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J. マーク・トンプソン「アブストラクトを定義する」全訳

以下は J. Mark Thompson "Defining the Abstract" (2000) の全訳です。以前私の記事「アブストラクトゲームはなぜそう呼ばれているのか」で紹介したように、これはゲームの世界におけるアブストラクト/アブストラクト・ストラテジーという用語の理解と普及に少なからぬ影響を持ったと考えられる文章であり、この分野に興味をもつ人々に今日なお参照され続けているものです。

上記の私の記事では、おそらくボードゲームをめぐる状況の変化のために、現代ではゲームにおける「アブストラクト」がかなり混乱を招く言葉になってしまった経緯について考察しています。しかしながら2000年の当時に「アブストラクト」を定義し、その特質や魅力について明確な言葉で表現したことは、人々の間に「アブストラクトゲーム」というジャンル意識を高め、この種のゲームを発展させることに大きく貢献したのではないかと思われます。

そうした歴史的意義をおいても、文化史におけるゲームの位置づけや、ゲームのクォリティを見極めるための4つの要素など、ゲームにたいして何らかの興味を持つ現代の読者にとって極めて示唆に富む内容になっています。特に後者の部分は、これからゲームを作ろうという人のための良い指標になるのではないでしょうか。

”Defining the Abstract"は、当初ウェブ雑誌 "The Games Journal" 上で発表され、原文は現在もそちらで読むことができます。2015年にはCameron Browneの編集雑誌 "Game & Puzzle Design" vol.1 no.1に再録されており、その際本文を分ける章題と出典が追加されていたため、これも翻訳に加えました。また巻末に当時をめぐる状況を振り返る内容の "Appendix A: Historical Context" が付け加えられており、こちらも翻訳して収録させていただいています。翻訳・掲載を快諾してくださった著者のJ. Mark Thompson氏、The Games JournalのGreg Aleknevicus氏、 Game & Puzzle DesignのCameron Browne氏に感謝いたします。

なお訳注の代わりとして、固有名詞や一部のゲーム用語にはWikipediaへのリンク(可能な場合は日本語版)を付け、Wikipediaにはないゲームに関してはBoardGameGeekのページへのリンクを付けています。

はじめに

人間にとって、ゲームの発明ほど独創的なものはない。

ライプニッツパスカル宛ての手紙より)

ゲームは、人工的なものの中でもユニークなカテゴリに属している。文学作品と同じように、ゲームにある内在的な論理は、人間が何を理解でき、何をすることができるか、そしてどのようなことから知的な喜びを得ることができるか、といったことに関わる人間性に深く根差している。叙事詩がそうであるように、多くのゲームは非常に古く、多数の精神を通じていまある完成度に達し、それによって文化の精神を表現している。しかしながらゲームは、楽曲がそうであるように、物理的な実現から離れた抽象的な次元に存在している。優れたゲームは純粋数学の定理と同じように深淵でありうるが、他方で人類学と同じように人間らしいものでもある。我々が行うことの中で、ものを考えることほど人間らしいことはないし、純粋に楽しみのためにする思考ほど人間らしい思考はない。

ゲームを分類するには様々な方法がある。例えば陸上競技をふくむ屋外のゲームがあり、これはこれで価値のあるものだが、私がこれらについてここで言うべきことはなにもない。ルーレットや蛇と梯子のような、運の要素が決定的であるようなゲームもある。これらのゲームは、それが複雑ならもっぱら子供に適しており、単純ならばギャンブラーに適している。例えばルーレットは、あまりにシンプルなのでお金が絡まないと面白くない。他方で「蛇と梯子」は複雑すぎて、たとえギャンブラーであっても大人の興味を引かず、それはあたかも非常に煩雑化したコイントスのように感じられるだろう。それでも、ゲームとは何でありどのように遊ぶものであるのかを子供に示すことには意義がある。そこには従わなければならないルールがあり、勝者と敗者がいる。もし負けたとしてもあまり問題ではない、なぜなら次の機会には勝つことができるだろうから。実際のところ、強い偶然の要素は子供向けのゲームにとって望ましいものである。なぜなら、そうでなければ子供は年長者に勝つことができないし、そうすると文明化した人間が誰でも感じるような、ゲームの持っている魅惑を学びとることができないからだ。

もっとも、それが常に決定的な要因になるのでない限りは、偶然の要素はゲームを真剣かつ知的な興味の対象から除外するものではない。バッグギャモンはその好例で、上手なプレイヤー同士のゲームはダイスの目の良しあしで決まるかもしれないが、上手なプレイヤーはほとんど常に下手なプレイヤーを打ち負かす。同じことはパチーシにも言えるし、最高レベルの思考を必要とするブリッジやポーカーのような多くのカードゲームにも言える。

多くのボードゲームはテーマに沿って作られている。例えば近年の優れたゲームであるカタンの開拓者たちは、無人島への移住と開発というテーマを持っている。他にも巧拙はそれぞれあるが、株式市場や殺人事件、ゲティスバーグの戦いシェイクスピアの劇といったさまざまなテーマを持つゲームが考案されている。多くの商業的な出版社は、消費者の気を引くための人気のあるテーマに頼った、独創性も面白みもないゲームを出している。子供向けの場合はここでも話が別である、というのも、子供にとって新鮮であるためには独創的である必要はないからだ。しかし大人向けのゲームについて言えば、テーマが優れたゲームのプレイ体験を高めることはあっても、優れたゲームがそれ自身の価値をテーマから与えられることは決してない。

アブストラクト・ストラテジーゲーム

私がもっとも興味を惹かれるのはアブストラクト・ストラテジーゲーム(abstract strategy games) だ。この「アブストラクト」という言葉がなぜ使われるかというと、これらのゲームには通常、テーマがないか、あるいはこれらのゲームのプレイ体験においてはテーマが重要でないからである。したがってアブストラクトゲームはもっとも純粋なゲームであると言える。例えばチェスだが、これはしばしば中世の軍隊どうしの戦争をテーマにしていると言われるものの、明らかにアブストラクト・ストラテジーゲームである。駒の名称をのぞけば、ゲーム自体に戦争を想起させるものはなく、むしろ幾何学的なパターンを想起させる。

アブストラクト・ストラテジーゲームはさらに偶然の要素を最小化する。このようなゲームの定義には完全情報が不可欠である。つまり各プレイヤーには、自分の行動を決定する際、ボード上の位置情報が完全に与えられていなければならない(ここで「位置」というのは、チェスにおいてプレイヤーがキャスリングできるかといった、物理的に感知できない情報も含んでいる)。あるいは同じことだが、プレイヤーにはボード上の最初の状態と、それ以降の変化のすべての情報が与えられなければならない。完全情報ゲームにはチェスやバックギャモンが含まれ、ストラテゴクリークシュピール、最近のステルスチェスのようなものは含まれない。またダイスやカード、アトランダムに引くドミノといったメカニズムによって導入される運の要素があってはならない。したがってバックギャモンはアブストラクト・ストラテジーゲームではない。またプレイヤーは交互に行動しなければならない(ロボラリーのように同時に行動するのではなく)。プレイヤーが2人よりも多くなると、早期のアドバンテージを得るための一時的な同盟がどのようなプレイヤーも打ち負かし、戦略が政治に負けてしまう。このため通常は2人のゲームである。

通常言われていることとは逆に、アブストラクト・ストラテジーゲームにも運の要素は存在する。例えばプレイヤーがよく考えずに打った手がたまたま最善手で、それ以外の手を打っていたら負けていたことが後から分かる、というような場合だ。しかしこうしたこととは関係なく、アブストラクト・ストラテジーゲームをプレイするということは論理的な思考の実践なのである。このようなゲームはパズルと密接な関係にある。こうしたゲームにおいては、あらゆる盤面が「最善手はなにか」をプレイヤーに問いかけるパズルなのであり、それは理論上はロジックだけで解くことができるのだ。したがって優れたアブストラクトゲームは、プレイヤーがたがいにそのようなパズルを投げかけあう、潜在的に興味深いロジック・パズルの仲間だと考えることができる。良いプレイヤーとは、相手にもっとも難しいパズルを投げかけることができる人のことである。

デザインクオリティ

したがって優れたアブストラクトゲームのデザインとは、その可能な盤面の状態に無尽蔵の興味深いパズルが発見できるようなものでなければならない。同時に重要なのが、このようなパズルが発見可能であり、ある程度まではプレイヤーによって解けるものでなくてはならないということだ。他の惑星に住む人類学者がわれわれ人類の思考について知りたければ、アブストラクト・ストラテジーゲームを研究してみるのがよいだろう。

ここで私は、ゲームが永続的な価値を持つために必要な4つの性質「深さ」「明快さ」「ドラマ」「決定性」について考えてみたいと思う。

1.深さ

「深さ」 (depth)  とは、人が多くの異なるレベルのノウハウに基づいてプレイできるということを意味している。 最終局面になるまでは、ほとんどの盤面で最善手を見つけるパズルは完全には解かれるべきではない。深さを持つゲームでは、プレイヤーはほとんどの状況で、なにが最善手であるかを決定するためのうまい判断を下すことができるのでなくてはならない。そのようなゲームでは、プレイヤーは長い期間にわたって自分のプレイを向上させる方法を学び続けることができるので、ゲームの面白さが持続的なものになる。ゲームの競技人口が十分であれば、ゲームの結果を記録し、どの程度の「レベル」分けができるかを調べることよって、そのゲームの深さを実際に測ることができる。クラス1のプレイヤー群はいつもクラス2のプレイヤー群に負け、彼らはいつもクラス3に負け…というふうにクラスnまで続けると、nの値がそのゲームの深さになるというわけだ。囲碁は世界の古典ゲームのなかで最も深いゲームだと言われているが、現代のいくつかのゲーム(スター [1]やポリ-Y [1] のような)は、いまだ十分な数の競技者がいないため、深さを測定して比較することができないでいる。

2.明快さ

しかし深さに加えて、優れたゲームには明快さ (clarity) が必要である。明快さとは、普通の人間がそのために全生涯をささげなくとも、与えられた状況において何が最善手であるかの判断が可能であるということを意味する。例えば、プレイヤーが次の一手で即座に勝てるようなときには、その一手を見つけ出すことは普通はさほど難しくはない。チェスプロブレムでは勝利の手を見つけるのが難しいようなものが考案されているが、これは通常、プレイヤーの直感に反するような盤面を見出だすことによって行われているのである。明快さを欠いたゲームでは、プレイヤーは直観を働かせることが単純にできない。たとえゲームの中盤であっても、プレイヤーをよりよい盤面に導くような経験則が存在しているべきなのだ。

ロバート・アボットはチェスヴァリアントウルティマ [2] の作者だが、ゲームが不透明 (opaque) だと感じてこの自分の発明から興味を失ってしまった。ウルティマには多くの擁護者がいるが、新しくかつ独創的なゲームを考案しようとする者なら、誰しも明快さが重要な問題だと気づくことだろう。新たに発明されたゲームにおける難しさは、それがどうしようもなく不透明なだけなのか、それとも十分な経験を積めばその戦略上のルールが明らかになり始めるのかが、にわかには判別しがたいというところにある。

3.ドラマ

優れたゲームにはまたドラマが必要である。これは言い換えれば、プレイヤーが不利な状況から挽回して勝つことが可能であるべきだということである。勝利は一度きりの決定打で達成されるべきではなく、長期的な作戦行動を通して緊張が持続しなければいけない。さもないと、序盤の不利がゲームの残りの部分をつまらなくしてしまう。失敗したプレイヤーは、解こうとしていたパズルに正解がなく、考えても無駄であることを正しく察知する。ゲームにドラマがあるかどうかは、強いプレイヤーと弱いプレイヤーを対戦させ、強いプレイヤーが有利になったあとでサイドを入れ替えてみることでおおまかに測ることができるかもしれない。ドラマのあるゲームであれば、強いプレイヤーはなお勝機を見出すことができるだろう。しかし「有利」を定義することの難しさが、ドラマを測ることを深さよりも難しくしている。

チェスはドラマティックなゲームだが、そのドラマはプレイヤーが熟達すればするほど微細なものになるようだ。優れたチェスプレイヤーたちがチェックメイトまでプレイを続けることは稀であり、彼らは勝つことができないと分かったとき、言い換えればゲームがドラマティックであることをやめたとき投了する。名人(マスター)であれば、代わりに相手の駒を獲ったり有利な位置を得ることなく自分の駒を失わなければならないことがわかると投了する。グランドマスターになると、ポーンをひとつ失っただけで投了することすらある。彼らにとってチェスのドラマは、位置の有利さのきわめて微妙な変化から成り立っているに違いない。

4.決定性

ドラマに加えて、ゲームには決定性 (decisiveness) も必要である。つまり最終的には、一方のプレイヤーが有利に立ち、他方がそこから挽回できないという状況が達成できなくてはならない。アバロンは、決定性がないことで批判を受けているゲームである。このゲームでは、どうやら不利になったプレイヤーが取ることのできる戦略(自分の駒を固めて防御に専念する)によって、より強いプレイヤーが勝つことができなくなるようだ。このようなゲームでは、強いほうのプレイヤーは解法のないパズル(どうやってこの有利を勝利まで推し進めればよいのか?)に直面することになる。

新スタートレックのエピソード「ピーク・パフォーマンス」では、ストラテジーマと呼ばれるゲームの名人である異星人が、アンドロイドのデータをこのゲームで打ち負かす。しかし再戦時には、データはもっとも有望な攻撃すらも拒否するかたくなな防御策を講じ、この名人を勝てない怒りによる投了に追い込む。哀れな異星人、データは彼を打ち負かすにとどまらず、彼が打ち込んでいたゲームが決定性を欠いており、従って無益であることをも示したのである。

エドワード・デ・ボノのL-ゲーム [3] は非決定的であり、両プレイヤーが完璧なプレイをするとゲームが永久に続いてしまう。デ・ボノはこの特徴を歓迎して自分の解説の中でも言及しているのだが、変わった人もいるものである。

チェスでさえ、最高レベルのゲームでは引き分けになりがちである。世界選手権では、数十回ゲームが行われてその多くが引き分けに終わる。世界選手権で50のゲームをプレイして、もし3勝2敗45引き分けの成績でチャンピオンになったりしたらどんなに不満が残るか想像してみてほしい。もう10試合したら相手の方が勝っていたかもしれないと思わずにはいられないだろう。

結び

このように4つの性質を挙げたのは、「深さ」に対する「明快さ」、「ドラマ」に対する「決定性」というふうに、2組のペアの間に緊張関係があるように思われるからである。例えば、もしゲームのなかで常に最善手を決定することができるようなアルゴリズムが存在する場合、ゲームは完全に明快になるが、逆に一切の深さは失われてしまう。同じことは、先手か後手のどちらかが必ず勝利できるようなアルゴリズム、つまり「必勝法」がある場合にも言える。そのようなゲーム(ブリッジイット [4] やニム [5] など)は、解かれた=解決した (solved) ゲームである。同様に、劣勢にある者にあまりに多くの挽回の機会があると、ドラマは達成できても決定性は失われるし、その反対に有利を得たプレイヤーがあまりにたやすく勝利できてしまうとゲームからドラマが失われてしまう。これらのバランスが完璧に取れているゲームは稀であり、このことはそのようなゲームをプレイするのと同じくらい、それを考えることを興味深いものにしている。

チェスや囲碁の本格的なプレイヤーは、通信で初めて対局する相手でさえ、その打ち筋だけで相手の性格がわかると報告することがしばしばある。人間精神は、ゲームの手を表す代数的な表記法の中に感知される。アブストラクトゲームという、この特殊な表現媒体は、人文科学の中でも名誉ある位置を占めるべきものである。

参照

[1] Browne, C., Connection Games: Variations on a Theme, Natick, AK Peters, 2005.
[2] Abbott, R., Abbott’s New Card Games, London, Frederick Muller, 1965.
[3] de Bono, E., The 5-Day Course in Thinking, London, Penguin, 1967.
[4] Gardner, M., ‘Bridg-it and other games’, New Mathematical Diversions, Washington, Mathematical Association of America, 1995, pp. 210–218.
[5] Berlekamp, E. R., Conway, J. H. and Guy, R. K., Winning Ways for Your Mathematical Plays, London, Academic Press, 1982.

付録:この文書の歴史的文脈

上記の文章は1999年、高校で数学を教えるよりもストレスの少ない生計の立て方を模索しはじめたころに書かれた。私は自分の持っているさまざまな世に知られていないゲームのコレクションについて、メインページにインデクスをつけた一連のウェブページ(現在では「ブログ」と呼ばれているもの)で書くことに決めたのだが、そこでゲームに対する私の関心と一般的な考えを説明する導入的な文章を書くべきだと感じたのだ。私はそれをタイプし、直し、また直し、自分の言いたいことにこだわって、ようやくその成果をアップロードした。当時はまだインターネットが小さく、ゲームを趣味とする者が同じ趣味をもつ人たちに興味を持ってもらうためには特別な権威は必要ないことが分かった。私はまもなく、読者から丁寧な反応のメールを受け取るようになった。

そのような反応のなかに、碩学なチェスの著述家でGAMES magazineの前編集者であった故バート・ホックバーグ氏からのものがあった。彼はまだタイトルのなかったこの記事を、自分が主宰しているオンラインの定期刊行物The Games Journalに掲載したいと申し出てくれたので、私はさらに記事を発展させてブラッシュアップすることに決め、深さ/明快さ、ドラマ/決定性のセクションを追加した。2000年7月、私は自分の小さな記事が、バートのオンラインマガジン上でより目立つ新しい歩みをはじめたことを誇らしく眺めた。

記事はアブストラクト・ストラテジーゲームという用語の一般的な説明をしているため、バートはこれに「アブストラクトを定義する」というタイトルをつけた。私はこの用語を、10年ないし15年前に読んだレクリエーション数学の本で見て覚えたのだと思う。よく誤解されるが、私がこの用語を発明したわけではない。私は新語を作りあげるつもりはなく、ゲームプレイ・コミュニティの間ですでに存在していた言葉を解説しようとしたにすぎない。ところが私の文章はこの用語の普及を加速させ、当のコミュニティの隅々まで浸透させることになったようだ。「アブストラクト」という語は、これらのゲームにおけるテーマの欠如を強調しすぎており、私はたしかにこれらのゲームが通常はテーマを欠いていると述べたが、多くの人が認めるようにこの特徴は本質的ではなく、ただプレゼンテーションにのみ関わるものである。

記事のタイトルやアブストラクト・ストラテジーゲームという用語の新規性のために、読者のなかには私が自分をこのカテゴリの権威に仕立て上げようとしているとか、アブストラクトゲームは他の種類のゲームより優れていると主張したいのだろうと思った人もいた。どちらも私の意図ではないし、アブストラクトではないゲームのなかでもバックギャモンやポーカーなどは、三目並べや、ミゼール・ヘックス(勝利条件を逆転させたヘックス)のような思考実験ゲームなどの些細なアブストラクトゲームよりも明白に優れている。

偶然の要素や隠蔽情報をともなうゲームは、アブストラクトゲームとはまた異なった重要な方法で知性を行使させる。バックギャモンでは、プレイヤーは次に何が起こるかを知らないままで決断を迫られるし、ポーカーでは他のプレイヤーが知っていることを知らされないままで決断を下さなくてはならない。しかし優れたアブストラクトゲームには、なにも隠さないという独自の美しさがある。すべての情報が手に入るが、それが多すぎるためにプレイヤーはその意味を理解するための理路を見出さなくてはならない。私が書きたかったのはこういったゲームについてだったのだ。

「アブストラクトを定義する」は私の最初のオンライン上の出版だったので、それが何年にもわたって注目を集めていることには(たとえ悪名であっても)感動し驚いている。この記事は私に新たな出会いをもたらし、その結果としてさまざまな議論やプロジェクトに加わることができたのを嬉しく思う。

ーJ. マーク・トンプソン


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