「子どもの夢を後押ししたい」とnoteに書いたが、自分が子どもの夢を叩いている側だったことに気がついた話
昨日のnoteで西野さんの言葉に共感して「子どもが夢を語った時、みんなが共感してくれる世界の方がずっとずっと優しい」と書いた。
「子どもの夢を後押ししたい」とも。
でも、今日、わたし自身が子どもの夢を叩いている側であることに気がついた。
それも、無意識、無自覚に。
これが一番悪いと思う。
「夢を叩こう」と思ってるわけではなかったから。
でも悪気なく子どものファンタジーを奪っちゃってた。
「悪気ない」のが一番よくない。
西野さんのアンチよりよっぽどタチが悪いかもしれない。
今日の昼間、雪が吹雪いていた。
子どもが雪が積もるのを楽しみにしていた。
でも、経験上、雪が積もることは滅多にないので、何気なく「積もらないかもね~」なんて言った。
もちろん悪気はない。
自分の考えを伝えたつもり。
でも、夫に「楽しみ奪ってるよね」と指摘されて気がついた。
ほんとだ!
起こるかもしれない未来を否定してしまってた!
誰かみたのかよっ!
誰も見てないだろっ!?
だったら、まだ分かんないじゃないかっ!
ルビッチの言う通りだ。
雪が積もるか積もらないかなんてまだ分かんないじゃないか!
子どものほんの些細な夢を叩いてたのはわたしだ!
ごめん!
ぜんぜん優しくなかった。
わたし自身の共感力を育まなければ。
2021年の課題だ。