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月面ラジオ {65 : 冬のプラットフォーム }

あらすじ:月美は、木土往還宇宙船強奪事件に巻き込まれた。そして、犯人のユエが船内の空気を抜いたせいで、死にかけている。

{ 第1章, 前回: 第64章 }


どれくらい時間が経ったのだろう? 水面に落ちた羽虫のようになすすべなく宙を漂って、もうだいぶ時間が経った気がする。二、三時間はたっただろう。意識はうつろい、ぼんやりと覚醒しては、また朦朧としていくのくり返しだった。まだ死んではいない。これからどうなるのかはわからないけど。

悔しかった。この船が捨てられてしまうことが。あの彦丸が人生をかけてつくった船なのに。短い間でも、私だってこの船をつくるのに協力した。この船は、私と彦丸のたったひとつの共通点だった。だからユエの暴挙を止めようとしたのにこのざまだ。もうどうしようもない。

もう二度と彦丸と会えないのだろうか? そう思うと、式典でのことが悔やまれる。どうしてあのとき彦丸に声をかけなかったのだろう。もし過去に行けるなら、パーティーの隅っこにいる自分をひっぱたいて、さっさと彦丸のところへ行けと言うのに……

ちがうか。過去に戻ったのなら、そのまま彦丸のところに行って話しかければいいじゃないか。だめだな、私は。時間を巻き戻しても、無意識のうちに彦丸を避けていた。

それに、過去に戻れるのならもっと昔にしたい。私がまだ中学生だったころ、最後に彦丸を見た冬の日だ。朝一番の電車に乗って、彦丸は故郷を去った。私は反対側のプラットフォームにいて、声をかけられずに出発を見送った。

今なら、線路に飛び降りて、彼のもとへかけこむのに。そして、私も連れて行ってくれと頼むのだ。四十の私が、高校生の男の子にそんなことを言うのか? そう思うと、なんだかおかしくて笑ってしまう。バカなことだし、叶うことでもない。

「もういいや……どうだって……」

こうやってひとつずつ諦めながら私は生きていくんだ。諦める理由を探しながら生きていけばいい。ユエの言うとおりにしよう。今やっと実感できた。わたしはもう二度とあの人とは会えない。展望窓からは、宇宙だけが見えた。

さらに時間が経った。状況は何ひとつ変わっていなかった。それどころか、ふいに幻が見えた。いよいよダメかもしれないな、と月美は思った。

展望窓の端っこに宇宙飛行士が姿をあらわした。その宇宙飛行士は、とんでもない速さで宇宙を飛んでいた。まるで、駅を通過中の特急電車のようだった。かなり大きな窓なのに、宇宙飛行士は端から端まであっという間だった。ほんの数秒ほどのできごとだ。

いや、そうじゃない……月美は気づいた。幻なんかじゃない。あの人がこの船に戻ってきたのだ。

「行かないで!」
 月美は叫んだ。
「私はここにいる!」

体を雷が貫いたようだった。心臓が胸を叩いている。全身にはっきりと血が行き渡り、脳にも力が湧いてきた。まるでいま生まれたかのように。

なんとか足だけ動かせた。でも何も起こらない。初めてプールに入った三歳児のバタ足のほうがまだマシだと思えるくらい前にも横にも進まなかった。こんなことで動けるほど宇宙は甘くない。宇宙に来たときに教えてもらったことを思い出せ。両足の位置を揃え、プールの飛び込み台を蹴るつもりで同時に動かすんだ。そうすれば、靴底のマグネティック・ソールが、船に満ちている磁場の力で体を押し出してくれる。

震える足で宙を蹴り、窓へと泳いでいった。筋肉はまだ半分痙攣したような状態だったけど、それでも動く。体が窓にぶつかってしまったけど、跳ね返らなかったので、それでよかった。額をガラスに押しつけて外に目を凝らした。宇宙飛行士の姿はもう消えていた。

まだだ、まだ間に合う。やっと動けるようになったんだ。今から追いかければいい。もう後悔したくないんだ。

懸命にもがいて宙を蹴った。方向は定まらなかったけど、同じことを何度も繰り返せば、やがて目的地にたどり着ける。どんなに遠回りでも、月美は進んでいった。

十分以上経っただろうか。月美は大広間を横切り、出口のすぐそばまで来ていた。息は絶え絶えで、顔は汗だらけだった。体内にあるもの全てがひっくり返って、口から飛び出してしまいそうだ。でも、扉の向こうにあの人がいると思えば、どうということはない。私はこの時のために月に来たのだから。あとは扉をあければいい。それだけだ。なのに体は動かなかった。パワードスーツを着ているんだ、腕さえ上がればなんとかなる、と月美は朦朧としながら思った。

月美が手を伸ばそうとした時だった。扉が開いた。宇宙服を着た男が中に入ってきた。男は、あわててヘルメットを取った。

「月美!」

やっぱり彦丸だった。月美は力をふりしぼり、顔を上げた。そして、彦丸の肩に手を置いて言った。

「好きです。誰よりもあなたが好きです。他の誰かが、あなたを死ぬほど愛していたとしても、わたしの方が上です。だからお願いです。残りの人生を、わたしと一緒に歩いてください。」

返事を聞くことはできなかった。月美が意識を失ったからだ。

やがて目をさますと、口を何かが覆っているのに気がついた。顔のすぐ横に二の腕ほどの酸素ボンベが浮いていたので、呼吸用のマスクだとわかった。

意識ははっきりしていた。体のだるさもウソのように消えていた。となりには彦丸がいて、月美の顔をのぞきこんでいた。

「私はどれくらい寝ていた?」
 マスクを外しながら月美はたずねた。

「十七分ちょうどだ。」
 彦丸は答えた。

「は、測っているのか……相変わらずマメなんだな。」

「君は減圧症で、時間との勝負だったんだ。」
 彦丸は月美のマスクを戻しながら言った。
「急いで純酸素のボンベを取りにいったんだ。すぐに回復してよかったよ。気絶した人に言うことじゃないけど、症状は軽い。心配しないで。ただ、治療はちゃんと受けたほうがいい。これからポート・デッキを開放して、僕のプライベート船をそこにつける。それで月に帰ろう。」

「だめだ。」
 月美はまたマスクを外した。
「そんなヒマはない。ユエのやつが……」

「そっちはそっちでちゃんと手を打っている。」
 彦丸は月美を押し留めながら言った。
「まずは君の治療だ。マスクをつけてくれ。」

「いやだね。これからユエをひっぱたきに行くんだ。」

「かんべんしてくれ。ユエの場合、ただのケガでは済まない。」

「たとえだよ。」
 月美は言った。
「あいつを止めるってことさ。それまで、月に戻る気はない。」

「君が命を賭けてまで守るものじゃないはずだ。この船は……」

「この船が大切なのは、彦丸だけじゃない。私だって頑張ってきた。ここで働いて、はじめて自分を誇らしいと思えた。」

月美は体を起こした。無重力なので「体を起こす」と言うのも変な感じだけど、とにかく、月美は彦丸と正面で向き合った。

「それに、ユエはアルの姉さんだろ? 友だちの家族がこれから船と心中しようってんだ。止めないわけにはいかないよ。」

「まったく、最近はだれひとり僕の言うことを聞いてくれないよ。」
 彦丸は呆れていた。
「でも、おかしそうに笑ってもいた。わかったよ。ユエを止めるのを手伝ってくれ。」

「よしきた。」

不思議だった。だいぶ前に別れたというのに、昨日の続きのように彦丸と話ができている。月美はそれがうれしかった。


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