宝塚歌劇 宙組 『NEVER SAY GOODBYE』再び
ブルーレイ買って繰り返し見ていて、気づいたことを書きます。
どうしても主演の違いについて考えてしまう。
花總まりは高貴なお方。いろいろな役を演じたが、マリー・アントワネットなどの王妃や王女が彼女ほど似合う人はいない。
求婚者の首を落とす『鳳凰伝』のトゥーランドットが、花總の最高の役だったと、私は思っている。
同じく、放浪の王子カラフも、孤高のイメージがあった和央ようかならではだ。花總トゥーランドットが、和央カラフに「答えよ」と告げる場面は、本当にドキドキした。宝塚歌劇という枠組みを飛び越えて迫ってくるものがあった。あの役が二人の個性にぴったりだったからだと思う。
だから、孤高のカメラマン、ジュルジュは和央ようかに、合っている。
しかし、花總まりが脚本家というのはどうか。
花總まりの働く姿は想像できない。
この一点において、キャサリンは潤花のほうが適役だと思った次第。
また、ブルーレイで見ていると、潤花は表情がころころとかわり、気持ちの動きがわかりやすい演技をしていて、見ていて興味深かった。
前にも書いたと思うが、潤花は高い声を作らず、自然な声で落ち着いて話すところも心地よい。
彼女なら脚本も書くだろうし、バツイチと言われれば、頑張ったけれども破綻したんだろうな、と思う。
花總まりは、脚本を書く姿が想像できないし、バツイチでも全然傷ついてはいないだろうなと、感じてしまう(あくまでも舞台上での話ですよ)。
なんてことを、思った。
ジョルジュが銀橋でエレン・パーカーを振る場面がある。
今回ブルーレイ見て気がついたのだが、真風ジョルジュは、ちょっとエレンに申し訳ないと思っているのである。「傷つけてごめんね、でもしかたないんだ、あきらめて」と。
これは、和央ジュルジュのときには、感じなかったことだ。というか、和王ジュルジュは、銀橋の場面でエレンに対して大層冷淡だなと、以前から感じていた自分に気がついた。
あの場面で、いつも「ジュルジュは冷たい」と思っていたのだった。ジュルジュにとって女優エレン・パーカーは、人に見せるための自分の装飾品に過ぎず、その人格に一欠片の愛ももっていなかったように思える。ひどい男である。そのひどい男がキャサリンを知ることで本当の愛を知ったということになるわけだ。
真風ジョルジュは、新しい彼女ができて、古い彼女を振るときは、こんなだろうなと思わせる「申し訳無さ」を漂わせている。
天界に近いところにいた和央ジョルジュ、花總キャサリンだったが、現在の真風・潤花コンビで、人間界に降りてきた感じである。
スペインまで来てひどい振られ方をする可愛そうなエレン・パーカーは、演出上、自己顕示欲が強く、気位の高い、どちらかといえば鬱陶しい女として描かれているが、それは自己肯定感が低いことの裏返しであり、じつは常に不安にかられており、ジュルジュにすがりつくことによって自分を支えていたのではないか。そんな気がしてきた。
そうおもうと、紫城るいの演技は、ちゃんとそこを狙っているようである。
この場面の銀橋上での天彩峰里の歌は絶品だが、紫城るいの危うさはない。可愛らしすぎるからかもしれない。
ラ・パッショナリアの留依蒔世は、劇場では舞台に飛び出してきて、ものすごいインパクトだったが、ブルーレイで見ると、そこがあまりわからない。やはり、舞台は生で見なければならないと再認識した。ブルーレイで見る10倍のインパクトがあったからね。あれ以来、スカステで留依蒔世がでると、異様に反応してしまう私になりました。
留依蒔世と若翔りつのデュエットも素晴らしい。
ヴィンセントが芹香斗亜の大人の雰囲気で別物になったことは、いうまでもない。芹香斗亜は、『プロミセス・プロミセス』で全く別のキャラクターを演じて成功させている。アドリブもおもしろい。真風涼帆との並びも抜群。宙組にかかせないスタートだと痛感している次第。