{ 9: ユウナ博士(2) }
しばらくは自由時間だった。博士は、発電施設の中なら自由に歩いていいと言った。でも見るべきものは自然融合炉だけだったので、春樹たちは一番手前の炉のまわりをうろちょろするだけだったが……
「どうだ、春樹?」
二人きりになると秋人が言った。
「悪夢の原因は見つけられそうか?」
「いや……」
春樹は首をふった。
「見つけるもなにも、それ以前に大きな問題があるよ」
「なんだ?」
「僕が一年前に見学したのは、バックヤードの電気室とボイラー室だ。ここに来たことはない。勉強になるけど、悪夢の解決にはならないよ。なにか手を打ってあるのか?」
「いや……そいつはとんだ盲点だった」
「まったく!」
「どうするつもりだ? なにか考えがあるんだろ」
「ここを抜け出してバックヤードに行ってみるつもりだ」
「大丈夫か?」
「作業用のツナギを持ってきたんだ」
春樹は自分のカバンを叩きながら言った。
「ビル設備点検科の授業で支給されたやつだ。ツナギを着ていれば、ビルのバックヤードをうろついても怪しまれないだろう。秋人の言ったとおり、堂々としていれば案外バレないはずだ」
「点検業者のフリしていくわけだな。だとしてもバックヤードの中には入れるのか? 鍵がかかってたらどうする?」
「その時はあきらめて引き返すよ。どっちにしても三十分で戻ってくるつもりだ。僕が消えて怪しまれたら、秋人、おまえが博士をごまかすんだぞ?」
「わかってるさ」
「じゃぁスキを見てここを抜け出すよ」
しかしスキを見ているヒマなんてなかった。そのとき博士の声が遠くから聞こえた。
「秋人くん! お父さんがやってきたよ! 偶然にもこのフロアに来ていたんだ」
「はい?」
春樹と秋人は同時にふり返った。遠くに人影がふたつ見えた。
「まずい!」
眼鏡をかけている春樹の視力ではよくわからなかったけど、秋人ははっきりと見えたようだ。
「オヤジのやつがマジで来てる。春樹、かくれろ!」
言われるまでもなかった。春樹は急いで自然融合炉を回り込んで、物陰にかくれた。
「秋人!」
まもなくして春樹たちの養父、シャン忠夫の野太い声がした。
「と、父さん!」
秋人の返事もきこえた。
「いったいどうしてここに!」
「どうしてもなにも、ここは私の職場だぞ?」
父さんの困惑した声が続いた。
「あぁ、そうだったね……」
「おとなくしく見学しているか? ユウナ博士の迷惑になっていないだろうな?」
「もちろんさ」
秋人の代わりにユウナ博士が答えた。
「都立中央高等学校の生徒は行儀がいいし、みんな好奇心旺盛だ。みどころがあるよ」
春樹たちの父、シャン忠夫はひげをはやした大柄な男だった。仕事でめいいっぱいのせいか、目の隈やシワが顔に染み付いていて、四十代半ばですでに老け込んでいる。朝、春樹たちが起きるまえにカンパニーに出かけ、夜は泊まるか、帰ってきてもかなり遅い時刻になるので、家で会わない日々が一ヶ月くらい続くこともあり、そんな時にばったり出くわすと、一ヶ月のあいだに父が五歳くらい歳をとったんじゃないかとビックリしてしまうことも度々だった。実年齢より十歳も若くみえるシャン博士のほうが上司だという事実は、なんともちぐはぐな印象を春樹に与えた。
「ユウナ博士……」
父さんが言った。
「私を呼んだのは、会わせたい者がいるからではなかったか?」
「おっとそうだった」
ユウナ博士が手を叩いた。
「おもしろい生徒がいてね。彼をシャン博士にも紹介したいのだが……あれ? 晴夫君はさっきまでここにいなかったかい?」
「晴夫はトイレです」
秋人はすかさず言った。
「なんと……はやく帰ってきてくれればいいのだけど」
博士は言った。
「たいへん申し訳にくいのですが、彼の切迫した様子からすると、どうも緊急事態だったようで……もう少し具体的に言えば……」
「あぁ待った、待った。事情はだいたいわかるから」
ユウナ博士が秋人を押し留めた。
「困ったな。お忙しいシャン博士を待たせるわけにもいかないし……」
「父さん!」
秋人は言った。
「晴夫は親友なんだ。こんど父さんがいるときに家に連れてくるよ。かまわないだろう? それよりも、あっちの炉のほうに来てほしいんだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「あっちの炉? 自然融合炉ならおなじものが眼の前にあるだろう」
「あっちじゃないとダメなんだ。いいから来てくれ。さぁユウナ博士もごいっしょに!」
秋人がふたりを強引にフロアの奥の方まで連れて行った。三人の声がすっかり聞こえなくなったころを見計らい、春樹は走って発電施設を出た。
◇
トイレで訓練用のツナギに着替え、冷や汗をかいたせいでぐっしょりになったシャツをカバンにしまうと、春樹は、吹き抜けの上の渡り廊下を歩いて東棟から西塔へと移動した。それから五十二階、つまりレセプション・デスクのあるロビーのすぐ上のフロアへと降りた。西塔の廊下を突き進むと、とても地味な金属製の扉を見つけた。普段はだれの目にも止まらず、皆そのまま前を通り過ぎてしまうあの扉だ。
「あった、ここだ……」
まわりに人がいないことを確かめてから春樹は扉をあけた。ビニル樹脂系の安っぽい床材でできた廊下が伸びていた。春樹でなければ正体もわからないパイプと制御端末とが壁と天井にあった。
ここはビルのバックヤード……カーペットの詰まった床、ガラス張りの壁、機能にも装飾にもこだわったオフィスデスク、壁にかけられた有名画家の油彩画、大鉢に植えられた観葉植物、社員なら全品無料のコーヒースタンド……そんな華やかな舞台装置とは、一切かっさい無縁の場所である。
「ちょうど一年ぶりか……うん、いい匂いだ」
勝手知ったる我が家に戻ってきたような気がした。
春樹は、こういう場所にくるのがたまらなく好きだった。
「たしか、この先にボイラー室があったはずだ」
春樹があの悪夢を……「前世の夢」を見るようになった原因がここにあるのでは、というのが秋人の説だった。春樹は信じていなかったのだけど、カンパニータワーに来てからというもの、その考えは少しだけ改まっていた。
さっきから気分が悪いのだ。秋人には気取られないようにしていたけれど、荷物検査を終えた時からずっとそうだった。背中も額も汗をかきっぱなしだし、吐き気さえする。まるであの夢から覚めた直後のようだった。こんなこと今まで一度もなかったのに……
これは緊張からくる一時的な体調不良にすぎないのか? それともあの悪夢と何か関係あるのだろうか? あるとは思えないけど、だからといって無関係と切り捨てる気にもなれなかった。
「とにかく行こう……」
春樹は廊下の奥へと進んだ。
しばらくバックヤードを歩いても誰ともすれ違わなかった。ビル設備管理の作業員どころか、この時間は清掃員すらいないようだ。
静かだった。特別なことは起こらないし、これからも起りそうにない。一年前の企業見学でだって何も起こらなかった。春樹はベージュの扉の前で立ち止まった。
「まずはここかな?」
扉にはボイラー室という小さなプレートがかかっていた。高層ビルの各フロアにお湯を送るための巨大ボイラーが中にあって、とても興奮したのを覚えている。
春樹はドアノブに手をかけた。予想していたことではあるけれど、鍵がかかっていた。春樹は、扉のとなりにあった解錠用カードリーダーに自分の入館証をかざしたいという欲求にかられた。万が一にもそれで鍵が開けば御の字だろう……
「イヤだめだ……」
春樹は首を振った。
鍵が開こうが開くまいが、入館証をスキャンさせたら記録に残ってしまう。それはつまり春樹がこの場所に来たという証拠を残すことだったし、もっと正確に言えば、企業見学をサボって新宿の街で遊んでいるはずのヤガン晴夫に、ここで不法侵入を試みた濡れ衣を着せることでもあった。さすがにそこまでの危険を冒す気にはなれなかった。
春樹はまたぞろ歩き出した。けれど受水槽や消火水槽の部屋にも鍵がかかっていた。というよりも、ほとんどの部屋にかかっている。鍵がかかっていないのは、ゴミの集積所や、掃除用具の物置や、消耗品を保管する備品倉庫に限られた。ゴミ袋の山やモップを見学したところで得るものは何もなかった。
「あれ……?」
春樹が備品倉庫から出ると、廊下はいつのまにか暗くなっていた。
「だれかがスイッチを切ったのかな?」
避難経路を示す緑の非常灯以外、すべての灯りが消えていた。正直なところ暗い廊下を歩くのはおっかなかったけれど、近くに誰もいない証拠でもあるので春樹はさらに奥へと進んだ。最後に、電気室の前までやってきた。
電気室は、発電所から届いた高電圧の電気を、電化製品も使える低電圧の状態に変換するすごい施設だ。ここも一年前に見学をした。重要な部屋だし、ぜったいに鍵がかかっているだろうと春樹は確信していた。
ドアノブに手をかけようとした途端、春樹は固まった。とつじょ悪寒がして、それ以上動けなくなったのだ。どうしてそうなったのかわからないけど、とにかくそうなった。
手が震え、そこから汗がしみ出ている。薄らいでいた吐き気もぶり返していた。理屈ではとうてい説明できない「イヤな予感」というものがした。もっと言えば、この扉の向こうに春樹が決して見たくない「何か」があるような気がした……
扉を開けたくなかった。