{ 1: 前世にて }
悲惨な夢を見ることにかけてはシャン春樹の右にでる者はいない。しかも毎夜それを見るとなると、もはや呪いの域だった。
春樹は夢の内容をだれにも話したくない。起きているときは、せめて夢のことを忘れたいからだ。それはあまりにも悲しくて、痛い夢だった。そして、過去に実際に起こったことだった。過去も過去、なんの根拠もないけれど、きっと千年くらい昔の出来事だろう。春樹はこれを「前世の夢」と呼んでいた。
◇
その夜も春樹は夢を見た。
乾いた材木と動物の油で満たされた大穴があった。春樹はその前でひざまずいていた。いや、正確には縄でしばられ、ひざまずかされていた。口に布を押し込められ、叫ぶこともできない状態で……
縄や布なんてものに意味はなかった。走るどころか、叫ぶ余裕すらないのにわざわざ口と体を縛ってくれる必要はない。春樹をとりまき「殺せ」と叫んでいる村人たちの熱気はすでに火の壁のようだし、腐った動物油が鼻をついて吐き出しそうだった。恐怖に負けまいと、縄にめり込むほど歯をくいしばったものの、これから起こることを想像すると、体が震えて崩れ落ちそうになる。
春樹はすがる思いでとなりを見た。おなじように口と体をしばられ、ひざまずいている者が三人いた。父と母と弟だ。まわりの村人たちと同じようにボロの布を着て、泥の水で飢えをしのいできた父と母と弟だ。
父の顔はわからなかった。母の顔も、弟の顔も。三人の目は布で覆われていた。
春樹だけが目隠しをしていなかった。たぶん途中で布が尽きたのだろう。それか、春樹を縛った者がボロ布すら惜しんだのだ。目隠しされて処刑の準備に怯えるのと、そのすべてを見届けるのとでは、果たしてどちらがマシだったか?
父も母も何やら大声を出していたが、猿ぐつわのせいで何を言っているのかわからない。理解する気も起きなかった。弟はただ泣きじゃくっていた。これから死ぬ家族の声なんて聞きたくない、せめて耳を塞いでほしいと春樹は思った。
老人が大きな松明を持ってやってきた。燃え盛る松明はなぜか血のような色であり、春樹はその火を食い入るように見つめた。老人は春樹と目があったが、気にもとめずに松明を穴に投げ入れた。
やめてくれと思いながらも、春樹は燃えだした穴を見た。それ以外に見るものがなかったからだ。隣を……弟の顔を見てはいられなかった。
やがて穴が燃え盛ると、顔の周りが熱くなった。恐怖でにじみ出た油のような汗とちがい、ずっと水っぽい汗が体中から吹きだした。それは、穴を囲んでいる村人たちも同じだった。牛のクソと土にまみれて暮らす農民たちの垢、それと顔にできた吹き出モノの脂が汗と一緒に蒸発し、あたりは匂いでむせ返った。みな腐りはじめたような酸っぱい体臭だった。でも村人たちはそんなこと気にもせず、興奮の面持ちでことが起こるのを待った。中には歌いだしそうなほど笑っている女もいた。
「もういいだろう」
さきほどの老人が言った。
「火は十分に燃えている」
もっともだと春樹は思った。これだけ威勢よく燃えていれば、楽に死ぬことができるかもしれない。どうせなら楽にいけるほうがいいだろう。なんの慰めにもならないのに、火の勢いしか春樹がすがれるモノはなかった。いっそのこと、自分から穴に飛び降りてしまおうか……
そう思った矢先、村人のひとりが父の背中をけとばした。穀物を詰めた麻袋のように父は穴の中に落ちた。父に火がついた。つづいて母、弟が落とされた。その様子を他人事のように春樹は見ていた。村人は、最後に春樹をけとばした。
春樹も麻袋のように落ちていった。頭から落とされたせいで顔が地面につっかえたが、それでも体の重みでズルズルとすべっていった。首の骨がきしみ、砂利が目に入り、小石がくちびるを割いても勢いは止まらなかった。痛くて痛くてたまらなかった。でも、そんな痛みすらどうでもよくなるような激痛がすぐに春樹を襲う。
火だ。火とはこんなにも痛いものだったのか。あっというまに春樹の体に燃え移った。激痛が皮膚を裂き、骨にまで達した。焦げつく四肢と髪の臭いで鼻がえぐれそうだった。こんなときにまで臭いを感じることが信じられなかった。だがそれも間もなく終わる。熱気が鼻から入りこみ、体の中も燃えたからだ。火は家族の体を燃料にして、さらに激しく僕を燃やした。熱で爪がえぐれ、眼球は沸騰し、神経にまで引火した。すぐに死ねるなんて甘い考えだった。
春樹は叫んだ。万力をこめて燃える縄を引きちぎった。急いで口の紐をほどき、中の布を吐き出して春樹は穴の壁にしがみついた。そして動物のように手と足を回しながら穴を這いあがった。父と母、弟のためにふり返っている余裕はなかった。
「助けてくれ!」
穴のふちで春樹は叫んだ。
「おっかねぇ」
春樹の目の前に立っていた男が言った。
「燃えてるってのに喋ってやがる。やっぱアカメはバケモンじゃ」
村人の真っ黒な足が何本ものびてきた。村人たちは春樹を蹴落とそうと、競い合うように足を伸ばした。春樹はその足にすがりつこうとしたものの、手は空を切った。真正面の男の足が、春樹の鼻の柱を折った。春樹は、もはや動かない母の上に落ちた。
「ちがう、俺はバケモンなんかじゃねぇ」
春樹はなおもわめき、火の中で立ち上がった。
村人たちは固唾をのみ春樹を見つめた。皮膚が焼けただれ、髪の毛すらなくなったこの少年がまた登ってくるのかと、みな一歩しりぞいた。中にはヒッと悲鳴を漏らす者もいた。
春樹はそれ以上動くことなく、その場で崩れ落ちた。死ねる、死ねる……これでやっと死ねる。体はもう動かず、考えることもおぼつかなかった。その方がずっと心地よいと思った。だが春樹は生き残った。痛みも消えなかった。
◇