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{ 14: 血のロビー(2) }

{ 第1話 , 前回: 第13話 }

本日、二度目の匍匐ほふく前進だった。春樹は五十二階にもどると、下のフロアにいるテロリストたちに見つからないよううつせの状態で、東とうから西とうへのわた廊下ろうかわたっていた。春樹の左となりには、同じように匍匐ほふく前進するリク勇太がいて、ワン由比とステファン明日香あすかがうしろに続いた。知り合ったばかりの女の子の前で地べたをって先導するのはずかしかったし、その女の子たちに「後に続け!」とうながすのもおたがみょうな感じではあったけど、人間でバスケットをするふたり組のことを説明するにあたり、そこは納得していただけた。とにかく、十代の男女四人がうつせになってわた廊下ろうかを進んでいた。

春樹は、できるだけ音を立てないようゆっくり進んだ。さっきと打って変わってロビーは静かだった。ただし、動物面のテロリストがいなくなったわけでなく、抵抗ていこうする者、逃亡とうぼうする者がいなくなり、みな人質として円形のレセプションデスクの中でおとなしくしているだけのことだ。犬面の男は、デスクの上でのんきに横になり、きつね面の女は、その反対側で見張りに立っていた。

レセプションデスクは、死にかけの羊を集めた家畜かちく小屋のような有り様で、さわがしかったロビーを知っている春樹にとってこの静寂せいじゃくはむしろおそろしかった。正直なところ、大騒おおさわぎしてくれていたほうがありがたかった。動物面のふたり組が逃亡とうぼう者に気を取られれば、春樹たちの気づかれる確率は格段に下がるからだ。でもこの様子だと、咳払せきばらいひとつでここにいるとバレてしまうだろう。静けさの中では、服がゆかをこする音は心臓のれる音でもあった。

ほんの数分の……春樹たちにとっては一時間にも思えるような……大行軍のあと、ついに西とうにたどりついた。

西とうに入ったとたん、春樹は走り出した。うしろをふりむいて、三人がついてきていることを確認する気はなかった。バックヤードに入ってもとにかく走った。非常階段のとびらの前に来たところで、春樹はやっと立ち止まった。とびらをそーっと開けてから、三人にここで待つように言い、試しにひとつ下のおどまで降りてだれもいないことを確かめた。

「見張りはいない。急いで地上に降りるんだ」
 春樹は三人のもとにもどると言った。
「もし足音や声が聞こえたら、すぐに近くのフロアに入って、かくれる場所を探すんだ」

三人が春樹の指示をきちんと聞き届けたのかは、ついぞわからなかった。勇太を先頭にして、三人ともすでに階下へけだしていたからだ。ただ、明日香あすかだけはひとつ下のおどにつく前に立ち止まってこちらにふりかえった。

「おい、さっさといくぞ」

立ち止まった明日香あすかに勇太はあくまでささやくように言った。由比も正気を疑う目で明日香あすかを見た。

「待って……まだお礼も言っていないのよ」
 明日香あすかは言った。

春樹が勇太と由比に目を向けると、二人ともったように下を向いた。すぐに立ち去りたいのは当然のことで、みんなを責める気はさららさらなかった。このタワーからいの一番でそうとしたのが春樹であることを考えればなおさらだ。確かに渦中かちゅうの現場に引き返しはしたものの、それは秋人と父さんがそこにいるからであって、そうでなければとっくにタワーを脱出だっしゅつしていただろう。

「ほんとうに秋人のところまで行くの?」
 明日香あすかは春樹のもとまで引き返してきた。

「うん」
 春樹は言った。

「無事でいてね。春樹も、秋人も……」

春樹はうなずいた。

勇太も引き返してくると、その大きな手でぼく握手あくしゅをした。由比も、ぼくの目をしっかり見ながらありがとうと言った。

春樹はわた廊下ろうかにもどってくると、そうすることがカンパニーの社則で決まっているかのように、すぐにうつせになった。本日、三度目の匍匐ほふく前進だった。このわた廊下ろうかわたるのだって、かれこれ四回目だ。帰りも通るかもしれないことを思えば、今日だけで五回もこの廊下ろうかのお世話になるわけだ。もし秋人たちが助かって万事無事に終われば、春樹はここに生還せいかんの記念を立てようと目論んでいた。しかし、廊下ろうかのちょうど半分あたりに来たところで、春樹はうつせのまま止まることになる。新たなテロリストがエレベーターホールの向こうから歩いてきたからだ。それも、人間ふたりをかかえながら……

春樹は、手すりの隙間すきまから仮面の男を見た。やはり動物を模したおにの面で、今度は三本角のねずみだった。臙脂えんじ色に染め上げた死に装束のような着物で、その下にはかま穿いている。短くんだ赤毛は、草原の火事のようだった。

ねずみ面の男は、左肩ひだりかたの上にひとり、右わきしたにひとりの人間をかかえていた。どちらも男のようで、白いシャツを着ていた。ここからだとよく見えないけど、春樹はいやな予感がした。

「イッショウ!」
 ねずみ面が声を張った。
「こっちに来い。スイレイはそのまま見張っていろ」

イッショウとは、レセプションデスクの上であぐらをかいていた犬面の名前だろう。呼ばれて、すぐにねずみ面のもとにかけつけた。

ねずみ面の男は、右わきかかえていた男をゆかに落とすと、足蹴あしげにして仰向あおむけにさせた。地面に転がされたその男は、すでに昏睡こんすいしていた。衣服のいたるところに男自身の血と思われるシミがあった。

「くそ、なんてことだ……」
 春樹は言った。
「父さんだ……」

春樹の父、シャン忠夫が人質としてつかまってしまった。

「シャン忠夫……ユウナの腹心のひとりだ」
 ねずみ面は、レセプション・デスクを見やって言った。
「人質としては頭ひとつけた存在だろう。あそこにいる首をひとまとめにしたよりも価値がある」

「もう死んでるんじゃ……」
 犬面のイッショウは、血だらけの父さんの顔をのぞきこんだ。

「まだ生きている。治療ちりょうすれば助かるだろう」

「つまり、ほっとけば死ぬってことか……」
 イッショウは言った。

やつらへのメッセージだ。シャンを助けたければ、総力を上げて、ここまでうばかえしにこいというな」

「なら、このメッセージカードをデスクにかざっておこう」
 そう言ってイッショウは父さんの体を運んでいった。

父さんもなかなかのガタイだけど、二メートル近くあるイッショウがかたかかえると中学生くらいに見えた。イッショウは、父さんの体をデスクの上にどさりと置いた。人質たちはみな息を飲んだけど、あえて父さんを見ようとする者はいなかった。

「それでこのガキは?」
 ねずみ面のところまでもどってくるとイッショウは言った。

ねずみ面は、自分の左肩ひだりかたの上に人間をかかえていたことを今思い出したように「おっと」と言ってから、その体を地面に置いた。秋人だった。

「こいつの持っていた入館証に『シャン』と書いてあった。息子か何かだろう。片腕かたうでが空いていたから、ついでに持ってきた。シャンが自決しようとしたときに、思いとどまらせるための人質にできるだろう。ほかの人間と一緒いっしょにしまっておけ」

「虫カゴはもういっぱいだ」
 イッショウは、人質を収めたレセプションデスクをあごで指した。

「重ねて、つっこんでおけ。それでさわぐようなやつがいれば、見せしめに殺していい。おれが許可する。だが……」

「わかっている。力を使いすぎれば、本来の任務に支障がでる」

「治安隊のやつらが、ロビー強襲きょうしゅうの準備を整えたころだ」

ねずみ面は、ロビーのけを見上げた。まさかぼくを見ているのではと、さっきから胸の内側をはたきっぱなしだった心臓がさらにペースを上げた。だが、ヤツが見ているのは、五十二階よりもはるか上で、春樹ではなかった。

「間もなく来るだろう……おまえとスイレイで出迎でむかえるんだ。おれは、おれの戦いにもどる」

イッショウは、うなずいてそれに応えた。ねずみ面は、エレベーターホールのおくに姿を消した。秋人と父さんをロビーに残したまま……

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