
{ 38: 魔窟の探索者(2) }
「どんな道にも、抜け道や裏道はあるってことさ」
ロウが続けた。
「大階段の他に道があるってことかい?」
春樹は思わず前のめりになった。
「非合法につくられた隠し階段がな」
ロウはうなずいた。
「ただし、その階段がどこにあるのかわからない。なにしろ隠されている上に非合法とくる……おっと俺に聞くなよ? 俺だって、詳しくは知らないんだ。そりゃ場所のウワサくらいなら聞いたことはあるが……とにかく、知らないことにしておいてくれ」
「どうして隠し階段なんてものがあるんだい?」
「さぁな。それをいつ、誰が、どうして作ったかなんて、誰にもわからない」
「そんなバカは話、あるもんか」
「バカだろうが、アホだろうが、あるんだから仕方がない。最初からあったというヤツもいれば、マフィアが密輸のために作ったというヤツもいる。要するに誰にも気づかれないうちにいつの間にか作られていたんだ。そしてその場所の秘密は守られる……だからこその隠し階段なんだ」
「でも、階段なんてごついモノ、赤点の答案用紙みたいに隠しておけるものなのか? すぐ見つかっちゃうと思うけど……」
「巧妙に隠されているのさ。見つけようとしたところで、そうそう見つけられない。春樹だって、これまで何度も言ってきただろう? 『この街は、まるで迷宮だ』って」
ロウが、春樹の声色をマネて続けた(腹の立つことに、かなり似ていた)。
「先週通ったはずの道がどうしても見つけられない! まっすぐ歩いていたのに、なぜか元の場所にもどってしまった! 目的地に向かって進むだけじゃ、絶対にたどりつかないよ! こんなところに道があっただなんて!」
言われてみれば、そのとおりだった。建てものだらけの二十二階は複雑怪奇だ。上にも下にもたくさんの道があり、ロウの案内がなければ迷子になってしまう。どこに何があるのか、いまだ把握しきれない。正規の道である「大階段」とやらでさえ、春樹は見かけたことがないくらいだ。大階段と呼ばれるからには、きっと見逃しようがないくらい大きなはずなのに……
「おまえが、方向オンチなわけじゃないさ」
ロウは言った。
「それに、二十二階だけがメチャクチャなわけでもない。この塔のすべてが、そうなのさ。塔を歩く者は、ことごとく道に迷う。さながらそれが運命であるかのように『ことごとく』だ」
ロウは続けた。
「ここにあるはずの道がなくなっている。先週まではなかったはずの道がいつの間にかできている。俺だってその手の体験は何度もしてきた。『塔が意思を持ち、我々を迷わせているかのようだ』って誰かが言っていたよ。『この塔は生きた魔窟だ』って感想もよく耳にするな。誰も知らない道や階段があったとしても、不思議じゃないだろ?」
「不思議じゃないかもしれないけど、それじゃ困るよ……」
春樹は言った。
「どこにあるかもわからない階段を、これから二十一個も見つけなくちゃならないってことだろ? その魔窟をさまよいながらさ……地上に降りるのに、ことごとく道に迷っていたら、いつまでも家に帰れない!」
「そうだな……」
ロウが、ここで一呼吸置いた。
「長くなったけど、ここからが本題だ。時間がないから手短に話すぞ。なにしろ、さっきからずっと仕事が止まっている」
工具を握ったまま手が宙ぶらりんになっていることには春樹も気づいていた。煤の跡が残った壁と、焼け焦げた配線をさっきから眺めているだけで、それがちょうど前衛的な絵画か何かに見えてきたところだった。
「正直なところ、あとで話せばよかったと後悔している。今日中に仕事を終わらせないと、このアパートの住民全員が俺の部屋まで怒鳴り込みにやってくるからな」
「仕事なら、僕が三人分働いてみせるよ。だから、いますぐ話してくれ。大切なことなんだ」
「隠し階段のことを知り尽くしている連中がいるんだ」
ロウは続けた。
「塔を脱出するには、そいつらに頼るしかないんじゃないかと、俺は考えている」
「いったい誰だ?」
「『探索者』と呼ばれている連中だ」
「タンサクシャだって? なんというか、その……」
春樹はここでグッと力をこめた。
「かっこいいね」
「かっこいいかどうかは知らんが、変わった連中だな」
ロウは言った。
「部外者がこの塔を登るのは命がけなんだ。それにもかかわらず、外の世界からやって来たそいつらは、塔の上まで行こうとする。ここで生まれた俺でさえ行けないような遥か上層にまで……黒い塔という魔窟を探索する者。だからこその探索者だ」
「ちょっとまってくれ、ロウ……」
春樹はあわてて言った。
「『外の世界からやってくる』だって? それって、まさか……探索者というのは……?」
「そのまさかだな」
ロウが、春樹の言葉を受け継いで言った。
「やつらは人間なのさ」
「に、人間だって?」
そうきいて、春樹は言葉が詰まりそうになった。
「ぼ……僕以外にも人間がいるのか? そ、その人たちは……」
「どうした、春樹? 何をそんなに驚いている?」
「いや、なんでもない……」
春樹は、ロウと話している最中なのに、あたりをキョロキョロと見渡した。
このあたりに僕以外の人間がいるかもしれないと思うと不思議な気分だった。
「その人たちは、どうして黒い塔にやってくるんだろう?」
「俺にはわからんな」
ロウは肩をすくめて答えた。
「連中の目的がなんであろうと、塔の外からやって来て、なおかつ脱出できるのは事実だ。まさしく春樹、おまえさんのやろうとしていることじゃないか。ただしヤツらは、身を隠しているのが普通だ。『魔窟の探索者』といえば聞こえはいいけど、俺たちからすれば侵入者だ。ケモノの戦士たちに見つかれば、捕まって、処刑されちまう。体を焼かれてな。だから誰にも気づかれない道を通って、上を目指しているはずなんだ」
「ロウ、待ってくれ……」
春樹は小声でつぶやくようにいったが、それに気づいた様子もなくロウは続けた。
「やつらの中には、堂々と俺たちの街を歩くヤツもいるぜ? それどころか、大階段の『検問破り』をやってのけるヤツもいる。そういのは決まって乱暴者で、俺たち住民に暴力をふるうことさえある。いちばん有名なのは、ベラミという探索者で、そいつは人間なのに戦士並の体格で……」
「まってくれ!」
春樹が大声ていったので、今度こそロウは止まった。それから春樹の顔を見て言った。
「なんだ?」
「会ったことがあるんだ、探索者に……」
春樹は言った。
「いや、会ったことがあるかもしれないんだ……その人は、僕といっしょに捕まって、火葬されそうになっていた。まちがいなく、人間だった。もしかしたら、探索者だったのかも……」
「ほんとうか? どうして今まで言わなかったんだ」
「ロウに助けてもらう前の記憶が曖昧なんだ。あのときは生きるか、死ぬかで必死で……それは今もそうなんだけど……」
春樹は言った。
「いまの今まですっかり忘れていたよ。でも確かに僕は、この塔でほかの人間と会っている。僕もその人も殺されるところで、結局、離れ離れになっちゃたんだ」
「名前は?」
「聞いてない。生きているかもわからないよ」
ロウにそのことを打ち明けているうちに、春樹は恥じ入る気持ちになった。自分が生き残ることに必死だったとはいえ、命の恩人のことを忘れていただなんて。ただ彼の命の恩人が春樹であるというそもそもの事実が、春樹の罪悪感を薄めてくれているのも確かだった。春樹がほんとうに彼の命の恩人となれたかどうかは、今となっては怪しい限りだけど……あのあと彼はいったいどうなったのだろう? 生きていればいいのだけど。僕とおなじで処刑を免れて、僕とはちがう場所に捨てられたのかもしれない。
「あ、そうだ……」
春樹は言った。それから雷撃をくらったかのようにいきなり声をあげた。
「思い出したぞ!」
「どうした?」
ロウもびっくりして声をあげた。
「気絶する直前、その人が言っていたんだ……『ナントカ先生に頼れ』って。いま思えば、僕がこの塔を脱出するためのアドバイスじゃないかな?」
「なんて先生だ?」
「わからない……名前を忘れちゃったんだ……いや、うまく聞き取れなかったのかもしれない。それさえ曖昧だ……意識朦朧としていたんだ……ふたりとも、体を動かせないほどだった」
「興味深い話だな……」
ロウは言った。
「だけどよ、春樹……気づいてないかもしれないが、おまえ……名前がわからなくちゃどうしようもないぜ?」
「同感だよ……」
春樹は力なくうなだれた。それから工具をカバンにしまって、道端の段差に腰かけた。もはや仕事に取り掛かる気力なんて蚊ほども湧いてこなかった。
それからものすごく不安になった。僕は、絶対に忘れちゃいけないことを忘れてしまったのではないか、と。だとしたら本物のマヌケだ。塔からの脱出を早く決めていれば、こんなことにはならなかったはずなのに……あと一ヶ月早く決心していれば、「ナントカ先生」のナントカの部分が、まだ頭の中に残っていたかもしれないのに。
「大丈夫か、春樹」
ロウが、春樹の目の前にたって、心配そうに顔をのぞき込んだ。
「だいじょうぶだよ……」
とはいうものの、春樹はショックを隠せないでいた。
「いや、まだだ……あきらめるな」
忘れたのなら、思い出せばいい。それに、もう一つあったはずだ。ナントカ先生という曖昧な言葉以外のべつの何かが……この塔からつつがなく脱出するためのヒントのような何かが……それは、今にも頭の中から出かかっていた。
「思い出せ」
僕の命にかかわることなんだぞ?
「えぇと……」
春樹は、あと少しで何かを思い出せそうだった。その予感はある。だけど、その「あと少し」がなかなかうまくいかなかった。
「思い出せ……」
忘れたことをなんとか口に出そうとしたものの、ノドから飛び出すすんでのところで針が引っかかってしまい、中に引っ込んだままなかなか引き上げられないでいる……ちょうどそんな感じだった。
「思い出せ……思い出せ……思い出すんだ」
春樹はそうとは気づかずぶつぶつ声を出していた。ロウは、そんな春樹の顔を心配そうにのぞきこんでいた。それから間もなくして春樹が顔をあげた。
「名刺だ……」
「名刺?」
ロウは、春樹を見つめたままキョトンとした。
「君に拾われたとき、僕は名刺を持っていたんだ。そこには誰かの名前が……いや、たしか施設か何かの名前が書いてあった……はず……ロウ、あのとき、僕と一緒に名刺も拾わなかったか? 四角い小さな紙切れだ。いや、ローブのポケットにしまっていたかもしれない」
「いや、気づかなかったな……」
ロウはしばらく考えてから言った。
「ローブってのは、あのとき春樹の着ていた火葬屋の服のことだろう? ポケットの中なんざ見ちゃいないし、洗濯当番の春樹が気づかなければ、俺には気づきようもないな。でも、名刺がいったいなんだってんだ?」
「わからない。あのときは気にもしていなかったけど、あの人が僕にくれたんだと思う……もしかしたら二つ目のヒントだったかもしれない。いまはそんな風に思うんだ。なにが書いてあったんだ? くそ、思い出せない……」
「あとで行ってみるか? お前が捨てられていたあのゴミ捨て場にさ。その名刺とやらが落ちているかもしれない」
「残っているかな?」
「望み薄だな」
ロウは言った。
「ゴミの回収は月に二回だ。あれから最低でも二回、ゴミ捨て場は空っぽになったはずだ。紙切れ一枚、都合よく残ってはいないだろう」
春樹は頭を抱えた。春樹が頼るべきは、同じく人間である「塔の探索者」で、ロウの話によると、かんたんに出会えない人たちらしい。でも、その機会はすでに訪れていて、春樹は探索者の男と出会っていた。彼は春樹のためになにか助言をしてくれていたけれど、春樹はそれを汲み取ることができなかった。春樹がもうすこししっかりしていれば、教えてくれたことの意味がわかったはずなのに……男は、すでに消息不明だ。
「ロウ……僕が捨てられていた場所を教えてくれないか? 悪いけど、仕事の前にひとっ走りして、名刺が落ちてないか見てくるよ……ん? どうしたんだ?」
ロウは、春樹から目をそらして横を向いていた。どこか遠くを……通りのずっと先を……見つめているようだった。
「ロウ、聞いているのか? いったいどうした?」
春樹もロウの見ている方角に目をやったけど、何が起きているのか、すぐにはわからなかった。最初に気づいたのは、あたりが妙に静かなことだった。話し声や笑い声、雑踏、客を引き込む呼子の声はまだ聞こえていた。いつもどおり、この街は活気にあふれていた。でもこの時ばかりは、なにやら重苦しい雰囲気にも包まれていた。緊張感、恐怖、あるいは畏怖……そういった目に見えない感情が、見えないままあたりに漂っているようだった。
そのとき、春樹は恐ろしいものに気づいてしまった。ロウが目を見開いて見ているのは、きっとあれだろう。通りを行く住民たちだって、あれを横目で見ていた。みんな気づいていたはずなのに、あえて口に出さないでいた。そして気づかないフリをしたまま、いつもどおり過ごそうとしていた。
街はいつも通りではなかった。拍数の上がった心臓、体から出る冷や汗、多少上ずった声……そんな些細な変化が、周囲に漏れ出ているように春樹は感じた。
通りの先に、ケモノの仮面をかぶった赤髪のふたり組がいた。ふたりともこちらに向かって歩いていた。春樹のほうに向かって、まっすぐと。