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旅立った友人が教えてくれた、大切なこと

昨夜はバレエを鑑賞してきた。
4年前、長女と可愛らしくデュエットを踊ってたお嬢さんが、パ・ド・トロワ(男性1人女性2人の3人での踊り)を踊るとのことでお誘いいただいたから。

このご時世もあり、1年ぶりに観るバレエ。
レッスン生たちの発表会だから、完成度という点ではクオリティは高くないのかもしれない。でも、だからこその懸命さや危うさが胸を打つ。

そして、同時に私はいつも、大きな後悔が胸にこみ上げてくるのだ。

一人だけ呼び出し

2018年5月だっただろうか。
私は尊敬する大切な人から「ちょっと話がしたい」と呼び出しを受けた。

その人は、長女の通うバレエ教室、アールグレイスアカデミーの先生。
美しさと気さくさ、凛とした空気と可愛らしさを併せ持つ稀有な人。
私はその貴島真由美先生からのご指名で、保護者会会長の任をいただいたばかりだった。

呼び出しを受けた電話で、きっとバレエ教室のことだと思い「ほかの役員にも声をかけましょうか?」と言うと「ううん、かなうさんだけで」。

少し不思議な気はしたが、ほかの役員さんはお忙しかったりするから、とりあえず私が頭に入れてシェアすればいいのかなと思い、待ち合わせの場所に向かった。

わざわざ時間を作ったわりには、お互いコーヒーを飲みながら世間話を続けていた。
30分はたっただろうか。間もなく夕方のレッスンが始まる。
私が時間を気にしはじめると、先生が口を開いた。

「大人のリラックスクラス、曜日が変わると困りますか?」

当時は私も大人のクラスに通っていて、週に一度のじっくりストレッチはたまらなく心地よかった。
曜日が変わっても通うだろう。ただ、急に変わるのは困るのでそう伝えた。

「うん、わかった」
先生は鹿児島弁のイントネーションでそう答えた。

…それだけの話だったのかな?
リラックスクラスの曜日を変えてもいいか、という相談?
それなら確かにほかの役員には声をかける必要はないか。
いや、でも私にも相談しなくていいよな。

なんだかすっきりしない気持ちでコーヒーを飲み干そうとしたとき、先生がさらりと言った。

「私ね、がんなんですよ」

文言は違ったかもしれない。
でも、凛と背筋を伸ばしたまま、やはり鹿児島弁のイントネーションでそう言った。

呼び出しの電話を受けた時点で、なんとなく感じていたのかもしれない。
私もさほど驚かず…いやもしかしたら、予想外すぎて驚くことすらできなかったのだろうか…「ステージはどれくらいですか?」と淡々と尋ねた。


ちょうどこのとき、私の実父もステージ2の前立腺がんで手術を受けるか受けたかという頃だったと思う。
医療の知識など全くない私はステージが4段階くらいまであるらしいということしか知らず、身近な父が基準。父はがん患者とは思えないくらい元気で晩酌もやめていなかった(やめろと言われてはいた笑)。

「…2?」

先生が答えた。

思えば、ここで気づくべきだった。
答える前の一瞬の間と、半疑問形のような中途半端な語尾。
ウソをついていることは明らかだったのに、私はそれに気づかなかった。

「でも大丈夫。ぜったい治すから。奇跡を起こすから」

そう明るく話す先生の声に、私も
「わかりました。じゃぁ心配しませんね」
と鹿児島弁のイントネーションで答えた。

こう答えられたことは、今でもよかったと思っているが。

大人のリラックスクラスは、その翌週くらいからすぐに曜日が変わった。少し準備期間が欲しいと伝えたのに。
さらに指導者も代わった。
貴島先生に習いたかった私たちは、日に日に不満を募らせていった。

言わなかった。言えなかった。

先生のがんのことは、誰にも言わなかった。
誰にも言わないでほしいと言われたから。

でも、誰かは知っているんだろう。
3人のお嬢さんたちと、それから…?
それは、わからなかった。
だから、誰にも言えなかった。

それから2、3か月は、発表会の準備に駆けずり回った。

これは先生の病気があろうとなかろうと同じこと。
むしろ前年まではいち役員だったが、この年は保護者会長と発表会実行委員長、さらにメイク隊長までやっていたので、よりいっそう全体を見なければならなかった。

先生の病気が知られることがないように、気を配りながら。

先生は普段と変わらぬ様子で元気にご指導くださったが、少し瘦せてきた。
もともと痩せていたのに、より細くなってきた。
そして大人のリラックスクラスに加え、幼児クラスも他の指導者にバトンタッチしていた。

発表会は当初予定していた内容からは大幅に変更となり、チャレンジングな演目よりもこれまでに誰かしらが経験している演目になった。同時に男性ゲストダンサーの人数も減った。
勘のいい保護者は「なにかおかしい」と気づき始める。

先生は「片腕だった娘が県外に進学しちゃったから、追いつかなくて」とかなんとか話しておられたのかもしれない。
いちおう全体のリーダーであった私も、ほかのお母さん方から「先生、なんかおかしくない?」と尋ねられたが、先生と話を合わせてはぐらかした。
そしてより信憑性が増すように、「昔傷めた腰の具合がよくないらしい」など、ほんのりと噂を流した。
とにかく今は、先生もご自分の病気のことを考えたくないだろうと思った。


毎年の発表会のごとく、連日の通し稽古などで先生はスタジオ泊まり込み、徹夜もあっただろうと思う。

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それでも発表会当日は、その細すぎる身体でジゼルを踊り切った。
舞台袖では3人のお嬢さん方が号泣していたと聞く。
フィナーレでは黒いタイトなドレスに身を包み、すべてのレッスン生に囲まれて挨拶をしていた。大きな花束を抱えたその表情は清々しく、神々しいほどに美しかった。

寄り添うって

発表会を終えしばらくすると、先生は髪をばっさり切った。
バレエダンサーが髪を切るのは、なにかあるときだ。知らんけど。

さらに1か月ほどたっただろうか、腰痛を理由にしばらくレッスンを休むと通達があった。
「むかし腰を痛めて、それが悪化してね。スタジオの階段(とても急な階段を上った3階)を上るのが辛くなったのよ」と先生は私にすらそう話した。

この時点でもまだ私は「心配しませんから」と言った自分の言葉に固執していた。
心配はせずともまたちがう寄り添い方があったのかもしれないが、それすらもできずにいた。

いや、やろうとはしていた。
「先生、グチってください」とLINEしたことがある。
それでも返信は「感謝ばっかりだよ。ありがとう」だった。
グチが聞きたかった。先生の本音が聞きたかった。


ただ、それは私の独りよがりだということが今はわかる。

倒れそうなところを懸命に立とう立て直そうとしているのに、グチなんか言ったら折れてしまう。そんなギリギリのところに立っていたのかもしれない。そんな人に「グチってください」なんて、崖っぷちに立っている人に「キャッチボールしようよ」とコントロールの悪い球を投げるようなものだったんじゃないだろうか。

6年生だった娘は、2018年いっぱいでバレエをいったんお休みしようと決めていた。先生の病気を知っているとはいえ、我が家は我が家の考えがある。それを変えるのはフラットではないと思い、このころにはすでにスタジオに姿を現すことすらなくなっていた先生にLINEを送った。

「いったんお休み」。つまり休会と伝えたのだが、先生にとっては「退会」と同義だったのかもしれない。
私としては、保護者会長として務めを果たしたい気持ちと、あと数か月もすれば次女が入会するからという想いと、次女入会までの数か月は先生と”友人”でありたいという願いとがあって、「休会」だったのだけれど…それはきっと伝わらなかっただろう。これもまた、独りよがりだったのかもしれない。

娘が休会してまだ1か月ほどしかたっていない2019年2月初め。
先生は旅立った。
「先生と保護者」として出会い、たった4か月の予定だった”友人”期に還らぬ人となった。
だから私の中では、大切な”友人”と呼ばせていただいている。

代表者不在の発表会

先生が亡くなった2019年、その遺志を無にしたくなくて、構想だけは出来上がっていた発表会をやりきった。先生の3人のお嬢さん方が中心となって。

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代表者不在のアカデミー。
3人のお嬢さんたちがいるけれど、成人しているのは一人だけ。
「そんなことできるわけない」という声もあった。

それでも、アカデミー生も保護者も、お嬢さんたちと想いは同じだった。
「先生の最後の想いをカタチにしたい」。
先生はなによりも、このアカデミーを大切にしていた。

私も、長女は休会していたが予定通り次女を入会させて保護者会長と発表会実行委員長、メイク隊長を務めた。
右には舞台をよく知っている優しい癒し系副会長、左にはとにかくみんなの顔と名前を覚え気を配れる会計さんがいてくれた。最高のチームだった。

この発表会を最後に、アカデミーは解散した。
たった7年の活動だった。
ただ、この7年にきっと先生のすべてが詰まっていた。

なにもできなくても

先生が亡くなって3年が過ぎた。
今にしてやっとわかってきたことがある。

「実はね、がんなんですよ」
そう先生が話してくださったとき、私はどうしたらよかったんだろう?

これがこの4年間ずっと分からずにいた。
先生が晴れやかにステージに立っていた時も、レッスンに来られなくなったときも、亡くなってからも、ずっと。

何もできなかったことが悔しくて、いつも「ごめんね先生」と泣きながら呟いていた。
自分の無力さに腹が立って、なにかできたんじゃないかと後悔していた。
いつも、胸の奥に何かが引っかかっていた。

いま思う。

何もしなくてよかったんだ。

なにかできると思う必要すらなかったんだ。

ただ、横に立っていればいい。
ほんの少し触れるか触れないかくらいそばに立ち、肌のぬくもりを伝えればいい。
できれば、ときどき手を握れたらよかったな。
欲を言えば、「がんなんですよ」と告白くださったとき「心配しませんね」という言葉とともに手を握れたら、それがいちばんよかったのかもしれない。

何もしなくていいときがある。
いや、人はしょせん、本当にその人のためになんてなにもできないのかもしれない。「人のため」なんてぜんぶ想像の産物。相手がほんとうは何を望んでいるかなんて、知る由もない。
まして「なにかできたはず」なんて、傲慢なのかもしれない。

なにもできない。
それを知ること。

そして、それでいい。

だからこそ、お互いに”なにもできない自分”まで認められるんじゃないかな。

先生にとって私は、少しは頼れる友人だったかもしれない。
でも、「なにかできるはず」と思ってしまったせいで先生を追い詰めたのもまた、私だったのかもしれない。

なにもできなくていいんだな。
ただ、体温を感じられる距離にいられれば。
その体温がイメージの中だったとしても、ただただ心を向けていれば。



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