{ 19: 君の血は(2) }
「ちゅ、注射?」
春樹は、ほとんど悲鳴に近い声をあげた。
「ほんとうに君は冴えている」
ユウナ博士は、手の中の道具を春樹に差し出して見せた。
鉛筆のように細長く、しかし鉛筆よりも鋭いあの忌まわしい道具を。
「たしかにそのとおり、注射だ。でも、こいつは採血用の注射器なんだよ。今から春樹君の血を少しだけもらいたい。ハリ隊員、君が採血するんだ」
博士は、のっぽの隊員を見やり、彼に注射器を差し出した。
「なんでですか!」
ハリと呼ばれた隊員も全く同じ質問をしようとしたけど、先に春樹が抗議の声をあげた。
「安心してほしい。ハリは、カンパニーの治安隊であると同時に、医師免許も持っている。君の体に針を通したところで、法に抵触するおそれはない」
春樹は法律なんて心配しちゃいなかったし、免許がなければ他人に注射しちゃいけないことすら知らなかった。そういうことでなく、いったいなんで、今それをやらなきゃならないんだ、というのが春樹の主張だった。春樹はこの世のなによりも注射を恐れていた。なぜなら、あんな尖ったモノを体に刺そうものなら、真っ赤な血が出てくるからだ。赤、これより恐ろしい色はない!
「大丈夫だ。ほんのちょっとだけだから。病人相手に大量の血を引っこ抜くわけないだろう?」
博士は、恐怖でひきつっている春樹をなだめながら言った。
量なんて問題じゃなかった。もし僕の血が青色であるならば、いくらでも持っていってかまわない。でも、赤だけはだめなのだ。
「必要なことなんだ、春樹君。ちょっとチクッとするかもしれなけど、我慢してほしい。君は強い子だろ? 命懸けで友人たちを救ったときの勇気をここでも見せておくれ」
春樹は断固拒否したけれど、博士が再三の説得を試みた末、結局、観念することとなった。注射器を片手にベッドのそばによってきたハリ隊員におとなしく左腕を差し出した。もちろん、目を閉じながら。
チクリとした。でも、その痛みはすぐに止んだ。博士が十回以上主張したとおり、ほんのちょっぴり血を抜いただけなのだ。
しばらくして目を開けたら、ガーゼで僕の左腕を抑えているハリ隊員が見えた。針を刺した場所に手際よく包帯を巻いて、止血してくれた。おかげで、僕は自分の腕からあふれる血を見ずに済んだ。
ただし、博士の手元に渡った注射器の中は見ざるを得なかった。春樹は今になって、大量の汗が出始めた。
「やはりただの血だ。赤く……サラサラして………至って健康的」
注射器の中で血を揺らしながら、まるでワインの色を確かめるかのように、博士はそれを眺めていた。まさかソムリエのマネをするために、僕から血を抜いたのだろうか? おそろしいことに、本当にその可能性があると春樹は思った。なにしろ博士は、一通り僕の血を鑑賞したあと、急にそれに興味をなくて、注射器をそばのデスクに置いた。
「採血してわかったと思うが、君の血は、やはり人間の血でしかない」
博士は言った。
「普通の血、一般的な血だ。君が人間である揺るぎない証拠でもある……さて、最後の実験に移ろう」
「実験?」
不穏な響きに春樹は不安の声をこぼした。
「春樹君、お疲れのところ申しわけないが、ここに座ってほしい」
博士は、椅子から立ち上がって、それまで座っていた場所を指でさした。
「バドワ隊員、君は彼の体をうしろから抑えるんだ。春樹君が動かないようにね……ハリ隊員は、血が吹き出るまで春樹君の顔を殴り続けろ」
時間が止まった。この場にいる誰もが……ユウナ博士を除く誰もが、状況を理解できずに固まった。
「なにをしているんだ? さっさと、言われたとおりにしろ」
博士は言った。
「わけがわかりません!」
春樹の気持ちを代弁してくれたのか、あるいは心からそう思っているのか、ハリ隊員が言った。
「非常識なのは理解している」
ユウナ博士は言った。
「でも必要なことなんだ。春樹君、協力してくれるね?」
本当にわけがわからなかった。博士が病室に現れて以来、理解しがたい話の連続だったけど、今が一番わけがわからない。
「秋人君の仇を討ちたいんだろう? これは、君の力を理解するために必要な実験なんだ。信じてほしい」
それからどれくらい時間が経ったのかはわからないけど、気がつけば春樹たちは、博士に言われるがままの状態になっていた。つまり、先ほどまで博士が使っていた椅子に春樹が座り、バドワ隊員がその肩を抑え、目の前に長身のハリ隊員が立っていた。春樹の腕に包帯を優しく巻いてくれていた時とはうって変わって、ハリは青ざめていた。
「ほ、本当にやるのですか?」
二人の隊員が同時にたずねた。
「やれ」
壁にもたれかかりならが、ユウナ博士はうんざりした調子で言った。
春樹は、体を震わせながら椅子に座っていた。目は泳ぎ、メガネをはずしたせいもあって、焦点が定まらなかった。壁にかかっている庭園の絵画から照明器具へと、交互に視線を移す作業に集中することで、できる限り何も考えないよう努めた。
「すまない……」
ハリが言った。彼は拳を握っていた。
つぎの瞬間、激痛が走った。もともと鼻の骨が折れていたのだから痛いなんてもんじゃない。春樹は悲鳴をあげた。
「おい、血が出てないぞ!」
ユウナ博士が言った。
ハリは、もう一度顔を殴った。もちろん、手加減はしてくれたのだろう。でも、それが春樹にとってアダとなった。二回殴っただけでは、血は吹き出なかった。バドワが、さらに強い力で春樹の両肩を握った。
「やめて!」
春樹は叫んだ。
もう一度、拳が飛んできた。三回目にして、春樹の鼻から、勢いよく血が吹き出した。
「よし!」
博士が手を叩いた。
「クソ! まじで血が吹き出た!」
ハリが春樹の肩をささえて言った。
「すぐ止血するぞ! バドワ、担当医を呼べ!」
「だめだ!」
博士が怒鳴った。
「絶対に止血するな。医者もあとだ」
「なにを言ってるんですか?」
ハリが驚いて言った。
「見てみろ!」
博士が、春樹の足元を指で刺した。
な……何を見ろって? 床? 絨毯? そこにいったい何があるっていうんだ? 半分も開けられなくなった目で春樹は足元を見下ろした。見下ろしたと言っても、とうてい顔をあげられる状態じゃないので、下を見ている方が楽だっただけだ。視界もおぼろげで、痛いとしか言いようがない。顔の表面が砕け、骨のその亀裂にマグマのような熱を帯びた液体が注がれたかのようだ。ユウナ博士は、急におかしくなってしまった。部下に僕をなぐれと命令した挙げ句、子供のようにはしゃいで、僕の足元を指さしている。絨毯の上には、折れた鼻から吹き出た血が垂れているだけだというのに。血がなんだっていうんだ……
ハリとバドワは驚きの表情でそれを見た。
「ウソだろ……」
と、ハリがこぼした。
なにをそんなに驚いているのか、春樹にはわからなかった。何をどう見たところで、臙脂色の高級絨毯を自分の血が汚しているだけだ。そう、光輝く真っ赤な血が……
「拾ってみたまえ」
博士が言った。
拾う? なにを? 僕の血のことか? 狂ってる……
けれど、ハリは言われるがままにそれを絨毯からつまみあげた。そう、つまんだのだ……僕の血を。それから手の平に乗せて、僕の目の前に差し出した。手の上にあるのは、血の色をした固形物だった。それは、尖った宝石のように見えた。
「とある条件下で君の血はこのように結晶化する。イッショウは、返り血を浴びたことで結晶を体内にとりこんでしまったのさ」
博士は、春樹の前にひざまずいて話を続けた。
「これと同じものが、ロビーに落ちていたんだ。最初は宝石かと思ったけど、あの場でそんなものが散乱しているのは不自然だし、ルビーにもサファイヤにも見えなかった。よくよく観察すれば、石ですらない。血が結晶化しているようだって思ったよ。血が結晶化することなんて、まずないのにね。体が自然発火するのと同じくらい不思議なことだ」
「疑問に思った僕は、いろいろ調べてみた」
博士は続けた。
「実験をしたという意味だ。その結果、とんでもない現象を発見するに至った。君の血の結晶を、ヤツらの血と混ぜると熱を帯びたんだ。わかるかな? バケモノ同士の血液を混ぜると発火するのと同じように、君の血のかけらを混ぜても火がついたんだ。君の血は、ヤツらを殺せる武器になるということだ。そして、これが何よりも重要なことなんだけど……『ア型血液』、『ウン型血液』、いずれの持ち主であっても、君の血はかまわずそいつを殺すことができる!」
「そんな、まさか!」
ハリが声をあげた。
「本当なのですか、博士? もしそれが本当なら……」
「とんでもない発見だ」
博士は言った。
「ただし、まだ大きな疑問が残っていた……どうすれば君の血を結晶化させられるか、という疑問だ。その方法がまったくわからなかった。なにしろ、君を治療しているときも、検査しているときも、血は血のまま流れ続けた。血を採取して、しばらく待っても結晶化しなかった。もちろん時間が経てば、黒く変色し、カピカピに干からびるけど、それはどの生物にも当てはまる一般的な血の性質にすぎない。煮ても焼いても血はこんなふうに結晶化しないんだ。結晶化は、特殊な条件下でのみ起こる現象だと僕は結論づけた。だから今ここで、あのとき起きたことを再現しなくちゃならなかった。君には気の毒なことをした。でも、そのおかげで僕の仮説が正しかったと証明された」
ユウナ博士は、いまや春樹の両肩をわしづかみにしていた。ひざまずいたまま、椅子に座っている春樹の顔を覗き込んでいる。ランランに輝きながら見開く目が、春樹の眼前にあった。
「おっと、意識を失う前にすべて聞き届けるんだ。がんばって理解するんだよ?」
博士が体を乱暴にゆするものだから、春樹は痛みでうめいた。博士はかまわず続けた。
「もう想像がつくと思うが、君の血は、痛みを感じている時に結晶化するんだ。それも、敵によって与えられる痛みに限られる。治療のときも、採血のときも結晶化しないのはそのためだ」
「結晶化の条件がわかってよかった……これでみんな救われるんだ!」
博士は興奮し切っていた。
「不死身のバケモノに対抗できる唯一の手段は、『注射刀』だ。だがこの武器には決定的な弱点がふたつもある。ひとつは、原料がバケモノの血であることだ。不死身の敵を倒す武器のために、まず不死身の敵を倒さなくちゃならにという矛盾のせいで、注射刀は大量生産することも、安定供給することもできないんだ。もう一つの弱点は、『ハズレ』を引く可能性があることだ。注射刀は、異なる血液型の敵にしか効力を発揮しない。テロリストと戦う隊員たちは、つねに、命懸けの二択ジャンケンをしながら戦っているということだ。ハズレをひいたせいで、ヤツに首根っこを掴まれた君なら、それがどれほど恐ろしいことか理解できるよね? この注射刀の弱点が、貴重な隊員たちの生存率を著しく下げているんだ」
「しかし!」
博士は、もはや意識朦朧の春樹にはとうてい聞き取れないほど、早口でまくしたてていた。
「我々の前についに救世主があらわれた! 春樹君! 君だ! 君の血があれば、注射刀の弱点をふたつとも克服できる! わかるよね? 君の血があれば、ヤツらを確実に殺すことができるんだ。だから我々に協力してほしい。辛いかもしれないが、我慢してほしい! 秋人君のためにも!」
協力という名目のもと、体を縛られ、殴られる自分の姿が頭をよぎった。殴られ続けるだなんてイヤだ。心からそう言いたかった。でも春樹はうなずくしかなかった。この男が心底こわかったのだ。春樹の意識は、そこで途切れた。