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時間切れ!倫理 127 石田梅岩

江戸時代の民衆の思想

 今まで述べてきた学者たちは、伊藤仁斎だけが町人で残りは公家か武士でした。江戸時代は平和が続き、元禄時代くらいから識字率が非常に上がります。当時世界の中で、文字の読める人の割合が最も高い国のひとつだったと思われます。一般庶民でも黄表紙本という大衆向けの読み物を読んだり、かわら版を読んだりするようになります。
 また、もともと文化水準の高かった京都や、流通の中心となって商業の発達した大坂では町人文化が栄え、町人のなかからあらたな学問が生まれます。

石田梅岩
 石田梅岩(1685~1744)は、京都近郊の農村出身ですが、京都の商家に丁稚奉公に入り、働きながら学問を積み、四十歳を過ぎてから独自の学問を打ち立てて塾を開きました。誰でも自由にお聞きください。出入り自由です、と看板を掛けて、家に入ってきた人に講義をする。面白いと評判を呼んで、多くの人が詰めかけたという。聴講者には女性も多くいました。当時は、他人の男女が同じ部屋にいることは不謹慎とされていたので、部屋にすだれをかけて、女性の姿は見えないようにして講義をうけました。
 彼の作った学問を心学といいます。その中身は、儒教・仏教・道教・神道を融合したものです。
 そのポイントは商人の道徳を説いたことです。士農工商の世の中で武士たちは商人を卑しいものと考えていました。農工商で一番下におかれているのが商です(ただし実際には農工商には序列はないともいわれていますが)。商人は自分で汗を流して働かず、右の物を左に回して儲けている、それは卑しいことだと考えられていました。
 石田梅岩は、そんな考えに反対します。「商人の買利は士の俸禄に同じ」。商人が儲けるのは侍が殿様からサラリーをもらうのと何ら変わりはない、という。当時の商人蔑視の風潮に対して、商業行為を正当化した。
 石田梅岩は、商士農工は上下関係ではなく、分業なのだと考え、商売は卑しい仕事ではないと主張したのです。 ただし、正直(しょうちょく)、つまり公平な取引はしなければならないとし、また倹約を重視しました。
 一方で、「知足安分」と言いました。身分制度における自分の職分に満足して生きよ、という教えです。つまり、身分制度や封建制度に反対したわけではありませんでした。

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