期待していた言葉が自分に向けられる。
ああ、なんだそんなものか。と、ユウコは思った。


こういう朝はもう少しキラキラしたものだと思っていた。
春が近づいてきたとはいえ、朝の空気はまだどこかひんやりとしていて鼻のあたりをツンと刺してくる。

そこでようやく自分がマスクをしていないことに気がついて、慌ててカバンを漁る。
ちょうど在庫が切れたところのようだ。
吐いた息は微かに白くなって消えていく。
上着のポケットの奥から出てきた昨日のそれを、仕方なく取り出した。


向かいから自転車に乗った制服姿の男の子がやってくる。
恥ずかしくなって、つま先を見て歩いた。
部活動の重そうな荷物を背負った彼は、早朝にも関わらず爽やかに通り過ぎていく。無意識に溜息を吐いていた。


ユウコにはああいう男の子とすれ違うような学生時代に憶えがなかった。
心の片隅では羨ましいと思いつつ、ある種の都市伝説のようなものだと思い込んでいた。
誰が誰を好きだとか、誰と誰が付き合っているだとか。
興味が無いわけではないけれど、自分には無縁なものだと思っていた。


だからといって、こういう朝の言い訳にはならないのだとユウコは悟った。
いい歳した大人が、昨日の夜と同じ服で駅へと向かっている。


もう少しゆっくりしていけばいいのに、とまだ半分夢の中にいる男の言葉に適当な返事をして、煙草の臭いのする狭い部屋を出てここまできた。

煙草を吸う男とキスをしたのは初めてだった。
別に嫌なわけではなかった。かといって望んでいたのかも分からない。
流されるとも違う。自分の意思でその首に手を回していた。
心が追いつく暇もなく。その中での確かな高揚感。

すっかり酔いも覚めていた。
もう少し飲んでいれば良かったとすら思った。


「好き」

ああこれが、現実か。
心と体が離れていく感覚。
いいと思っていた男に好意を向けられたはずなのに、なんだか妙に凹んでいる。


好き、か。
その言葉に含まれる成分を、分かりやすく図に描いて説明して欲しいものだ。


さっきまでよりも踏切の音が近くなって、顔を上げる。
続々と、駅へ向かう人々の波がが浮かれた服のままのユウコを飲み込んでいく。


いつもどんなに少しの移動の時も欠かさない音楽も、今は何故だか煩わしかった。
充電の残り僅かなスマートフォンを取り出して改札へと近づいたとき、その画面がぼんやりと明るくなる。


新着メッセージ 1件

「気をつけてね」


画面を伏せて、駅のホームへと歩き出す。

どこへ向かうのだろう。
こんな日に限って朝陽は眩しく、ユウコごと街を照らしている。


END

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