月面ラジオ { 5 : "昼間の天体観測(2)" }
30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。
◇
◇
月美が唯一幸運だと思えることがあるとすれば、それは、たまたま家出の最中で、自分のリュックサックの中に替えの服があったことだろう。
ずぶ濡れになった服をサックにしまったころ、少年が天文台の中に戻ってきた。
月美は少年・青野彦丸を睨んだ。
ビショビショにされただけならまだしも、ボウフラの踊る水をかけられたのだ。
心から申しわけなさそうにしているわけじゃないけど、彦丸も気まずそうにこちらを見ていた。
「ずっと怖い顔をしているつもりかい?」
彦丸がたずねた。
「しかたないだろう。あのままほっておけば、君の目は燃えていたんだから。」
「目が燃えるわけない。」
「たとえだよ。昼間の望遠鏡をのぞいちゃダメだ。太陽を見て、失明した人もいるんだ。」
「うそ。」
「うそじゃない。」
「なら、だれが失明したの? 友だち?」
「ガリレオ・ガリレイ。もちろん友だちだ。」
会話がとぎれた。
ふたりとも黙って見つめあった。
月美は、彦丸の顔を見るのに首の角度をすこし調整しなければならなかった。
彼の背が高かったからだ。
と言うよりも、月美の知っているどの男の子よりも背が高い。
月美よりふたつ学年が上らしい。
彦丸は、もの言いたげな様子だった。
でも、何を話したらいいのかわからないようだ。
やがて彦丸は、月美の機嫌を取る言葉を探すのをあきらめた。
彦丸は、月美の巻きぞえでびしょびしょになった望遠鏡を点検しはじめた。
ネジやハンドルのような機械部に水が残っていないか確認し、ていねいに乾拭きをしている。
不思議な光景だった。
人気のない山奥の廃虚で朝っぱらから天体望遠鏡を懇切丁寧に手入れする少年がいた。
洞窟に隠した財宝を磨いているみたいだ。
彦丸は、床の上にビニールのシートをひろげた。
三脚から天体望遠鏡の本体をはずし、シートの上に置いた。
レンズやら、スコープやら、プリズムやら、名前のわからない何やらを並べ、ひとつずつ掃除していく。
彦丸が最後にみがいたのは三脚だ。
ネジ穴に水の分子一滴も残すまいとする徹底ぶりだった。
有事に備えて武器を手入れする兵士のようだ。
月美ももう乾き始めていた。
スリットというドームの隙間から風がふき、髪に染みた最期の水滴がとんでいくのを感じた。
気持ちよかった。
山道で汗をかいたので、じつは濡れてよかったのかもしれない。
月美のイラ立ちも水といっしょにどこかへ蒸発するかのようだ。
ついでに髪についたボウフラの死体も消えてしまえばいいのに、と月美は思った。
「大切に磨くんだね。」
ここまで来て無視されるのも癪なので、月美は自分から重たい口をあけた。
「天体望遠鏡って高いの?」
「もちろん。」
彦丸は背中を向けたまま答えた。
「でもこいつには、値段がない。」
「どういうこと?」
「自分で作ったんだ。」
「うそ……それでどんな星が見えるの?」
「わからない。今日、はじめて使うからね。せめて五等星くらいは観測したいな。」
「なんで朝から準備をしているの?」
「太陽と黒点を観測するつもりだった。」
彦丸は答えた。
ちょうど点検を終えて、望遠鏡の部品をすべて組みなおしたところだった。
「太陽はあぶないって言ったじゃない? 私、さっき水浸しになったけど?」
「特殊なサングラス・レンズがあればできるんだ。できるんだけど……」
レンズといえば、月美には思い当たるふしがある。
「やらないの?」
意地悪くたずねた。
「そのレンズがないんだ。今朝、なくしてしまった……なかなか手に入らないレンズなのに。」
彦丸は天井を仰ぎながら言った。
「さっきまで森で探していたんだ。でも見つかる気がしない。」
彦丸は、こんなにも残念なことはないといった具合だ。
もう探しまわったあとで、ちょっぴり疲れているみたいだ。
月美は、例の落しものをかばんから取り出すと、彦丸の後ろに立った。
「はい、これ。」
「どうしてそれを?」
彦丸は眉をひそめた。
まるで月美が盗んだと言っているかのようだった。
「落としもの。」
月美はレンズを手渡して言った。
「森じゃなくて、道路で落としたんだよ。」
「わざわざ届けてくれたのか?」
彦丸は月美を見つめた。
月美の顔がわずかに熱くなった。
夏のせいじゃない。
「うん。これって望遠鏡のパーツ?」
彦丸はうなずいた。
「見つかってよかったよ。」
警戒した顔つきがやさしくなったのを月美は見逃さなかった。
陰湿そうな髪も目も、笑えばすごく魅力的になると月美は思った。
そんな彦丸の変化を楽しめたのもつかの間だった。
彦丸はきびすを返すと、ドームのスリットに向かって突進した。
隙間に顔を押しこむと、となりの山まで届きそうな声で叫んだ。
「コヤス! あったぞ! 見つかったあっ」
体が大きいとその分声も大きいのだろう。
常軌を逸する声で、月美は飛び上がった。
声が山の中に響きわたった。
彦丸はさも満足した様子でこちらにふり向いた。
返事があったわけではないけれど、それで事足りるということだ。
「森に友だちがいるんだ。」
月美がドギマギしていることに気づきもせず彦丸は言った。
「いっしょに望遠鏡を作っている奴だ。手分けしてこいつを探していた。」
「そう……」
月美は茫然自失のままだ。
「友だちがいたんだ。」
こんな辺ぴなところに来る友だちだ。
きっと変な人なのだろう、と月美は思った。
「で、君はなんでこんなところ来たんだ。」
「だからそれを届けに…….」
「かばんに着替えを入れてかい。それとも普段から着替えを持ち歩いているのかい?」
もちろん普段から持ち歩いているわけがない。
「…… 家出をするつもりだったの」と月美は正直に言った。
「どうして?」
「今日、陽子が帰ってくるから。」
「陽子?」
「姉。」
「お姉さんが嫌いなのかい?」
月美は首を横にふった。
「嫌いじゃない。私とはちがいすぎるの。」
「ちがうって何が?」
「ぜんぶ。頭がよくて、すごくきれいで。」
「頭がよくて、すごくきれい」。
本当なら陽子はこんなありきたりな言葉で言い表せない。
でも月美はありきたりな言葉でしか表現できなかったし、そのことが悔しかった。
「去年から海外で働いているの。すごく大きくて、有名な会社なんだって。今日から夏休みでうちに帰ってくるの。うちは両親とも鼻高々ってわけ。」
「お姉さんと比べられるのがイヤなのか? それが家出をしたい理由?」
「ちがう。そうじゃない。」
月美はまた首をふった。
「だれもわたしと陽子のことを比べたりしない。」
「それじゃどうして?」
「陽子の部屋を掃除していたら、靴を見つけたの。小さな革靴。陽子が私のために買ってくれた靴だった。」
彦丸は首をかしげた。
「その靴はね、私が行くはずだった私立中学の指定のものなの。名門の学校で、陽子もそこの生徒だった。私も受験するつもりだったんだけど、でもけっきょく受けなかった。」
「どうして?」
「怖かったから。落ちると思ったの。だから、やっぱり公立にいきたいって、親に言った。いまの友だちといっしょの学校に通うんだって言い訳をして。でも、海外にいた陽子はそれを知らなくて、てっきり私がそこを受けると思ってたの。プレゼント用にその革靴を買って、部屋にかくしてたみたい。たぶん合格発表の日に渡すようお母さんにたのんでたんだと思う。」
「だからね、なんていうか、恥ずかしいの。」
月美は続けた。
「合わせる顔がないってやつ。さっき、陽子と比べられるのがイヤかってきいたよね? イヤじゃない。比較されるってことは、たとえかなわなくても、すこしくらい相手になるってことでしょ? でも私と陽子はちがいすぎるからだれも比較なんてしない。陽子と私を比較しているのは、いつも私だけだった。」
それから月美はだまりこくった。
彦丸が突然動いた。
望遠鏡の三脚をかつぐと、移動して日の当たらない壁のそばに移動した。
影の中に望遠鏡を置き、それを空に向けた。
レンズをのぞいて、望遠鏡の角度を調整し、それから月美に「来て」と言った。
「のぞいてごらん。大丈夫。影に入れば太陽は見えないから。」
「何をみるの?」
「月。」
「月? 昼なのに?」
「まだ朝だよ。いいから覗いてみて。」
月美はうながされるままに望遠鏡をのぞき込んだ。
残った片目をつむると、視界の中は空だけになった。
うすい青のキャンバスに、仄白い天体があった。
「うそ……」
昼間の月は、透きとおった宝石のようだった。
「月は自分で輝けない。それでもきれいな場所だ。」
彦丸は言った。
「太陽と月を比べるだなんて時間のむだだよ。君の言ったとおり、お姉さんは君とちがうんだから。どっちがすごいかの問題じゃない。月も太陽も、僕はきれいだと思う。強く輝くものこそ美しいだなんて、それは勝手な思いこみだ。」
月美は一心にレンズを覗きこんだ。
昼の月が、こんなにもきらめいていただなんて。
「私もこの月みたいになれるかな?」
望遠鏡から顔を上げ、月美は期待を込めてたずねた。
「知らん。」
彦丸は答えた。
「あ、そう……」
月美は気を取り直して言った。
「夜も天体観測でしょ?」
「うん。泊まり込みで星を見るつもりだ。」
「私も星を見てみたい。このままここにいていい?」
「だめだ。」
彦丸は首をふった。
「暗くなったら家に帰れなくなる。着替えも歯ブラシもないだろう?」
はっきり拒絶したけれど、興奮した月美はそのことに無頓着だった。
「着替え? あるよ。いま、家出の最中。」
「そうだった……」
彦丸は呆れながら言った。
「でもだめだ。」
「いいじゃないか。」
突然背中から声がしたので、月美も彦丸もおどろいてふりむいた。
そこには、彦丸と同じくらい大きな少年がいた。
丸いメガネをかけ、髪はぼさぼさで、まるでハリー・ポッターをアジア系にしたような人だった。
「仲間が増える、いいことじゃないか。」
と、メガネの少年は続けた。
きっとこの人が「コヤス」だ、と月美は思った。