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ご縁があった同僚も赤い車④

赤い車の人との宿命
トラウマ④

赤い車の人とどれだけ人生うまくいかないんか〜い
って、エピソードを書いてます💦↓




同僚になった人の車🚘も赤⁉️😂④

私にいきなり電話がかかってきたのは、今から十三年以上前のことだ。

彼女とは、次男と三男が一年間ずつ学童クラブでお世話になったっきり、お付き合いは、全くなかった。

 ※私の中で彼女は先生!という思いがあるので、手の届かない人って感じの存在だった😂私はなんたって昭和の女だ😬💦←昭和の人は先生!と呼ばれる人をこの上なく尊敬して生きている😊

 突然、電話を頂いたときには、長男高校三年、次男中学二年、三男小学五年の時のことだった。人生多忙真っ只中🏃‍♀️

 三男がお世話になったのが幼稚園の頃で当時は、まだ幼稚園生でも学童クラブに通うことができたのだった。

 本当は一年生からも通わせたかったのだけど、ちょうど三男が一年生に上がる年の4月から学童クラブは保育園の敷地内にあった形から、五歳児クラスが新設されることで施設外へ出て行くことを余儀なくされた経緯があったのだ

 保護者と共にどうやって学童クラブを運営していくかの話し合いのもと、歩いて百メートルのところの空き家に学童クラブが立ち上がったようだった。

 そんなことで当時で月額6000円から8000円に値上がりするのだと、聞いていて
我が家は断念した貧乏家族であった💦
 ※ただ私が閉鎖される時までの3年ほどは月額5000円と格安になっていたのだけど、結局、採算がとれずに閉鎖に追い込まれた💦

 ただ彼女からの電話はめちゃくちゃ急を要する内容で明日からお願いできないか?
 なんて内容だったのだ

 明日から⁉️え〜⁉️
折りしも年度末
まさかや⁉️

 畑違いの元銀行員💦の私😂
直近の一年前までも事務の仕事を転々としていた私は、町の統合による人員削減が発端で3町から集まった強者たちによって見事に心を壊されて引きこもっていた時期だった😂

 まさか、私に・・・って感じで始まった赤い車の彼女との再会が今に至る保育園での仕事につながっていることだけは、まことに感謝にたえない。
 ※生かされたと思っている🙇‍♀️

 のちに知るのだけど、私に電話をしてきたのは、総当たり戦で、ことごとくたくさんの人たちに断られたあとのことだったらしく😭

 どんどん知り合いもなくなり、私にまで辿り着いたのだったらしい💦😂
 ↑それは、時間もなくなるよね😂知らんけど。

 そう言われたら、その時の彼女から電話の内容に彼女の全てが集約されていたのだけど、まだ私には彼女をそこまで見抜く力は残念なことに備わっていなかった💦
 ↑これが神ってた転職のきっかけであったものの新たなる私の波乱の人生の第三幕の幕開けとなった😭

 できる女!

 リスペクトの塊って感じで私は完全に自分を卑下していて、彼女のことを尊敬だけの眼差しで見ていた💦

 勤務条件の保育士ではない私。高卒の私😭
 勤務時間が朝は、早すぎて帰りは、遅すぎたので、問題外の案件だった😂

 我が子の子育て理念と合致していなくてハローワークで募集は認識していたけど、ありえない‼️と私は一蹴していた💦

 それでも当時はもう一年以上ハローワークに通って次の仕事を探していた私😭
 ※目の前には大学受験💦の長男🏃‍♀️ヤベっ

 どんなにハローワーク通っても、またいじめられそうな病院の給食か介護の仕事ばかりで、こんな弱っちい私は永遠に就職できないのではないか?と、うっすら絶望の真っ最中にいた私だった😂

 結局、翌日には履歴書持参で私は、次の人が見つかるまででお願いします‼️と小さくなって、保育園の事務室で面接を受けた

 と言っても少し前まで通わせていた懐かしい面々😂
 顔見知りな先生方ばかり💦
 
 なんじゃぁ、この保護者かぁ。。。と思われているのだろうなぁ。と私はひたすら低姿勢だった💦

 今、思えば、この時に強く条件を出しておけば、あんなことにもなってなかったのかなぁ?と思ったり、今でも後悔することとなっている💦

 それでも子ども達は、平等にみんな生まれ持って天使だと思っていたので、子供たちとの仕事で辛いこともありすぎても癒されることもあった‼️

 前職の悪役同好会まがいの顔ぶれは、いらっしゃらなくて、普通に皆さん、敬語を話される方ばかりで足を引っ張ったり、心を壊そうなんて人は一人も居なかったことだけは、現在も続いていることで救われている😊
※後にモンスターペアレントたちに心をまた壊されたけど😭

 とりあえず私はまた仕事にありつけたのだった🙇‍♀️

 そんな彼女が乗っていた車も赤だった・・・

 彼女は私とは真逆な性格で私は、よく倒れもせずにやっていたな。と
今でも思い出すと苦しくなるエピソードがたくさんある。

 誰か聞いてくれ〜‼️って心が張り裂けそうになりながら、私は黙して踏ん張った💦
※同年代の保育士たちも子供たちと同級生だったりのお母さんたちで‼️そこは、嬉しかったのだけど、、、

 田舎特有の人間関係がそこには、あったから弱音を誰にでも吐き出すことはできなかった。(こちら誰かと誰かが従兄弟や親戚、はたまた同級生あるあるな狭い先住民から同じ地に住む民族😂多発地帯)

  二人だけの密室での出来事。狭い古民家での学童クラブは、もう彼女の王国と化していたのだった。

 私の前任の彼女は、保育士一年生で学童クラブ専任の保育園の保育士たちは、日替わりの早番遅番もあるのに、彼女だけ三年間毎日遅番で帰りが7時までを担当させられいたことも後に知ることになる😂
 そして、私も1日交代で遅番の七時を担当させられたその年から彼女も初めて七時までの遅番を経験したのだった💦

 彼女の子供たちは特別待遇で小6まで自分のクラブに通わせていたし、彼女は遅番を担当しない‼️
 それを勝ち取るにあたってどれだけ園長に泣いて直談判したか‼️と、武勇伝を聞かされる私だった😭
 あなたもそれくらいしなさいよ!というアドバイス😭
 人前で泣くことは感動のドキュメント動画でも観ない限り理性が崩れない繊細さんな私😭
 昼寝だって十一年間、みんながいびきをかいていてもできたことがない夏休みの昼寝タイムだった😂

 そして、その前任の彼女の最後の捨て台詞を知った。

 「絶対二度と死んでも戻りたくない」学童クラブでも辛い日々だと風の噂で聞いたのだった

 赤い車の同僚の性格は、単純明快
 我が道を歩く人。自分軸が100‼️それに尽きた。

 私は子どもが三人いて、高校・中学、小学生と行事もたくさんあり、当時は五つほど毎年役員もしがなく引き受けてたりしていた時期だった

 クラブの支援員となった私へのルールは、休むなら週に一回、土曜は避けてね。行事がある日は休まない‼️いうものだった😭
 三人の子供たちが部活に少年団に試合にと多忙真っ只中の中、私は我慢を強いられるのだった

 そして、なぜか私が休むと必ず、私からすると、たいした用事ではなくても学校総会の混雑した体育館の席に😂、土曜に行われていた長男の高校運動会の一番楽しみにしている真っ最中の応援団の種目でムービーを構えていたところに電話が鳴って、なんのために総会に出てるのか?なんのためにムービー充電してきたのか、わからないことがイジメに感じるほど発生したのだった😂

 きっとあの時の彼女には他人軸は、無くて目の前の自分の問題だけで地球が回っていたのだと思ったけど私も私でまるで
ヒトラーからの電話のように何があっても彼女の電話に出る私がそこにいた💦

 だって大事件だろうって思うから

 休みを入れて、その理由も知ってる上で電話してくるってことは、とんでもない非常事態だろ!って思ったから

 また、夜ごはんを作りかけていたら電話がなることもあって、電話の先では、取り乱した彼女がいた

 仕事上のことで保護者との会話の中に聞いてなかったと私のミスも勿論あったが、園長にこんなことを言われたと泣いてる彼女のときなど、聞いてあげるだけの私に元気になっていく彼女だった💦

 何か私と母との関係にもとても似ていて私のことお母さんだと思ってる?なんて思ったこともあった💦

 彼女が9歳年上だったけど💦

 何から何まで彼女とは合わなくて、B型の本を買って読んで爆笑しながら納得することだった💦

 赤い車に🚗乗っている方とは男女関係なく、私とは、共感できるところがなくて、ご縁も薄れていく宿命のような私の人生だ

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