{ 17: 豪華病室(2) }
「まずは、君とカンパニーを取り巻く状況を説明しよう」
ユウナ博士が言った。知りたいのはそんなことではなかったけれど、春樹は黙って話を聞いていた。
「カンパニーを襲ったテロリストたちは、すでに治安隊が撃退した。やつらの何体かは仕留めたものの、その他は逃げおおせた。君と秋人君を襲ったふたり組のうち、犬の仮面の男はとある理由で焼死した。もうひとりの狐面の女は……残念ながら逃げられてしまった」
この時、短髪の男の口元がわずかに引き攣った。やはりこの男は、ロビーであの女と戦った治安隊のひとりなのだろう。
「君の家族の仇討ちをできなくて、申し訳なく思うよ」
博士は言った。
「でもやつらは、倒そうと思っても倒せる相手じゃない。一度でも対峙すれば、そのことがわかる。春樹君も感じたはずだ。やつらは、人間じゃない……不死身のバケモノだ、と」
春樹は、顔を上げた。バン隊長のナイフや、マイナスドライバーを犬面の男、イッショウに突き立てた時のことを思い出した。刃はどちらもあっさり跳ね返り、春樹の手からすっぽ抜けた。やつの肌は、コンクリートの壁面のようだった。
「に、人間じゃない……?」
春樹は呆然として言った。
「あいつらは、みんな髪が赤かった。いや、髪の毛なんていくらでも染められる……それよりも、一度だけ犬面の男と目が合ったんです。あいつの目は……その……」
「真っ赤だった。そうだろう?」
春樹はうなずいた。イッショウが仮面の裏側から春樹を睨んだ時、春樹はその目と対峙した。見たこともない色のその目と……それは、まるで血のような色の目だった。思い出すだけで、今も震えそうになる。バケモノに睨まれたからじゃない。赤……春樹にとってその色より恐ろしいものが、この世に存在しないからだ。
「春樹くん……これは君が今日始めて知ることだろうけど、人間以外の何かがこの東京にいるんだよ」
博士は言った。
「ヤツらが何者で、どうして東京にいるのかは、はっきりしないことが多い。僕たちが何者で、どうしてこの地で暮らすようになったのか、その起源を正しく説明できないのと同じ理由でね。でも、はっきりしていることも一つだけある。ヤツらが、人間を皆殺しにしようとしているということだ。ただ殺すんじゃないよ。皆殺しだ」
「なぜ人間を根絶やしにしたいのか?」
博士は続けた。
「その理由は、推測の域を出ないが……そうだな……例えば、この部屋にハイエナが一匹いて、さらにもう一匹ジャッカルがいたとしよう。二匹はともに肉食で、いつも同じようなモノを食べている。そして、ともに飢えている。エサとなりそうな動物は、小さなウサギが一匹いるだけだ。とても肉食動物同士で分け合える量じゃない。だとしたらどうする? ハイエナは、ジャッカルを追い払ってから、ウサギを食べようとする。ジャッカルもそうしようとするだろう。あるいは相手を打ちのめすことができれば、ウサギを前菜にして、そちらの肉を食べるかもしれない。まぁだいたいは、弱いほうが逃亡して終わるんだろうけどね。けど、もしこんなことがずっと続くなら、ハイエナはウサギを齧る前に、ジャッカルという種を根絶やしにしたいと感じるはずだ。つまり、そういうことなんだ」
なぜだか博士は、面白おかしく話しているように見えた。もともと子供のように屈託のない表情で、根っから明るい性格なのだから、博士が少々不謹慎に見えてしまうのは仕方ないことなんだと、春樹は思った。いや、思おうとした。
「しかし僕たちの社会は、サバンナほど甘い世界じゃない」
博士は言った。
「もちろん、ヤツらは強いよ。素手で人間を殺せる。僕たちの息の根を止めることなんて、ヤツらにとって新聞紙をビリビリ破くくらいの作業でしかない。だけど我々人間は、社会の中で増え続けてきた。仮にやつらが百人から暴れまわったとしても、人間社会全体から見れば、カスほどの人数でしかない。順ぐりに人間を殴り倒したところで、先に自分たちが疲弊してしまうことをヤツらも自覚している。社会というものは、僕たちが思っているよりも、はるかに強固で、大きく、純然たる暴力装置なのさ。だからこそヤツらは、自然融合炉の破壊を狙っているのだ」
自然融合炉……電気をつくる機械……世界最高峰の発電装置だと、カンパニーでの企業見学で教えてもらったばかりだし、小学校のころにも同じことを習った。電気がなければ、人は社会で暮らしていくことはできない。テロリストが、自然融合炉を狙うのはきっと当然のことなのだろう。博士の説明にうそ偽りはないはずだ。でも、本当にそれだけだろうか?
「電気という基盤を失えば、社会は混乱し、僕たち人間を倒せるとヤツらは考えている」
ユウナ博士は言った。
「本当に倒せるかはさておき、電気がなくなれば、たくさん人が死ぬのは間違いない。だから我々カンパニーは、命懸けで自然融合炉を守らねばならない。電気が命より大切だからじゃない。電気は命そのものだからだ」
本当にそうだろうか? 春樹は、狐面の女がこんな風に言ったことを思い出した。
「我々の目的は、ユウナを殺すことだ……」
テロリストたちは、確かに博士を亡き者にすると宣言した。護衛を二人も連れているこの男を……いま嬉々として人間の敵について説明しているこの男を……テロリストたちとの戦いを「サバンナでの殺し合い」に例えたこの男を……春樹を気にかけ、心底心配した様子で病室に入ってきたこの男を、やつらは確かに亡き者にすると宣言した。「それこそが我々の目的なのだ」、と。
テロリストから盗み聞いた話を伝えるべきだと思う一方で、春樹はどうしてもその気になれなかった。博士がウソをついているとは思わない。でも、どうしてすべての真実を伝えてくれないのか? その理由がわかるまで、何も言わないほうがいいと思った。
「今回の襲撃で貴重な社員たちを何人も失った」
博士は言った。
春樹はビクリと体を震わせた。まるで今しがた怒鳴られた子どものように恐怖を感じた。その話を……聞きたいのに、聞きたくない話を博士が始めたからだ。
「君の家族と友だちの話をしよう。まずご学友だが、リク勇太、ワン由比、ステファン明日香の三名は無事だ。君の勇気ある行動により、三人とも無事タワーから脱出したそうだ。それからさっき言ったとおり、お父さんも無事だ。とても健康体といえる状態ではないのだが、医者の話では、まもなく目を覚ますはずだ。でも秋人君は……首の骨を折られた」
春樹は、ユウナ博士の顔に見入った。なにか言おうと口を開きかけたけど、それっきりひと言も出てこなかった。
「生きてはいる」
そんな春樹の様子を見かね、博士は悲しそうにうつむいた。
「現在、カンパニーの集中治療室で、なんとか命をつなぎとめている。でも目覚めるかどうかはわからないし、目覚めたとしても、重度の障害は残るだろう」
博士が春樹の肩に手を置こうとしたが、春樹はそれを払い除けて膝を抱えた。それからシーツに顔を埋めた。喉の奥から、自分のものとはとても思えないうめき声が漏れ出ていた。うめき声は、やがて叫び声に取って代わった。口から空気が漏れ出ても、シーツが顔を覆っているせいで息が吸えず、春樹はあやうく窒息しかけていたが、それでも叫ぶのを止められなかった。
「殺してやる! ヤツらを皆殺しにしてやるんだ。あの赤い髪を根こそぎ引っこ抜いたあと、首から下を全て切り裂くんだ。絶対に許すものか!」
春樹は驚いてシーツから顔をあげた。
待て……いま僕はなんて言った? 何を切り裂くって? いや、本当にそんなことを言ったのだろうか? わからない。僕の背中をさすってくれていた博士の表情からは、僕がなんと喚き散らしたのか推し量ることができなかった。
「秋人と会うことはできますか?」
顔中がグシャグシャの状態で、そんな風にはっきりと言えたとは思わない。しゃくりあげながらも、なんとかそう言おうと努力しただけのことだ。でも博士には伝わったようだ。
「窓から集中治療室を覗くことはできるだろう……」
博士は春樹の肩に手をおいて言った。
「でもそれだけだ。それ以上のことは、君のためにも、秋人君のためにもならない。そして……こんなふうにはっきりと言うのは酷だが……そういった行為を『会う』とは言わない。誰にとっても意味のない感傷的行為にすぎない」
「あいつらは、どこにいるんですか? 仮面をかぶったあのバケモノたちは……」
まるでユウナ博士こそ敵であるかのように、春樹は博士をにらみながら言った。
「教えられない」
博士は言った。
「君にはすまないと思うが……いや、今後の君の安全を思えばこそ、ヤツらの情報を教えることはできないんだ。ただ……君が、本当の意味で我々側につくのであれば、話は別なのだが」
「そちら側につく? どういうことですか?」
「それを説明する前に、まずは確認しておきたいことがある」
博士は言った。
「君は、秋人君とお父さんの仇をうちたいか?」
なにを言っているんだこの人は、と春樹は思った。仇をうちたいか? そんなふうに訊かれて、「いいえ、けっこうです」と言ってのける人がこの世にいるものか。
「僕に、何かできることが?」
春樹は言った。
「でも、いったい何を? あんなバケモノ相手に、僕ができることなんて……」
「ある」
ユウナ博士は言った。
「君にしかできないことがある。だから、我々を助けてほしいんだ、春樹君」