月面ラジオ { 7: "廃墟の天文台(2)" }
30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。
◇
◇
所長室の扉をあけると、彦丸が机にかぶりついていた。
洗剤で机や窓をみがいていると思いきや、彦丸はなにやら必死の形相で電卓を叩いているところだった。
「掃除は?」
月美はたずねた。
電卓を打ちながら、彦丸はアゴで部屋の隅をさした。
見ると、部屋の角にちりとりがあって、そこにほこりの塊と虫の死骸が積もっていた。
「これだけ?」
作業量が平等じゃないので、月美は苦言を呈した。
「さっき、『命を落としてでも窓を磨き上げるんだ』って言ったよね?」
彦丸は電卓から指をはなすと、ノートをぱしっと叩いた。
その顔は、倒産寸前の社長のようだった。
「計算があわないんだ! 僕たちは活動するにあたって帳簿をつけている。けど、どうしても現金と帳簿の数字が合わない。どこかで計算ミスをしたんだ。見つけて直さなくちゃ!」
「それってお小遣い帳?」
月美はたずねた。
「予算を管理するための台帳だ。」
彦丸がていねいに言い直した。
「どうしてそんなことするの?」
「大きなことを成し遂げるためだ。」
「『天文台再生計画』のこと?」
「もちろん……ん?」
彦丸は、ふとあたりを見渡した。
「そういえば、子安はどうした?」
「まだ天文台にいる。点検したいところがあるんだって。」
「予定より遅れているな。」
彦丸は腕時計を見ながら言った。
「時間の見積もりが甘かったかな?」
「遅くなったのは、私たちが話し込んだから! すぐに来ると思う。」
「なら大丈夫だ。」
彦丸は机に顔を戻し、レシートの束とにらめっこの帳簿計算に戻った。
月美は、やることもないので所長室を見渡した。
所長室というよりも、ここはもう彦丸たちの活動拠点だ。
執務机が入り口の正面にあり、前世紀から置きっぱなしのソファーが部屋の中央にあった。
どの壁も本棚とキャビネットで固められている。
キャビネットには、星座早見盤、星座のポスター、地球儀ならぬ月球儀がかざってあった
空いたスペースには、試作品と思われる望遠鏡の部品が置いてある。
本棚も彦丸たちの私物でいっぱいだ。
「自宅工作ことはじめ」、「天体望遠鏡の作り方」、「彗星軌道計算入門」、それから天文学の本が並んでいた。
月美は、バーベキューとアウトドアの入門書も見つけた。
大きなフォルダーに工具店のレシートが日付別にしまってあり、いちばん下の棚には、書き損じた天体望遠鏡の設計書が積んであった。
本棚を見ているうちに、月美は「天文台再生計画」と書いてある紙の束を見つけた。
表紙を眺めていると、彦丸が話しかけてきた。
「上の階に電気を通して、天文台を動かせるようにするんだ。」
「あれって動くの?」
月美はおどろいた。
「天文台は、星の動きに併せて自動で回転するものなんだ。」
彦丸は言った。
「星は想像以上に速く動くからね。言ってみれば、中華料理屋のターンテーブルに望遠鏡を乗せたものが天文台ってわけさ。」
「上の天文台も電気で動いていたはずなんだ。」
彦丸は続けた。
「だけど、ほら……このとおり今は廃虚で、動かすことはできない。天井のスリットなら手で開けられるけど、それだけじゃダメだ。だから、あの天文台に電気を通して、機械を修理をして、元通り動かせるようにする。それが『天文台再生計画』さ。」
「そんな必要あるの? 天文台がなくても観測はできる。天体望遠鏡だって買えばいいじゃない?」
「星を見たいだけならそうするさ。でも僕たちは、自分たちの力でどこまで遠くを見られるか試したいんだ。さっきの望遠鏡だって試作機のひとつさ。次はもっと高性能のやつを作る。」
「どうしてそんなことをするの?」
「欲しいものがある。それはお金じゃ手に入らない。」
「『満足感』ってやつ?」
「ちがう。僕の欲しいものは、まだこの世に存在しない。だから自分の手で作るんだ。望遠鏡も、天文台も、バーベキューだって『作ること』の練習さ。これらからもっとたくさんのものを作るつもりだ。彼方の光を捉える望遠鏡、宇宙を見渡す天文台、観測の難しい星を映すプラネタリウム……それだけじゃない。ビルや街だって作るのさ。」
「それを全部、たったひとりで?」
「ひとりじゃない。何千、何万の仲間を集める。」
「何万?」
想像するだけで頭がクラクラする数だ。
中学生のくせに、彦丸はどうしてそんな大それたことを言い切れるのだろう。
「そこまでして、何がほしいの?」
「ないしょ。」
月美は口をすぼめた。
「どうしたら教えてくれる?」
「僕たちを手伝ってくれるなら。」
「ほんとう?」
「もちろんだ。くそっ!」
突然の怒号に月美は飛び上がった。
「どうしても百円だけ足りない!」
電卓の数字を見ながら彦丸は頭を抱えた。
月美がしどろもどろしていると、子安くんが所長室に入ってきた。
「おつかれ、ふたりとも。あ、そういえば彦丸、予算箱から勝手にお金をかりたよ。百円ほど。ジュース買ったんだ。ん? ちゃんと返すよ。なんでそんな怖い顔してるの?」
ふるえる彦丸を見て月美は笑いそうになった。