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{ 9: ユウナ博士(2) }

{ 第1話 , 前回: 第8話 }

しばらくは自由時間だった。博士は、発電施設しせつの中なら自由に歩いていいと言った。でも見るべきものは自然融合しぜんゆうごうだけだったので、春樹たちは一番手前ののまわりをうろちょろするだけだったが……

「どうだ、春樹?」
 二人きりになると秋人が言った。
「悪夢の原因は見つけられそうか?」

「いや……」
 春樹は首をふった。
「見つけるもなにも、それ以前に大きな問題があるよ」

「なんだ?」

ぼくが一年前に見学したのは、バックヤードの電気室とボイラー室だ。ここに来たことはない。勉強になるけど、悪夢の解決にはならないよ。なにか手を打ってあるのか?」

「いや……そいつはとんだ盲点もうてんだった」

「まったく!」

「どうするつもりだ? なにか考えがあるんだろ」

「ここをしてバックヤードに行ってみるつもりだ」

大丈夫だいじょうぶか?」

「作業用のツナギを持ってきたんだ」
 春樹は自分のカバンをはたきながら言った。
「ビル設備点検科の授業で支給されたやつだ。ツナギを着ていれば、ビルのバックヤードをうろついてもあやしまれないだろう。秋人の言ったとおり、堂々としていれば案外バレないはずだ」

「点検業者のフリしていくわけだな。だとしてもバックヤードの中には入れるのか? かぎがかかってたらどうする?」

「その時はあきらめて引き返すよ。どっちにしても三十分でもどってくるつもりだ。ぼくが消えてあやしまれたら、秋人、おまえが博士をごまかすんだぞ?」

「わかってるさ」

「じゃぁスキを見てここをすよ」

しかしスキを見ているヒマなんてなかった。そのとき博士の声が遠くから聞こえた。

「秋人くん! お父さんがやってきたよ! 偶然ぐうぜんにもこのフロアに来ていたんだ」

「はい?」

春樹と秋人は同時にふり返った。遠くに人影ひとかげがふたつ見えた。

「まずい!」
 眼鏡をかけている春樹の視力ではよくわからなかったけど、秋人ははっきりと見えたようだ。
「オヤジのやつがマジで来てる。春樹、かくれろ!」

言われるまでもなかった。春樹は急いで自然融合しぜんゆうごうまわんで、物陰ものかげにかくれた。

「秋人!」
 まもなくして春樹たちの養父、シャン忠夫の野太い声がした。

「と、父さん!」
 秋人の返事もきこえた。
「いったいどうしてここに!」

「どうしてもなにも、ここは私の職場だぞ?」
 父さんの困惑こんわくした声が続いた。

「あぁ、そうだったね……」

「おとなくしく見学しているか? ユウナ博士の迷惑めいわくになっていないだろうな?」

「もちろんさ」
 秋人の代わりにユウナ博士が答えた。
「都立中央高等学校の生徒は行儀ぎょうぎがいいし、みんな好奇こうき旺盛おうせいだ。みどころがあるよ」

春樹たちの父、シャン忠夫はひげをはやした大柄おおがらな男だった。仕事でめいいっぱいのせいか、目のくまやシワが顔に染み付いていて、四十代半ばですでにんでいる。朝、春樹たちが起きるまえにカンパニーに出かけ、夜はまるか、帰ってきてもかなりおそい時刻になるので、家で会わない日々が一ヶ月くらい続くこともあり、そんな時にばったり出くわすと、一ヶ月のあいだに父が五さいくらいとしをとったんじゃないかとビックリしてしまうことも度々だった。実年齢ねんれいより十さいも若くみえるシャン博士のほうが上司だという事実は、なんともちぐはぐな印象を春樹にあたえた。

「ユウナ博士……」
 父さんが言った。
「私を呼んだのは、会わせたい者がいるからではなかったか?」

「おっとそうだった」
 ユウナ博士が手をたたいた。
「おもしろい生徒がいてね。かれをシャン博士にも紹介しょうかいしたいのだが……あれ? 晴夫君はさっきまでここにいなかったかい?」

「晴夫はトイレです」
 秋人はすかさず言った。

「なんと……はやく帰ってきてくれればいいのだけど」
 博士は言った。

「たいへん申し訳にくいのですが、かれ切迫せっぱくした様子からすると、どうも緊急きんきゅう事態だったようで……もう少し具体的に言えば……」

「あぁ待った、待った。事情はだいたいわかるから」
 ユウナ博士が秋人をし留めた。
「困ったな。おいそがしいシャン博士を待たせるわけにもいかないし……」

「父さん!」
 秋人は言った。
「晴夫は親友なんだ。こんど父さんがいるときに家に連れてくるよ。かまわないだろう? それよりも、あっちののほうに来てほしいんだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

「あっちの? 自然融合しぜんゆうごうならおなじものが眼の前にあるだろう」

「あっちじゃないとダメなんだ。いいから来てくれ。さぁユウナ博士もごいっしょに!」

秋人がふたりを強引にフロアのおくの方まで連れて行った。三人の声がすっかり聞こえなくなったころを見計らい、春樹は走って発電施設しせつを出た。

トイレで訓練用のツナギに着替きがえ、あせをかいたせいでぐっしょりになったシャツをカバンにしまうと、春樹は、けの上のわた廊下ろうかを歩いて東とうから西とうへと移動した。それから五十二階、つまりレセプション・デスクのあるロビーのすぐ上のフロアへと降りた。西とう廊下ろうかすすむと、とても地味な金属製のとびらを見つけた。普段ふだんはだれの目にも止まらず、みなそのまま前を通り過ぎてしまうあのとびらだ。

「あった、ここだ……」

まわりに人がいないことを確かめてから春樹はとびらをあけた。ビニル樹脂じゅし系の安っぽいゆか材でできた廊下ろうかびていた。春樹でなければ正体もわからないパイプと制御せいぎょ端末たんまつとがかべ天井てんじょうにあった。

ここはビルのバックヤード……カーペットのまったゆか、ガラス張りのかべ、機能にも装飾そうしょくにもこだわったオフィスデスク、かべにかけられた有名画家の油彩ゆさい画、大はちに植えられた観葉植物、社員なら全品無料のコーヒースタンド……そんなはなやかな舞台ぶたい装置とは、一切かっさい無縁むえんの場所である。

「ちょうど一年ぶりか……うん、いいにおいだ」
 勝手知ったる我が家にもどってきたような気がした。
 春樹は、こういう場所にくるのがたまらなく好きだった。
「たしか、この先にボイラー室があったはずだ」

春樹があの悪夢を……「前世の夢」を見るようになった原因がここにあるのでは、というのが秋人の説だった。春樹は信じていなかったのだけど、カンパニータワーに来てからというもの、その考えは少しだけ改まっていた。

さっきから気分が悪いのだ。秋人には気取られないようにしていたけれど、荷物検査を終えた時からずっとそうだった。背中も額もあせをかきっぱなしだし、さえする。まるであの夢から覚めた直後のようだった。こんなこと今まで一度もなかったのに……

これは緊張きんちょうからくる一時的な体調不良にすぎないのか? それともあの悪夢と何か関係あるのだろうか? あるとは思えないけど、だからといって無関係と切り捨てる気にもなれなかった。

「とにかく行こう……」
 春樹は廊下ろうかおくへと進んだ。

しばらくバックヤードを歩いてもだれともすれちがわなかった。ビル設備管理の作業員どころか、この時間は清掃せいそう員すらいないようだ。

静かだった。特別なことは起こらないし、これからも起りそうにない。一年前の企業きぎょう見学でだって何も起こらなかった。春樹はベージュのとびらの前で立ち止まった。

「まずはここかな?」

とびらにはボイラー室という小さなプレートがかかっていた。高層ビルの各フロアにお湯を送るための巨大きょだいボイラーが中にあって、とても興奮したのを覚えている。

春樹はドアノブに手をかけた。予想していたことではあるけれど、かぎがかかっていた。春樹は、とびらのとなりにあった解錠かいじょう用カードリーダーに自分の入館証をかざしたいという欲求にかられた。万が一にもそれでかぎが開けばおんだろう……

「イヤだめだ……」
 春樹は首をった。

かぎが開こうが開くまいが、入館証をスキャンさせたら記録に残ってしまう。それはつまり春樹がこの場所に来たという証拠しょうこを残すことだったし、もっと正確に言えば、企業きぎょう見学をサボって新宿の街で遊んでいるはずのヤガン晴夫に、ここで不法侵入しんにゅうを試みたぎぬを着せることでもあった。さすがにそこまでの危険をおかす気にはなれなかった。

春樹はまたぞろ歩き出した。けれど受水槽じゅすいそうや消火水槽すいそうの部屋にもかぎがかかっていた。というよりも、ほとんどの部屋にかかっている。かぎがかかっていないのは、ゴミの集積所や、掃除そうじ用具の物置や、消耗しょうもう品を保管する備品倉庫に限られた。ゴミぶくろの山やモップを見学したところで得るものは何もなかった。

「あれ……?」

春樹が備品倉庫から出ると、廊下ろうかはいつのまにか暗くなっていた。

「だれかがスイッチを切ったのかな?」

避難ひなん経路を示す緑の非常灯以外、すべての灯りが消えていた。正直なところ暗い廊下ろうかを歩くのはおっかなかったけれど、近くにだれもいない証拠しょうこでもあるので春樹はさらにおくへと進んだ。最後に、電気室の前までやってきた。

電気室は、発電所から届いた高電圧の電気を、電化製品も使える低電圧の状態に変換へんかんするすごい施設しせつだ。ここも一年前に見学をした。重要な部屋だし、ぜったいにかぎがかかっているだろうと春樹は確信していた。

ドアノブに手をかけようとした途端とたん、春樹は固まった。とつじょ悪寒がして、それ以上動けなくなったのだ。どうしてそうなったのかわからないけど、とにかくそうなった。

手がふるえ、そこからあせがしみ出ている。うすらいでいたもぶり返していた。理屈りくつではとうてい説明できない「イヤな予感」というものがした。もっと言えば、このとびらの向こうに春樹が決して見たくない「何か」があるような気がした……

とびらを開けたくなかった。


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