、「地元のカタログギフト」の事業を展開する株式会社地元カンパニーを訪問した際には、児玉社長から「楽しく待つ時間を提供したい」というお話がありました。

参加した高校生たちは、その言葉が特に印象に残ったそうで、「待つ時間が変わると、どんな新しい自分になれるんだろう」という問いが生まれました。そこから、その「問い」を元に、グループで対話を行い、感じたことや考えたことを共有する場を設計していきました。

ーー「対話の場」をつくっていく上で、叶羽さんが「問い」を大切にしているのはどうしてですか?

「問い」には正解がないからです。こちらから特定のテーマを設定すると、どうしても「知識がある」とか、「経験がある」という部分で話し手に差が生まれてしまって、「誰かの話だけを聞かないといけない」という状況になってしまう場合があります。一方、「問い」から始まる対話は、誰もが同じように発言できるし、同じように話を聞くことができる。それは、「自分を取り戻す時間」になるんじゃないかと思うんです。

ーー「取り戻す」とは?

「学生」や「先生」、「社長」、「〇〇で働いている人」といった肩書きや、そこから生まれる上下関係から外れていくということです。その状態で出てくる言葉が、その人自身の「気づき」や、新たな「問い」につながっていく。私は、それがすごく大事だなと思うんです。

高校時代、まちの大人から投げかけられた「問い」が今の自分の原点になっている

生まれ育った函館は海のまち。高校生の頃には、温暖化によって名産のイカが獲れなくなってきたことなどを切り口に環境問題を考えるイベントを企画した

ーー叶羽さんの中で、「まちと学生」と、「問い」の二つが大きな軸になっているのかなと感じるのですが、これらの原点はどこにあるのでしょうか。

まさに、自分が高校生の頃にまちの大人たちと出会った経験です。地元の函館で働く大人や、まちの外からやってきた大学生、旅人など、いろんな大人たちの姿を見る中で、「じゃあ自分は何がしたい?」と、自分の中に「問い」が生まれてきたんです。さらに、その「問い」をもとに他者と話すことで、自分のアイデンティティや価値観が見えてくるな、と当時から漠然と感じていました。

ーー高校生の頃は、どうやってまちの大人たちと出会ったのですか?

高校二年生の時に、他校の友人と一緒に「自分たちのまちと環境問題」について考える学生団体を立ち上げたことが大きなきっかけでした。

地域のイベントに出店したり、学外で場所を借りてイベントを開いたりしていく中で、メンバーの一人が北海道教育大学の学生の方とつなげてくれて。その方は、函館市内にある「わらじ荘」と呼ばれる古民家で住み開きをしていて、そこにはいろんな大学生やまちの大人が集まっていました。そこでの出会いと経験が、今の自分につながっています。

ーーどんな出会いがあったのですか?

まず、「大学生」という存在自体が当時の私にとってはすごく「大人」でした。大学に通いながら絵描きをしている人や、休学をしている人たちと出会い、「そういう選択肢もあるんだ!」と驚きました。それから、そんな大学生たちを面白がって「わらじ荘」に顔を出す地元の経営者の人たちや、Uターンで地元に帰ってきた人、移住者の人たち。いろんな大人たちのあり方を見て、まず単純に「私、将来何でもできそう!」と感じたんです。

ーーいろんな大人に会うことで、わくわくする未来が見えてきた。

さらに、学生も大人も関係なく集まった人たちと話をする中で、「叶羽はこれからどうしたいの?」と「問い」を投げかけられたんです。それまで、「かっこいい大人」と、「自分」はどこか別の存在だと思っていたのですが、対等に接してもらい、「問い」を投げかけられたことで初めて「自分のしたいこと」「考えていること」に意識が向くようになりました。

ーーまさに今の叶羽さんが行っている「対話の場づくり」の原点ですね。当時の叶羽さんは、当時「何をしたいの?」と問われた時になにを考えましたか?

「こういう場がまちにあることを、もっとみんなに知ってほしい、自分でもつくりたい!」と思うようになりました。学校の中だけではできない体験や、対話を通して自分の価値観をつくる体験を、もっとみんなにしてほしい。学生たちに、まちに出てほしい。そのために、自分に何が出来るんだろうと。

長野で暮らし始めてから、自分の「暮らし」と「まち」が密着してく感覚があった

経営理論の教科書を輪読して、議論していくゼミの様子。ゼミのメンバーも各々の活動に重ねて自分ごととして考えるため、対話のように「らしさ」が滲み出る時間

ーー長野市に来る前から、まちに出て活動していたのですね。大学に進学してから、新しい変化はありましたか?

高校生の頃は英語にも興味があったので、「英語が学べる」かつ「地域で活動ができる」ことを軸に進路を考え、長野県立大学グローバルマネジメント学部に進学しました。進学当時は「グローバル」×「ローカル」が私の軸でしたが、長野で暮らし始めてからは自分の軸がかなり「ローカル」に寄っていきました。かつて自分の中にあった海外志向は、今はかなり小さくなっています。

ーーそれはどうしてですか?

長野に来てから、一人暮らしを始めたことが大きい気がします。函館にいた頃は実家にいたので、「暮らし」に対する関心は全くありませんでした。でも、長野に来てからは自分の「衣食住」がまちに溶け込んで行って、「自分の暮らし」と「まち」が密着していく感覚があったんです。

ーー「密着していく感覚」について、詳しく教えてください。

元旦に行われた餅つきイベントに参加。365日、自分の暮らしが長野の「まち」の中にある

高校時代は、「用事があったら外に出る」感覚でしたが、長野に来てからは圧倒的に「家」よりも「まち」にいる時間が増えました。

私はほとんど自炊をしないので、食事をするためにはまちに出る必要があります。そうすると、お店の人と顔見知りになって、「食事のため」じゃなくて「その人に会うために」お店にいくようになり、さらにその場で出会った人と話したり、ほかの場所を紹介してもらったりと、まちの中で自分の行動範囲が広がっていって。「自分はここで生きている、生かされている」という感覚が強くなってきたんです。

長野県立大学の1期生の先輩が、まちの古民家を改装して営んでいた古着屋「triangle」。「服を買う」こと一つとっても、まちの関係性の中で選ぶようになった

ーー「衣食住」のベースがまちにあり、かつそこでの出会いから自分の暮らしがもっと豊かに、もっと面白くなっていく。

最初は、長野のまちの中にキャンパスがある長野県立大学の学生なら、誰でも私みたいにまちに溶け込んで暮らしを楽しめるだろうと思っていたんです。でも、ほかの学生たちと話すうちに、「みんながみんなそうじゃないらしいぞ」と。「まちに溶け込む」というのは、私だからできる暮らし方、あり方なのかもしれないと気づきました。

ーー「自分にとっての当たり前」は、もしかしたら自分の強みかもしれないと。

もしそうだとしたら、私だけが楽しく暮らしているんじゃもったいない。これだけまちにいい場所があって、おもしろい大人たちがいるんだから、みんなにももっと知ってほしい。自分のまちを好きになってほしいなと。

大学四年次には、長野県立大学の新入生にまちの人との接点をつくってもらうため、定期的にまち歩きのイベントを企画。信州大学をゲストに呼び、学生同士の横のつながりもつくっている

ーーだから、大学卒業後も「まなび対話コーディネーター」としてまちをフィールドに活動していこうと決めたのですね。

はい。そう決めたのは、大学三年生の冬休みに教育関連の事業のインターンシップで宮城県・気仙沼に一週間滞在したときでした。気仙沼の高校生たちを相手にワークショップを行った際に、慣れ親しんだ「長野のまち」というフィールドにいなくても、ちゃんと彼ら自身に言葉を届けることができた、という手応えがありました。教育や学びづくりに関わる仕事がしたいという思いが一層深まったと同時に、「私は、これを長野のまちでやりたいんだ」と強く感じたんです。

ーー「どこでも働ける」ではなく、「これを長野でやりたいんだ」と。

はい。長野に帰ってきてから、「これからも長野で学びづくりがしていきたい」と発信をしていたら、合同会社キキの方々に声をかけていただいて、「さとのば大学長野地域事務局」の事業を一緒に作っていくことになりました。そこから、「まなび対話コーディネーター」として、長野のまちで自分なりの働き方をつくっていこうと決めました。

「自分の暮らすまちがおもしろくなる」ことが原動力

運営に携わった「Stowly Merche(ストーリーマルシェ)」では、組織運営の難しさを感じたことから、大学で自主的に「組織論」の授業を選択。「まち」での学びが、学内でも生きていく実感を得られた

ーー改めて、叶羽さんは自分が「まなび対話コーディネーター」として動くことで、まちがどうなっていくことを期待していますか? 

長野のまちが、もっと楽しくなることです。学生に限らず、このまちに住んでいる人たち一人ひとりが、もっとまちを楽しんだり、「自分のまち」として生きてくれたら、まちが変わると思うんです。まちを「変える」というより、自分を変えたい人たちの、「変わる」ためのフィールドがこのまちになる、その結果、まちがもっと楽しくなる、みたいなイメージです。

ーー「誰かが何かを学ぶ、何かをチャレンジするための場所」が、「自分の住んでいるまち」になることで、相互作用がうまれていく。実際に、自分がまちや人をつないだことで生まれた変化を感じたケースはありますか?

たくさんあります! たとえば、県立大学一年生の後輩が、「人の話を聴くこと」に興味があり、自主的に大学の理事長にインタビューをして記事を書いたという話を聞いたんです。それからしばらくして、長野市内を拠点に活動してるフリーライターの方が、「最近長野県内の案件が増えてきたから、学生の子にアシスタントをしてほしいのだけれど、文章を書ける学生の探し方がわからない」と話していて。まさにぴったりだと思い、その二人をつなげました。

そこから、長野県で活動する人に関するインタビュー記事の執筆はその学生の子がサポートをするようになったほか、逆に長野県立大学が主催するイベントのパンフレットを作るプロジェクトでは、そのライターの方が編集業務をすることになったんです。

ーー叶羽さんが二人をつないだことで、「やりたいことがある」学生と、「やる気のある学生を探しているまちの大人」がつながって、新しい仕事も生まれた。

学年や学部を超えた交流を生むため、県立大学のキャンパス内で定期的に開催している「ピクニック」。二十人を超える学生が集まることも

そうして実際になにか形になったケース以外でも、まち歩きイベントに参加してくれた大学一年生の子が、「先輩たちと一緒にご飯を食べたいです」と誘ってくれたことも、自分にとっては大きな出来事でした。

ーー小さなことでも、「自分が変わる」アクションにつながったのですね。

そうなんです。街歩きに参加してくれた時点では、ちょっとおとなしそうな子という印象だったので、「先輩を自分から誘う」というアクションに、大きな変化を見たような気がして。そうやって、みんながまちの中でちょっとずつ変わっていったら面白いと思いませんか?

ーーそのサイクルが循環していったら、自分たちの住むまちがもっと面白くなる。その予感が、叶羽さんの原動力になっていると。

逆に言えば、私には、若者や学生を信じることと、自分の暮らすまちを信じることしかできないんです。私にできることはこれだけ。

でも、自分の暮らすまちに、応援したいと思わせてくれる学生がいて、さらにつなげたいと思う人たちがまちにいて、活躍できる場がある。これってすごいことだと思うんです。自分自身、自分の暮らすまちをフィールドに自分の「やってみたい」を叶えていくことで、自分らしく生きる方法を身につけていっている気がするんです。そういう人が集まるまちは、これからも大丈夫だなと思えます。

取材・執筆:風音
編集:内田大晴

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