{ 14: 血のロビー(2) }
本日、二度目の匍匐前進だった。春樹は五十二階に戻ると、下のフロアにいるテロリストたちに見つからないよううつ伏せの状態で、東塔から西塔への渡り廊下を渡っていた。春樹の左隣りには、同じように匍匐前進するリク勇太がいて、ワン由比とステファン明日香がうしろに続いた。知り合ったばかりの女の子の前で地べたを這って先導するのは恥ずかしかったし、その女の子たちに「後に続け!」と促すのもお互い妙な感じではあったけど、人間でバスケットをするふたり組のことを説明するにあたり、そこは納得していただけた。とにかく、十代の男女四人がうつ伏せになって渡り廊下を進んでいた。
春樹は、できるだけ音を立てないようゆっくり進んだ。さっきと打って変わってロビーは静かだった。ただし、動物面のテロリストがいなくなったわけでなく、抵抗する者、逃亡する者がいなくなり、みな人質として円形のレセプションデスクの中でおとなしくしているだけのことだ。犬面の男は、デスクの上でのんきに横になり、狐面の女は、その反対側で見張りに立っていた。
レセプションデスクは、死にかけの羊を集めた家畜小屋のような有り様で、騒がしかったロビーを知っている春樹にとってこの静寂はむしろ恐ろしかった。正直なところ、大騒ぎしてくれていたほうがありがたかった。動物面のふたり組が逃亡者に気を取られれば、春樹たちの気づかれる確率は格段に下がるからだ。でもこの様子だと、咳払いひとつでここにいるとバレてしまうだろう。静けさの中では、服が床をこする音は心臓の擦り切れる音でもあった。
ほんの数分の……春樹たちにとっては一時間にも思えるような……大行軍のあと、ついに西塔にたどりついた。
◇
西塔に入ったとたん、春樹は走り出した。うしろをふりむいて、三人がついてきていることを確認する気はなかった。バックヤードに入ってもとにかく走った。非常階段の扉の前に来たところで、春樹はやっと立ち止まった。扉をそーっと開けてから、三人にここで待つように言い、試しにひとつ下の踊り場まで降りて誰もいないことを確かめた。
「見張りはいない。急いで地上に降りるんだ」
春樹は三人のもとに戻ると言った。
「もし足音や声が聞こえたら、すぐに近くのフロアに入って、隠れる場所を探すんだ」
三人が春樹の指示をきちんと聞き届けたのかは、ついぞわからなかった。勇太を先頭にして、三人ともすでに階下へ駆けだしていたからだ。ただ、明日香だけはひとつ下の踊り場につく前に立ち止まってこちらにふりかえった。
「おい、さっさといくぞ」
立ち止まった明日香に勇太はあくまでささやくように言った。由比も正気を疑う目で明日香を見た。
「待って……まだお礼も言っていないのよ」
明日香は言った。
春樹が勇太と由比に目を向けると、二人とも恥じ入ったように下を向いた。すぐに立ち去りたいのは当然のことで、みんなを責める気はさららさらなかった。このタワーからいの一番で逃げ出そうとしたのが春樹であることを考えればなおさらだ。確かに渦中の現場に引き返しはしたものの、それは秋人と父さんがそこにいるからであって、そうでなければとっくにタワーを脱出していただろう。
「ほんとうに秋人のところまで行くの?」
明日香は春樹のもとまで引き返してきた。
「うん」
春樹は言った。
「無事でいてね。春樹も、秋人も……」
春樹はうなずいた。
勇太も引き返してくると、その大きな手で僕と握手をした。由比も、僕の目をしっかり見ながらありがとうと言った。
◇
春樹は渡り廊下にもどってくると、そうすることがカンパニーの社則で決まっているかのように、すぐにうつ伏せになった。本日、三度目の匍匐前進だった。この渡り廊下を渡るのだって、かれこれ四回目だ。帰りも通るかもしれないことを思えば、今日だけで五回もこの廊下のお世話になるわけだ。もし秋人たちが助かって万事無事に終われば、春樹はここに生還の記念碑を立てようと目論んでいた。しかし、廊下のちょうど半分あたりに来たところで、春樹はうつ伏せのまま止まることになる。新たなテロリストがエレベーターホールの向こうから歩いてきたからだ。それも、人間ふたりを抱えながら……
春樹は、手すりの隙間から仮面の男を見た。やはり動物を模した鬼の面で、今度は三本角の鼠だった。臙脂色に染め上げた死に装束のような着物で、その下に袴を穿いている。短く刈り込んだ赤毛は、草原の火事のようだった。
鼠面の男は、左肩の上にひとり、右脇の下にひとりの人間を抱えていた。どちらも男のようで、白いシャツを着ていた。ここからだとよく見えないけど、春樹はいやな予感がした。
「イッショウ!」
鼠面が声を張った。
「こっちに来い。スイレイはそのまま見張っていろ」
イッショウとは、レセプションデスクの上であぐらをかいていた犬面の名前だろう。呼ばれて、すぐに鼠面のもとにかけつけた。
鼠面の男は、右脇に抱えていた男を床に落とすと、足蹴にして仰向けにさせた。地面に転がされたその男は、すでに昏睡していた。衣服のいたるところに男自身の血と思われるシミがあった。
「くそ、なんてことだ……」
春樹は言った。
「父さんだ……」
春樹の父、シャン忠夫が人質としてつかまってしまった。
「シャン忠夫……ユウナの腹心のひとりだ」
鼠面は、レセプション・デスクを見やって言った。
「人質としては頭ひとつ抜けた存在だろう。あそこにいる首をひとまとめにしたよりも価値がある」
「もう死んでるんじゃ……」
犬面のイッショウは、血だらけの父さんの顔をのぞきこんだ。
「まだ生きている。治療すれば助かるだろう」
「つまり、ほっとけば死ぬってことか……」
イッショウは言った。
「奴らへのメッセージだ。シャンを助けたければ、総力を上げて、ここまで奪い返しにこいというな」
「なら、このメッセージカードをデスクに飾っておこう」
そう言ってイッショウは父さんの体を運んでいった。
父さんもなかなかのガタイだけど、二メートル近くあるイッショウが肩に抱えると中学生くらいに見えた。イッショウは、父さんの体をデスクの上にどさりと置いた。人質たちはみな息を飲んだけど、あえて父さんを見ようとする者はいなかった。
「それでこのガキは?」
鼠面のところまで戻ってくるとイッショウは言った。
鼠面は、自分の左肩の上に人間を抱えていたことを今思い出したように「おっと」と言ってから、その体を地面に置いた。秋人だった。
「こいつの持っていた入館証に『シャン』と書いてあった。息子か何かだろう。片腕が空いていたから、ついでに持ってきた。シャンが自決しようとしたときに、思いとどまらせるための人質にできるだろう。ほかの人間と一緒にしまっておけ」
「虫カゴはもういっぱいだ」
イッショウは、人質を収めたレセプションデスクを顎で指した。
「重ねて、つっこんでおけ。それで騒ぐようなやつがいれば、見せしめに殺していい。俺が許可する。だが……」
「わかっている。力を使いすぎれば、本来の任務に支障がでる」
「治安隊のやつらが、ロビー強襲の準備を整えたころだ」
鼠面は、ロビーの吹き抜けを見上げた。まさか僕を見ているのではと、さっきから胸の内側を叩きっぱなしだった心臓がさらにペースを上げた。だが、ヤツが見ているのは、五十二階よりもはるか上で、春樹ではなかった。
「間もなく来るだろう……おまえとスイレイで出迎えるんだ。俺は、俺の戦いに戻る」
イッショウは、うなずいてそれに応えた。鼠面は、エレベーターホールの奥に姿を消した。秋人と父さんをロビーに残したまま……