溜息をふかす。

「ざんねん!」


あとひとつ揃えばクリアできたのに、いつもあと少しムーブ数が足りない。ライフが0になってスマートフォンから視線をはずす。

いけない。危うく、おりるのを忘れるところだった。隣に座っていた女性も同時に席から立ちあがり、同じ乗車口へと近づく。あちらはなんとも思っていないだろうが何となく気まずい。

短いスカートからのぞく黒い薄手のストッキングをまとった脚。微かに甘い香りがする。顔を見なくても分かる。自分より“イイ女”だ。

ぼんやりしたまま、何も考えずに改札を出る。しまった、指定された店はこちらの出口からでよかったのだろうか。

邪魔にならないよう柱を探す。同じように地図アプリを開く先約がいて、別の柱へと移動した。

よかった、この先であってる。

道を確認し、顔を上げる。
真新しいスーツ。丸められ小脇に抱えられた上着。夜を待つミニスカート。行き交う人々はせわしなく、それぞれがそれぞれの時間へと向かっている様だった。

珍しくつけてきた指輪が思いのほか大きくて気になる。指から抜けていきそうで、きちんと節に引っかかる。でも飾りはいちいちくるりと回転して、ほんの少しだけストレスだ。それでもお守りがわりに付けてきた。今日はこいつが頼りだ。

駅を出ると相変わらず無秩序なようで、ある程度の秩序を保った自転車たちが出迎えてくれた。
小さく息を吸い込む。隔てられた布越しの空気では懐かしさは感じられなかった。それでも、目に映ったとてもセンスがあるとはいえないネオンの看板たちが、ここは紛れもなくお前の知っている場所だと主張してくる。戻ってきてしまったのか。まだ少し肌寒い。上着を持ってきてよかった。


「久しぶりやな」
「5年ぶり…かな?」
「そんな経つか。元気やった?」
「相変わらずだよ」

目の前の男がメニューを差し出す。友達でも、久々の再会というのはなんだかとても照れくさいものだ。この男が友達がどうかは、今でも判別がつかないけれど。


他愛もない話が続く。5年も会っていなくても、なんとなく相手の食の好みというのは忘れないものらしい。相手の好きなものを無意識に選び、私も好き、なんて言ってしまう。

この男に限ったことではなく、いつもいつでも自然とそうなってしまうのだ。自分の本当に好んでいるものなんて、とうに分からないのかもしれない。

自分というものは勝手に知らないあいだに自分の手を離れていく。そうしてこうやって無駄に傷つき、無駄な時間を繰り返すのだ。無駄なものを欲する。人間の心というやつは実に厄介で理解に苦しむ。


「吸っていい?」
「うん。……ね、一本ちょうだい」
「ん。どっちがええ?」

男は昔から吸っている紙タバコの他に、ポケットから電子タバコを取り出す。

「両方持ってるんだ」
「会社、電子タバコだけオーケーやねん」
「へえ」
「でも結局、こっちじゃないと」
「吸ってる感ないよね」
「そうそう」

紙タバコを、一本もらって火をつける。すごく、ひさしぶりの煙。深く息を吸い込んでは、吐きだす。

「あ、すいません。ハイボール」
「ペース早くない?」
「そっちは全然飲んでないやん」
「もうあの頃みたいには飲めないよ。いくつだと思ってんの」
「はは、見習いたいわ」
「電車だしね」
「そっか」


ひさしぶりの呼び出しの理由も、ひさしぶりのタバコの理由も、この男は訊いてはこない。

他愛もない、なんでもない、当たり障りのない会話。たいしておいしくはない料理。助かった。しゃれたレストランでも用意されていたらどうしようかと思っていた。

でも本当はそういう憧れだってあったはずだ。いつからか、自分にはこういう方が似合うのだと折り合いをつけている。だからといって何も困ることはない。何杯かのビールの後に、マリブコークが飲めればそれでいい。


「じゃあ、やめちゃったんだ」
「まあせやな。趣味程度には描いてるけど」
「そっか」
「そっちは頑張ってんねやろ」
「まあ、うん。続けてるよ」
「すごいやん」


いい顔をしたいのだろうか。今の生活がまるで順風満帆みたいに、自分の口からは前向きな言葉が次々と飛び出す。恋愛にうつつを抜かすことのない、夢を叶えた強い女。男の中ではそう折り合いをつけて終わっていたであろう自分は、本当は決してそんな立派な奴ではない。

あの時にそうやって伝えるべきだったのかもしれないが、断ち切る勇気が私にはなかった。せっかく、いいと思ってくれていたんだ。がっかりされたくは無かった。


今更、自分の人生に巻き込むわけにはいかない。巻き込むつもりもない。かといってその場しのぎをするかどうか、それも分からない。ゼロではないし、百では決してない。

あの時描いてくれた私の絵、嬉しかったんだよ。それは、とうとう言えないままだ。

美味くも不味くもないタバコを静かに灰皿に押し当てる。

この男みたいだ、と思った。なんて失礼な感想だろう。久しぶりだからって少しは盛り上がったりするのかと思っていたけれど、そんなことは無かった。それには何かが足りなかった。お酒、だろうか。


「どうする?この後」

男のサガというか、あわよくばなのか。それとも、シンプルな質問でしかないのか。

どう転んでも最終的にそういうことになる自信のある自分が、いかに厄介で滑稽なのか思い知らされる。

どうしてこうなるのだろう。懲りるくせに、懲りないのだ。自分が引き寄せて、自分で決めたこと。いつだって判断させてもらえる隙があるはずなのに。

「飲みなおす?」

ほろ酔いで歩き出した男に続いて店を出る。

息を吐けば布に遮られ、自分へと返ってくる。思いのほか、アルコールのにおいはしない。

「いいよ。行こう」


上機嫌に笑う男の手が肩に回るのを拒否しなかった。牽制のための指輪には、なんの効力もない。


END

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