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俳句鑑賞 ひらくヨムヨム008
産土の老ゆ縄跳の叩くたび
作者:世良日守 あしらの俳句甲子園2025 1回戦大将戦より
故郷の両親や親しい人々が年老いて、慣れ親しんだ街並みが古びていくのではなく、産土そのものが老いるという。「故郷」と「産土」の違いを考えさせられる句である。縄跳の縄が叩くのはあくまで地面なのだ。
「た」の音を重ねた「叩くたび」であるから、切迫感は計り知れない。自らの老いだけでなく、産土の老いと向き合うべき時がきてしまったというのか。人であろうと物であろうと土地であろうと、何かが老いることに理由などなく、自然なことのはずだが、掲句では老いることに対して明確な原因を与えてしまった。これは重大事だ。人はどうしようもなく悲しいことに原因があれば、憤り、嘆くことができるのだから。言い換えれば、作者は憤り、嘆くために原因を作り出してしまったのである。
では産土が老いるとはどういうことなのか。産業が衰退し、切り崩された山が残ることか。過疎化して空き家が増えることか。公害で土や水が汚染されることか。地価が下がることか。この国の高度経済成長期、生活が豊かになり、子供の数も増え続けていた頃はもっと多くの縄が地を叩いていた。しかし当時の人たちにとって、故郷を離れている間に祖父母や両親が老いることはあっても、産土が老いることはおそらくなかった。国家の繁栄は地方のエントロピーの増大などないのだと錯覚させてくれた。
もう一つ謎がある。産土を叩く縄跳の縄は誰のものかということだ。故郷の町や村で子供の数が減って活気を失い、人のつながりが希薄になり、生産力も減退していく中で、かつての喧噪の中では気にならなかった音が聞こえてくる。静まりかえった場所では却って物音が響く。作者にとってそれが縄跳の音だった。果たしてその音は、作者自身が子ども時代に産土に叩きつけていた縄の音なのではないか。今も音が鳴りやまない。
作者の代表句と言って過言ではないと思う。