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{ 30: 路地(2) }
気絶した回数などもう数えたくない。そう思って自分をふるいたたせたものの、果たして気力はあとどれくらい保つだろうか……
信じられない……通りは、赤であふれている。赤、赤、赤……無数の赤い目が、道を歩いていたのだ。おちつけ、目が歩くものか。赤い目をした人間のような何かが……目が赤いことを除けば、人間とまったく同じように見える何かが、街を行き交っているのだ。
赤い目の女が、急ぎ足で道を横切っていた。それとすれ違った赤い目の男が、食堂の前で立ち止まり、そこで朝餉を済ませるべきか悩み始めた。その食堂には、赤い目の女店主が卵を山積みにした厨房にいて、赤い目の客と大声でおしゃべりしていた。食堂の軒先では、赤い目の老人が椅子に座って通りを眺めていた。そのとなりで赤い目の中年男が屋台を引き、まんじゅうを蒸して大量の湯気を上げていた。赤い目をした若い二人組が、通りの段差に腰掛けて、そのまんじゅうを食べていた。赤い目をした無数の人が、ゴミ箱にゴミを捨て、ゴミ箱はゴミで溢れかえって路上にこぼれ落ちていた。
人間の街とまったく同じ営みが、このうす暗い通りで繰り広げられていた。みんなそれぞれ目的があり、それぞれ向かうべき場所に向かって歩いている……そんな営みだ。赤い目であること、辺りがやけに暗いことを除けば、なにもかもが春樹の知っている世界だった。
春樹は、めまいをおぼえた。よっぽど誰かに助けを求めたかったけど、めまいの元凶が行き交う雑踏なのだからどうしようもなかった。それにどういうわけか、みんな春樹を避けて歩いているような気がした。
だれも僕を見ようとしない。ふいに春樹をを見る者も中にはいたけれど、すぐに目をそらすか、伏せるかのどちらかだった。そして、足早にその場を去っていく。
僕が小汚い格好をしているせいか? それとも、僕の黒い目こそ、彼らにとって異常なものに見えるのか? 春樹は、フードをさらに目深にかぶった。
吐きそうだ。吐き出すものなんてもうないというのに。
春樹は、フラフラする足取りで、先ほど目覚めたゴミだらけの裏通りに戻った。それから、身を隠すようにゴミ箱の影に入り、膝を抱えながらうずくまった。こんなところ二度と戻ってくるものか……そう思っていたはずなのに、ここ以外に逃げ場所を知らないのだ。
◇
それから丸一日経った。どうしても通りに出られず、春樹はずっとゴミの中で横たわっていた。家に帰りたいなら、ここから逃げ出すべきだとわかっていたのに、できなかった。
自分でもバカだとは思うけど、怖くてしかたないのだ。赤い目を見ると思い出す。炎のような赤髪の大男が、秋人の首を折るあの光景を。その仮面の奥には、血のような真っ赤な瞳をたたえていた。それは、夢の中で惨殺された家族の顔に残っていた瞳とまったく同じ色だった。
恐ろしいと同時に憎かった。秋人のことを思えば、赤い目の連中をみな血祭りにあげたところで、気は済まない。通りを歩いている連中は、きっと動物面の仲間にちがいないからだ。しかしどんなに憎んだところで、春樹に立ち向かう勇気はなかった。奴らの赤い目も血も、なにもかもが怖くてしかたないのだ。だから、通りに出ることすらできなくて……
思考が堂々巡りをしているうちに、いつのまにか立ち上がる力が消えていた。あの火葬部屋で、貧相な取っくみ合いを演じた時点で春樹の体力は尽きていたようだ。いまさらながらそのことを痛感した。痛感した時点ですでに手遅れだということも、加えて痛感しなければならなかった。
胃壁がこすれるほどハラが減り、未だかつてないほどの倦怠感に襲われた。それでも春樹は、しぶとく命をつなぎとめていた。これまでためにためた腹回りの肉を体が食いつぶして、エネルギーとして消化しているのがよくわかる。水だって、どこからともなく滴りおちてきたものが、すぐそばの地面のくぼみに溜まっていて、こんな汚い水は決して飲むまいとしていたにもかかわらず、気がつけば、春樹の顔がその水たまりのすぐそばに横たわっていることもあった。
さらに一日が経った。もはや指先一本、動かす気力もなかった。このままでは僕は死ぬ。でも、死がこんなにも安らかなら、むしろ早々にケリをつけたい気分だった。これまで受けた仕打ちを思えば、なおのことだ。それでも「その時」は、まだ訪れなかった。
夢もみなかった(いま、あんなものをみたらそれこそショック死するだろう)。おかげで、ただ眠ることが、何にも変え難く心地よいことを思い出した。
さらに一日が経った。往来の者たちは、春樹の存在に気づいていたようだが、誰ひとり手を差し伸べるものはいなかった。それでよかった。赤い目なんて、もう金輪際見たくないのだから。
いよいよ「その時」が来たようだ。体の中の何かが、空気のように抜けていくのを春樹は感じ取った。それは、疲労のようであり、空腹のようであり、痛みや恐怖でもあった。それらが一斉に体から抜けていき、ただ一つ残ったのは、ようやく死ねるという安堵だけだった。
安堵……ほんとうにそうか? このまま死ぬのは本当に怖くないのか?
「やめろ。考えるな。僕はもう楽になりたいんだ……」
考えるなと思うほど、考えてしまう。ほんとうに、それでいいのか、と。なにも思い残したことはないのか、と。
「やめろ……」
あるはずだ。望めば、手に入らないことに絶望する。それがいやだから、考えないようにしているのだろう? さぁ、望みを言ってごらん。
「秋人……」
春樹は言った。
「父さん……鈴子さん……」
もう一度、家族と会いたかった。
「いやだ、死にたくない……秋人……助けて……」
「お、やっぱりだ。ただの子どもじゃないか。しかも人間だ。どうして火葬屋の服なんか着ているんだ?」
誰かが、春樹の顔をのぞき込んだ。
「しっかりしろ」
声の主が、もはやピクリとも動かぬ春樹の肩に手を置いた。
「いま助けてやるからな」
春樹と同じくらいの背格好の少年だった。その目はやっぱり赤色だった。