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香港大埔六鄉新村と中英旅行社
この間長春社の六鄉新村ツアーに参加し、必ず知っておきたい郷土史だと思ったのでここにレポートを残しておきます。香港新界の大埔六鄉新村という狭い地域を二時間回るだけでしたが、香港の村独特の華僑の歴史、悪名高い香港原住民の特権・丁權の改革の試み、独特の行政管轄等、たくさんの要素が詰まったとても濃度の高い地域です。
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沙頭角近くの六つの村
私は香港新界の大埔の林村という、二つの山に囲まれた綺麗な水が流れる美しい村に住んでいます。毎日のように大埔からミニバスで家に帰るのですが、そのバス停の側には元「六鄉新村公立學校」があります。大埔市民なのにここの学校の歴史をちゃんと知らないのは如何なものかとずっと思っていたので今回のツアーはとても楽しみな事でした。
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六鄉の名前は中国国境の禁區となっている沙頭角の近くの六つの村(小滘、大滘、金竹排、橫嶺頭及び橫嶺背、涌尾、涌背)の村人達が大埔に集団移住してきた事に由来しています。当時の港督政府はダムの建設のためこの六つの村をダムに沈めました。
ここでは大埔に移転したこの六つの村を総称した六鄉新村の街と歴史について説明していきます。
香港新界の開発の歴史はダムの歴史と共にある
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(小滘、大滘、金竹排、橫嶺頭及び橫嶺背、涌尾、涌背)
六つの村の村人の新たな住居として大埔と荃灣が選ばれました。当時の新界開発によって作られた「新市鎮」は大埔では1976年から開始され、村人が移住した1966年は開発前よりだいぶ前の事であり、彼らの住宅建設もやりやすかったのではないかと推測します。
ダムの名前は船灣淡水湖(Plover Cove Reservoir)で1968年に完成してします。新しい村人の住処のある六鄉新村は当時海に面していたのですが、海沿いの通りの名前の英語名はダムの英語名と同じで寶湖道(Plover Cove Road)です。ダムと通りは地理的には遠いですが縁を感じる名前です。
現在海は埋め立てられて一田百貨のある大埔の中心地、及び日清やmaximなどがある工業地帯になっています。
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六鄉新村の村人の新しい家として、一家族に700尺程の面積の家があてがわれました。これは現在の6人家族の公屋(公共団地)の倍近くの面積なので現在の香港の状況と比べるとマシな優遇だと思います。
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比較的天井は高めで階段の手摺りも長く美しい
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発音が六鄉と同じ「陸鄉里」
香港の原始的な男性特権・丁權を女性にも与えようとした?
ちなみに、大埔に移る過程の中での丁權に関する興味深い出来事がありました。
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大埔に移転の際、海外に移民する長男も多かったため、六鄉新村は女性の割合が多かったそうです。また丁權を女性にも与えようと検討するも実現せず。しかし香港の村=原住民の独特の特権なので食い込むのが非常に困難であるにも関わらず検討しただけ画期的です。よしながふみ著の男女逆転版『大奥』と同じ状況なのが面白い。大埔は香港一リベラル層が多く住む地域ですが、こういう事実も影響していたなら興味深いです。
※丁權:香港の村=原住民の各家庭の男性1人に与えられる家=丁屋 を持つ権利。三階建で階ごと700尺の建築と定められている。大抵は階ごとを賃貸として活用するので、住宅事情が厳しい香港において重大な格差問題の一つとされている。ジェンダーの点からも問題があるけれどそれ以前の原始的な制度。
確かに六鄉新村の街をよく見ると「英國聯諠會」があります。海外に移民した村人を繋ぐ事務所は今も存在しており、彼らが里帰りする新年など限られた機会に開かれています。
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また、移民した村人にまつわる建物は新村の一角である普益街にも存在していました。大埔の中でも一番荒々しくて怪しい地域…
ハッピーショップの隣にある中英旅行社(何故そんなに怪しい場所にあるの?
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大埔一怪しい通り・普益街には元朗行きの赤いミニバスの始発バス停があり、向かいにはタイ仏教の祈祷場があります。いつもミニバスの運転手やこの辺りで働いているおじさん達が裸で寝っ転がって何かをしています…。
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近くにはお年寄りに迷信系アイテムと保険
を売りつける「ハッピーショップ」があり…
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その隣にあるのが「中英旅行社」です。コロナ禍で開いている時をあまり見かけず、アヤシさ全開でしたが最近は平日ちゃんと営業しているそうです。
この旅行社も中華圏にある旅行社然り、香港華僑と香港を結ぶ職安、学校案内、銀行、強いコネを有しています。そしてここは六鄉新村住民のための旅行社なのです。
香港では六鄉に限らず開発のため村ごと移転したり生活スタイルを変えざるおえない時、香港を離れ海外に移民するという第二の選択肢が昔からあります。香港華僑の歴史の大きな流れの一つは村から起こっており、それは今も続いています。六鄉新村のこの旅行社の場合、イギリス、オランダ、大陸、そして日本ともコネクションがあるそうです。
いずれにしても、海外への移民が女性の丁權を検討したきっかけになっていたのは面白い歴史です。
飛地の飛地 村(郷)公所は村に在らず
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香港の村には必ずご先祖や神様を祀る廟があり、村によってどの神様を信仰するかは様々です。六鄉新村には六鄉の村の一つである涌背村の家族、李姓の先祖を祀る廟があります。
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また近くには六鄉全体の公民館である六鄉村公所があります。
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街中の村公所というのは珍しいですが、面積が広く多くの村を包括する大埔はこのほかにも出張所的な村公所を街中に有しています。
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例えば六鄉新村から歩いて5分程の富善街市の裏手にある「七約鄉公所」。ここは地理的に不便な場所に位置する大埔區内の七つの約(=村の集合体、例:林村)の公民館が集まった建物です。歴史は古く1892年に設置されています。
七約の内訳は、泰亨約、林村約、翕和約、集和約(沙羅洞)、樟樹灘約、汀角約、粉嶺約、全て非鄧姓の村だそうです。(非鄧姓というのが大埔の街構造に大きな影響を及ぼしています。詳しくは後述)
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隣の通りには同じ理由で「西貢北約鄉事委員会」があります。西貢ということは西貢區なのに何故大埔區に?と思うかもしれませんが、一部の海側の地域は大埔區に属しており、大埔區の飛地管轄となっています。大陸に面し、雲丹で有名な東平洲も大埔區の飛地で、昔雲丹炒飯を食べに行った時、大埔海警が村人とお喋りしてた光景を思いまします。
非鄧姓(車呯)VS 鄧姓(舊墟)
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六鄉新村に隣り合わせの場所に位置する富善街。ここは美味しい豆腐や新界の野菜も買える、私の大好きな屋外にある街市です。
ここは昔は太和市と呼ばれていて、更に19世紀末ここの一角に車呯と呼ばれていた場所がありました。週に数回マーケットが開かれる方式で、手推車(ワゴン)を停めて物を売っていたのが名前の由来。
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⭐︎ちなみに先程の中英旅行社と車坪、沙頭角にも中英街と車坪街があるんですねぇ。
太和市はもともと七約の村人達が林村河を挟んだ向かい側にある舊墟に対抗した市場でした。舊墟は鄧姓の人達が天后宮を中心に開いた古い街。一方富善街には文武と帝武の二つを祀る廟があります。
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太和市が勢い付くのは1913年に近くに大埔墟火車站(現:香港鐵路博物館)ができ人の動きが活発になってからです。更に廣福新橋(現:廣福橋)ができて舊墟方面からのアクセスも可能になりました。
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そんな感じで街を一周して終わった六鄉ツアー。興味深い地域なのでまた発見があれば追記します。自分の住む街の歴史を知る事は自分の生活と歴史が同じ世界線に並んでいる事を実感できるので大好きです。
しかし香港の学校は郷土史をやらないそうなので、このようなツアーに自発的に参加しない限りは香港人でもこの面白い歴史に触れることができないのは残念です。
次は自分の住む林村について書きたいですが、それはまた沼なんだな…。
オマケ:大埔でも走ってた鄉村車。可愛い。
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