葉桜のころ
「えーうそ。そんな面白いことになってたの?」
マユミは上機嫌で、目の前のグラスに赤ワインを注いだ。
今日はガッツリいきたい、という彼女のリクエストで肉がメインのバルに珍しくやってきている。
それなりに空腹を感じていたつもりだったけれど、なかなか喉を通っていかない。
面白いことか。人からすれば、本当にそうなんだろう。
まあ確かに浮かれた夜だった。珍しく十も年下の男子に懐かれて。
まずいなとは思いつつ、久しぶりのそういう雰囲気にまんまと流されて楽しんだ。
確かに面白いことになったといって彼女を呼び出した気がするが、ほんの少しだけ違和感があるのは何故だろう。
「いいなー。わたしも久々にそういうこと言われてみたい」
「うそ。男なんて私の人生に必要ないんじゃなかったの」
「それとこれとは別だよ。結婚なんか望んでない。たまには遊びたいなーってはなし」
「人が遊んだみたいに」
「え、遊びじゃないの?」
遊び。
その言葉にはあまりにバリエーションが多すぎると思う。
ただの体目当ても遊びと呼ぶし、それなりに気持ちがあるけどいろいろな責任を逃れるためにお互いが同意の上で仲良くすることも遊びと表現することもある。
遊び、か。
会社の歓迎会の幹事だった。
二次会まできちんと務め上げて、解散した。
既婚者も多いし、家族や恋人と同居している同僚も多い。
家で誰かが待っている。鬱陶しいことも多いと、みな口を揃えるけれどこちら側からすればそれごと羨ましい。
駅前の桜はすっかり葉桜になっていた。
桜の季節は早い。咲いたと思ったら雨に打たれて、風に吹かれて、いつの間やら散っている。
ひとり、花びらよりも葉っぱの方がすっかり多くなってしまったその樹を見て、思わずため息をついた。
4月とはいえ、夜は少し肌寒い。もう一枚、肌着を着るべきだったと後悔する。
『沢木さん』
声に振り返る。
最近、うちに配属されてきたばかりの新入社員だった。
やたらと人懐っこい笑顔をしていて、すっかり皆に気に入られている。
先ほども自分の歓迎会だというのに、二次会ではすっかり先輩たちのオーダーをとることに徹していた。
若いのに気が利く、と思ってしまうあたり、自分の年齢を感じてしまう。
『沢木さんもう、帰っちゃいますか』
『もう一軒、いきませんか。ふたりで』
距離が近いなーとは思っていたけれど、三十過ぎの女をそんな風に誘ってくるとは。
その勇気に、なんだか感心してしまったのだ。
――いやうそ。シンプルに、入ってきたその日から、可愛い子だなと思っていた。
結局、男女の関係というのはそんなものだ。
「で?そのままホテル?」
「そのままじゃないよ」
「飲みなおして、そのままホテル」
「…悪いか」
「いいねー。悪いねー」
「悪いっていうな」
マユミはにやにやと牛肉のたたきを頬張る。
「で?毎朝、おはようのLINEスタンプがくると」
「うん」
「若いねー」
「ね。ま、でも、あのまま何にもないよりはいいけど」
「それにしても十個下かあ。考えらんない」
「私も考えてなかったよ」
「今は考えてるわけ」
マユミは相変わらず、痛いところをついてくる。
同じ会社で働き出して以来、サバサバした彼女とつるんでいると自分までサバサバ女子になれたような気がしていたが、実際はそんなことはない。
「遊びならめちゃくちゃ羨ましいくらいだけど。無いよ、結婚は」
「…わかってるって」
「ならいいけど」
「さすがに、大学出たての子とは、どうにもならんよ」
「わきまえてるならよし」
マユミの言う通りだ。
結婚できないならしなくてもいいけど、可能性があるんだったら頑張りたい。
そんな中途半端な気持ちのままここまできてしまって、気が付けばあとがないのだ。
十も年下の彼とでは、あまりにも釣り合わなさすぎる。
趣味だって話だって合わないだろうし、いろいろなところで差を感じてしまうんだろう。
そのたび傷つくくらいなら。
「でもさ――」
『好きです』
『下の名前で、呼んでもいいですか』
先週から耳にこびりついて離れない、彼の声を思い出す。
体の芯が熱くなる感覚があって、慌ててワインで流し込んだ。
「なに、教えてよ」
「内緒」
恋をしている、私だけの秘密だ。
――恋、か。しっかり自覚してしまっているじゃないか。
「はあ」
「なに、今度はため息」
「なんでもないよ」
「ま、若い子と遊ぶくらいバチ当たんないんじゃない。あっちはこれからいくらでも出会いがあるんだし、訴えれたりしないよ」
「そうだね」
残り時間は少ない。
しがみつくわけにはいかない。わかっちゃいるけど。
久しぶりのこの気持ちと、あっさり離れてしまうには勿体ないような気もしている。
机の上のスマホが短く振動する。
マユミが席を立った隙に、画面のロックを解いた。
『ただいま』
気の抜けた顔の熊のスタンプだった。
今日もご丁寧に帰宅したことを教えてくれる。
なんて返そう。考えている間にまたスマホが振動した。
『はやくあいたいです』
思わず頭を抱える。
と、トイレから戻ったマユミが心配そうにこちらを見ていた。
「飲みすぎた?」
「いや。胸やけ」
「そこ頭だけど」
私だけの秘密は、目の前の彼女にきっと筒抜けだ。
END