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父性の喪失 石原慎太郎という存在

石原慎太郎が亡くなった。華やかな経歴と強い発言で目立つ人だった。功績は多くあるのに、どうしても好きになれなかった。

もちろん直接お目にかかったことはない。いつもその言動をテレビや雑誌を通じて見聞きするばかりだった。最初にあれっと思ったのは、新大久保を東京のゲットーと呼んだと知った時だった。当時新宿7丁目に住んでおり、住宅街と繁華街の境目とも言えるその土地で割と充実した都会暮らしを満喫していた。新大久保は当時も多くの韓国好きを集めて雑多だけど楽しい街だった。確かに韓国の人やお店が多いが、飛行機に乗らずに異国に遊びに来たようで、新大久保駅に行くときはいつも旅行気分を味わえた。この街をそんな表現で表すなんて、とちょっと残念に思った。今までなんとも思っていなかった石原慎太郎像が、私の中でうっすら形になった瞬間だった。

都知事時代もさまざまなエピソードに事欠かない。ご逝去の後メディアで伝えられるディーゼル車の都内乗り入れ禁止を打ち出したり、東京マラソンを始めたり、当時は誰もが無理だろうと思っていたことを突破力や強いアピールで実現していった。スギ花粉を無くすとかカラス被害を少なくするなど、突飛なものもあった。スギ花粉の方はよくわからないが、上野公園の整備には目を見張った。カラス捕獲用の檻があちこちに設置され、ブルーテントが立ち並びさながらホームレス横丁のようだった博物館前の緑地が見違えるほど綺麗になり 美術館や博物館から芸大へと続く魅力的な散歩道になった。

一方 国粋主義的な主張も多く簡単には意見に賛同できない場面もあった。そしていつも女性蔑視・男尊女卑な態度が垣間見えた。極め付けはもちろん「厚化粧のババア」発言だが、本人はそれを取り消したり謝ったりすることはなかった。

東日本大震災で福島の原発が被災しこれ以上被害が広がらないよう高い放射能を発している原発の火災を止めるため、東京消防庁から精鋭を派遣する際の涙の訓示は心を打たれた。当時の政府はオロオロするばかりでメンツを保つのが精一杯、何かを決断したり実行したりという力のない頼りないものだった。石原慎太郎はそんな状態が許せなかったのだと思う。地方自治体の長としてできうる限りのことをするつもりで消防隊派遣の意志を固めたのだろう。しかし彼の命令は消防隊員に苛酷な状況、もしかしたら死んでしまうかもしれない状況を強いるものだった。涙ながらにお願いし、任務を終えた隊員たちに心からお礼を言っているその姿も皆の前に晒した。

訃報を聞いた後、石原慎太郎のことを考えている自分に驚いている。確かに嫌いだったはずなのに、思い出すのは立派だったことや困難を強く突破していったことばかりで、嫌なことより多かった。そして、明日から石原慎太郎のいない世界を生きていくのだと思うと、少し心もとなく戸惑っているとも感じている。何かあっても、もう癇にさわるような物言いで独自の目線からものを言う人がいなくなったんだなと、寂しくも思う。

石原慎太郎はうざい父親のような、巨大な壁だったのかもしれない。大いに物をいい大胆に動いたけれど、それはどれも私腹肥やすためではなかった。その清潔感に今は親しみを感じる。その場の雰囲気や我が身のことだけ考えて生きている「おんなこども」に世の中のあれこれやものの本質を伝えようとしていたのかもしれない。伝えようとしたことが真実だったのか本質だったのかわからないが、彼なりの方法で「そうじゃないよ、こういう世界があるよ」と言いたかったのかもしれない、時として顰蹙を買うような言い回しをしながら。うざい父親で巨大な壁は そのうざさと巨大さで中にいるものたちを守ろうとしていたのかもしれない。

高いところにに立った者しかそこから見える全体の様子や遠くに見える物を伝えることはできない。私が見たことのない景色をきっと彼は見ていて、見えていない人たちに何かを伝えようとしていたのだろう。

どうしても好きになれなかった石原慎太郎が亡くなってから、こんなにその人のことを考えて喪失感に動揺している自分に驚いている。心からご冥福をお祈りいたします。







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