{ 27: 火葬(2) }
部屋にはだれもいなかった。あれだけ大声でわめいたにもかかわらず、春樹の脱出に誰ひとり気づいていない。「火葬屋」と呼ばれていた男は、ここからいなくなってしまったようだ。
やがて落ち着きを取り戻すと、春樹は立ち上がった。ここが学校の理科実験室のような部屋であることに気がついた。あるいは病院の手術室、あるいは死体安置所のように寒々しい部屋だった。かたい壁には、うすい緑色のペンキが塗ってある。床もうす緑のタイル張りだった。蛍光灯の真っ青な光がやけに強く、暗いところから這い出てきたせいもあって一層まぶしかった。大きな換気扇が、エンジンのように音を立てて回っていた。
部屋のすみに、台が置いてあった。人間ひとりを寝かせられるくらいの台で、その上に細長い木の箱が置いてあった。春樹が閉じ込められていたのと同じ箱のようだ。安っぽく、粗末な棺桶だった。
「まだ、他に燃やすモノがあと二体ほどありまして……」
火葬屋と呼ばれた男がそう言っていたことを春樹は思い出した。考えたくもないけれど、中に入っているのは他人の死体ということか。
ふり返ると、石造りの炉が三つ並んでいた。火葬炉というやつなのだろう。春樹の出てきた真ん中の炉だけフタが開いていた。あいも変わらずブォォンという音が鳴っていて、見つめているうちに、コウモリや虫の大群が中から飛び出てくるような気がしてきた。
春樹は火葬炉のフタを閉めた。そうすることに意味があるのか考えもせずに……開ける時はあれだけ苦労したというのに、閉めるときは憎たらしいほどあっさりフタが閉じた。脱出したときの大量の汗で足元が濡れていた。春樹は我に返って、この部屋に唯一あった扉へ目をやった。
「ここから出なくちゃ……」
◇
扉をあけると、長い廊下が続いていた。
廊下は暗く、天井は高かった。春樹は、自分がやけに大きな施設の中にいることに気がついた。
「ここはいったいどこなんだ……?」
廊下も人影はなかった。脱出するにあたり、身を隠しながら慎重に行ったほうがいいと思っていたけれど、一本道の廊下が続いているとわかれば、慎重もへったくれもなかった。「火葬屋」と呼ばれていた男が、いつ戻ってきてもおかしくない。春樹は駆け出した。
間もなくして、「ここはいったいどこなんだ」という疑問が、破裂しそうなほど膨らんできた。本当に、ここはいったいどこなんだ?
廊下が途切れると、細長い広間に出た。広間には、檻が並んでいた。人を閉じ込めるためのあの檻だ。そこは二階、あるいは三階の吹き抜けになっていて、上層の回廊にも檻がズラリと並んでいた。天井には電灯がぶら下がっていて、ほとんどの電球はすでに破れていたけれど、生き残っていた幾つかが、青白い光で広間を照らしていた。
広間を抜けると、今度はせまい廊下が続いた。タチの悪い迷路のように入り組んでいる廊下だった。そこいもひしめき合うように檻が設置されているものだから、通路を右に曲がり、左に曲がり、あるいは小さな階段を上り下りしていくうちに、春樹は自分が檻の外にいるのか、その中を走っているのか、よくわからなくなった。
あっちを見ても、こっちを見ても、檻しかない。いま必死に走っているこの空間は、さながら牢獄の森といった具合で、木の代わりに鉄格子が生えていた。たまに天井を見れば、鳥籠のような一人用の檻が、樹上の果実よろしくぶら下がっている。でも肝心要の森の住人……本来、牢獄にいて然るべき囚人は、どこを見渡してもいなかった。
「ここは……監獄なのか? 誰もいないぞ? それにしたって……」
無事に脱出さえできれば、ここがどこだろうと正直どうだってよいのだけど、こうも入り組んでいるとなると話はべつだ。
「広すぎる……どっちに行けばいいんだ?」
完全に道に迷ってしまった。自分がどこにいるのか全くわからない。さきほどの部屋に戻ることすら、すでに難しかった。無論、あそこに戻る気なんて全くないのだけど。
春樹は途方にくれた。けれど、だだっ広いぶん自分が見つかる可能性も低くなるので、それだけはありがたかった。いざとなれば、ゴミ溜まりや牢獄の中に飛び込んで身を隠すことだってできる。何しろこの施設はどこに行ってもゴミと廃材だらけで、肝心要の牢獄ですら半分以上が壊れていて、鉄格子のすきまから出入りできるほどだった。ここは、とうの昔に廃墟となった牢獄なのだろうか? あたりは、カビくさいのか、小便くさいのか、ホコリくさいのか……あるいはそれらすべてをひっくるめたようなにおいだった。壁、床、天井、どこを見渡してもシミとゴミと小虫の死体だらけで、ネズミの巣にでも放り込まれた気分だ。
冷静になり考える余裕が出てくると、その分、余計なことも頭をよぎった。じつは、部屋を出た時から気になっていることがあった。気になっているというのは、つまりこういうことだ。
先ほどの棺桶に入っていたのは、本当に死体だったのか? もしかして、中の人が生きている可能性もあるのでは?
「バカなことを考えるな」
春樹は自分に言い聞かせた。棺桶であるからには、中に入っているのは死体だ。確かに春樹は生きたまま棺桶に入れられていたわけだけど、それは例外だ。春樹を苦しめるためそうする必要があったのだ。あの火葬屋だって、普段は薬で処刑した後に火葬すると言っていたじゃないか。だからあれは死体で、もう助けようがないんだ。
「本当にそうか?」
あいつらは「薬で楽にする」と言っただけで、「殺す」と明言したわけではない。薬でぐっすり眠らせて、そのスキに火葬してしまうのが、あいつの言う「情け」なのかもしれない。だとしたら、棺桶にいる人はまだ生きている?
「イヤだ、あそこには戻らないぞ……」
僕はただの高校生なんだぞ? 戻って何ができる? ここから逃げるだけで精一杯だ。なによりも、あの赤い目の連中が戻ってきたら? スイレイと……もうひとり、名前もわからない男がいた。たしかにスイレイは家族の仇だけど、でもあのバケモノに立ち向う勇気なんてもう春樹にはない。
吐き気がしてきた。大声を出して、泣きたかった。事実、目から涙があふれ、泣きそうになった。それでも、春樹は戻らざるを得なかった。火葬炉のあったあの部屋に……どうしてそんなことをするのか自分でもわからなかった。
◇
火葬炉のある部屋は、無人のままだった。廊下よりも確実に暑く、煤けた匂いのするこの場所に戻ってきたことを激しく後悔しながらも、春樹は寝台の上に置いてあるその箱に近づいた。
いざ、棺桶を眼の前にすると、固まってしまった。フタが釘で閉じてあるせいで、すぐに開けられそうにないのだ。叩けばかんたんに壊せそうな薄っぺらのフタだけど、いまは大きな音を立てられない。
どこかに釘抜きはないだろうか? 釘を打つからには、その手の道具だってあるはずだ。でもそんなモノを探しているヒマはあるだろうか? ベニヤ板くらいのこのフタなら、手で引っぺがした方が早いのでは? どうしよう? はやく何とかしないと、ヤツらが戻ってくるぞ!
そのとき、ふとあるものが目に入った。棺桶の影にその道具は置いてあった。まさか、と思って春樹は手をのばした。金槌だ……しかも、釘抜き付きの金槌ときた。
「やったぞ!」と声を上げそうになったその瞬間、最悪なことが起きた。春樹の背後で、部屋の扉がギィィときしみながら開いたのだ。春樹は、あわてて台の下に潜りこんだ。
こんなところに隠れたって、すぐに見つかるだろう……もう終わりだ、と春樹は思った。燃えたぎる炉の中に放り込まれ、今度こそ骨になるまで焼かれてしまう。その拷問は、春樹が死ぬまで何時間だって続くだろう。夢の中の少年がそうであるように、はやく死にたいと叫びながら、熱湯のような火が肺の中で満たされていく様を味わうハメになるのだ。鼓動が激しく胸を打つ一方で、頭から血の気がひっこみ、何も考えられなくなった。春樹は、ガタガタと震える体を抱えながら、台の下から周囲を伺い見るしかなかった。
部屋に入ってきたのは、小男ひとりだった。その男は、春樹に気づかないまま火葬炉へ歩いていった。水のたらふく入ったバケツを両手で吊るすように持っていた。
いったい何者だろうか? 背筋が丸まっているせいか、春樹よりもずっと小さな子どもに見える。その声は、「火葬屋」と呼ばれていた男のモノにちがいなかった。
「ふぅ、暑い、暑い。部屋を離れるなと戦士様はおっしゃいますが、こうも暑くちゃ水がないとやっていられませんよ。さて……このオンボロ火葬炉め……火力はいったいどんな具合か……な……」
部屋の真ん中まで来ると、男は立ち止まった。異変に気づいたみたいだ。ススで汚れた床を黙って見下ろしていた。それからバケツを両方とも落とし、火葬炉へ駆け寄った。
「ひ、ひ、火が……」
男は、フタを開けた。
「火が消えている! 故障してしまったのか? いや、そんなことよりも……そんなことよりも! あ、あの坊やがいない!」
すぐさま春樹の捜索が始まると思いきや、そうじゃなかった。男は、その場でうずくまって動けなくなってしまった。春樹に負けず劣らず、恐怖で震えあがっている。
「あぁなんてことだ! まさか逃げられるだなんて! どうしよう……ば、ば、バレたら殺されてしまうぞ……戦士様に……どうしよう!」
春樹は静かに立ち上がった。それから決して足音を立てず男の背後に忍び寄った。手には、先ほど手に入れた釘抜き付きの金槌があった。忍び足とは裏腹に、鼓動はバクバクと鳴っていた。
まさか、この場に僕よりも弱くて臆病な者がいるだなんて……その事実は、この絶望的な境遇において一筋の光明に思えた。こいつさえ片付ければ、当面の問題が解決するのでは、と。だって、少なくとも十二時間は、この男以外、部屋に入ってくる者はいないのだから……それだけあれば、棺桶の中を確かめることだってできるし、この施設から脱走する目処だってつくのでは?
春樹は男のうしろに立った。金槌を握る手がこわばり、あやうく落としそうになった。
ほんとうに殺すのか、この男を? 子どものようにメソメソと泣き、僕と同じくらい無力で哀れなこの男を? かまうものか……この男は、僕を焼き殺そうとしたんだぞ? 生き残るためにはやるしかないんだ。
春樹は金槌をふり上げた。腕の影が伸びて、男の足元にまでせまった。それに気づいたのか、唐突に男がふり返った。
そのままの姿勢で固まった。春樹も、火葬屋と呼ばれるその男も。
男は、自身の死が予想よりもずっと間近にあることに気づき、仰天した。目を見開き、春樹を見つめた。
あと一歩だけ踏みこんでから金槌をふり下ろせば、すべてが終わる……それは間違いないはずなのに、春樹は動けなかった。男の目が、赤かったからだ。傷と汗とススまみれの小さな顔に……人間とまったく同じ顔にあの赤い目があったのだ。
まるで春樹の足元だけで大地震が起きているかのようだった。春樹はその場で震えた。
「ひ、ひぃ!」
男も、春樹とおなじように体をこわばらせた。
「た、助けて……どうか命だけは……」
やれ! いますぐに! 心の中で何度もそう叫んだのに、体はまったく言うことを聞いてくれなかった。命がけのこの期に及んで、まだ赤いモノが怖くて震えるだなんて。
まもなくして、男が春樹の様子に気づいた。いっこうに襲ってこないどころか、床に金槌を落とした挙げ句、棺桶に手をついて今にも吐きだしそうな高校生なんて、まったく脅威でないと悟ったようだ。男は、叫び声をあげて春樹に襲いかかった。
春樹は、体当りしてきた男とともに後ろに倒れた。ガッシャンと、台座ごと棺桶までひっくり返った。頭をぶつけたのは本日二度目で、後頭部から全身にかけて電流のような痛みが走った。
もみ合いになった。男の力はたいしたことなかったが、満身創痍の春樹が返り討ちにできるほど弱いわけでもなかった。両者叫びながら相手を殴り、引っ掻き、噛みついた。その取っ組み合いがどれだけ続いたのかはわからないけど、体力の限界が先にやってきたのは春樹だった。気がつけば、男が馬乗りになっていて、しかも手には金槌が握ってあった。
「す、すまない……坊や……」
ゼェハァ、ゼェハァ、と息はあらく、全身汗まみれだった。口の端はヨダレで泡が吹いていた。男は、片方の手で春樹の体を抑えると、もう一方の手をふり上げた。
「や、やめて!」
春樹は、両手をかざしながら叫んだ。
赤い目が、しかと春樹を見すえた。男は、金槌をふりおろした。春樹は目をつむり、観念した。
体が軽くなった。それでも執拗に体をこわばらせ、春樹は金槌に備えた。男の悲鳴が聞こえた。目をあけてそちらを見ると、男が地面に転がり、のたうち回っていた。すぐそばに、知らない人が立っていた。