{ 29: 路地 }
知らない場所で目を覚ますのは、もううんざりだった。
生まれて始めて気絶した時、目を覚ました場所は、病院のベッドだった。でも病院とは名ばかりで、そこはカンパニービルにある春樹専用の拷問施設だった。それから幾度となく気絶するまで殴られて、「気がつけば、いつものベッドに寝かされていた」をくり返すハメになった。
救急車のような車両の中で目覚めたこともある。このとき春樹は、タンカの上で縛られていて、食肉加工品の工場へと出荷中の原材料のような扱いだった。事実、春樹は兵器工場で血を絞り出すべく輸送されているところだった。
狐面のテロリスト・スイレイの襲撃を受けたのは、その輸送のさなかだった。スイレイの手により、春樹を警護していた治安隊の人たちは、ハリ拷問官共々、全滅した。そして、彼女に連れ去られた春樹が次に目覚めた場所は、なんと棺桶の中だった。そのとき運良く目覚めなければ、いまごろ棺桶ごと焼き尽くされていただろう。
どれも負けず劣らずイヤな思い出だった。けれど、ベッドもタンカも、少なくとも人が眠るための場所だった。棺桶さえもそうだ。でも今日ばかりは違った。醜悪さという点では、今回の場所はピカイチだろう。
臭かった。この匂いをなにかに例える必要はない。生ゴミの臭いだ。春樹は、路上のゴミだまりの上で目を覚ました。
◇
ひどい寝床ではあったものの、意外と心地よく目覚めることができた。りんごの皮のような何かの切れ端が鼻の頭に乗っかり、まぶたの上を小バエが這っていたというのに、頭の中は晴れ渡ったようにスッキリしている。いったいどういうことだろう?
「夢だ……」
春樹はつぶやいた。
「今日は、夢を見なかったんだ」
こんなことは始めてだった。あの夢を見るようになって以来、毎晩、滝のような汗をかき、絶叫とともに目を覚ましていた。なのに、今日は違う。夢を見なかった理由はわからないけど(それを言うのなら、夢を見る理由だってわからないのだけど)、ともかく火炙りにならないで済んだのだ。
いつもと何が違ったのだろう? 夢を見ない条件のようなものがあるのか? たとえば寝心地が最悪の場所ならば、悪夢を見ないのかもしれない。もちろん、そんなわけないのだけど、もしこの考えが正しいのなら……あの悪夢をもう見ないで済むのなら……このゴミ捨て場を終生の寝床にしたっていい。
春樹は、気がついたらゴミの上で寝ていたわけだけど、ことの顛末を全く知らないわけではなかった。火葬屋の目に恐怖して気絶したあとも、途切れ途切れながら途中で意識を取り戻していた(火葬屋の指摘したとおり、気絶の理由は、疲労困憊やら、精神的なショックやら、フタコブラクダができるほど頭を打ち付けたことやら、色々あるのだろうけど、やっぱりヤツの赤い目のせいだと春樹は思う)。最初に意識を取り戻したとき、春樹は仰向けの状態で、心地よいなにかの上に横たわっていた。どうやら、気絶したあとに寝台の上へと運ばれたようだ。横を見れば、金色のイヤリング男も同じように隣の寝台で寝かされていた。彼にも意識はあったようだけど、薬の効いているせいか、はたまた寝台に縛り付けられているせいか、体を動かせないでいた。代わりに首だけをこちらに向けて、しきりに何かを語りかけていた……ような気がする。残念なことに、何を言っているのかよく聞き取れなかった。目覚めこそしたものの、気絶する直前と同じく視界に白い靄がかかり、耳にタオルを詰め込んでいるかのように音はくぐもっていたからだ。
「……をたよれ……センセイを……たよるんだ……」
「え……?」
「先生を……たよるん……だ」
誰を頼れって? 何度もそう聞き返そうとしたのだけれど、そんな力も湧いてこないうちに春樹はまた気を失った。
次に気がついた時、火葬屋が春樹の顔をのぞき込んでいた。しわくちゃのバスケットボールのような頭にあの赤い目が二つ浮かんで見えた。いや、本当に二つだけだったのだろうか? このときは八つか九つ、下手をすれば十個以上の赤い目が僕を見ていたような気もする。春樹は恐怖におののき、目を閉じた。
「さぁ、みなさまがた……ていねいに……お運びを……いつもの、ように……亡骸を、運ぶように……」
そんなふうに火葬屋は言っていたような気がする。
次に気がついたとき……もはや幻か白昼夢かもわからず、その曖昧な脳内の映像を意識朦朧のうちに見た現実だと思いこんでいるのかもしれないが……このときは、棺の箱の中に再び閉じ込められ、春樹はそのフタを眺めていた。火葬炉の中にいるわけじゃなかった。誰かが春樹の寝ている箱を持って、運んでいたからだ。神輿を担ぐように、数人がかりで肩に背負って運んでいるようだった。ときどき足元から体が大きく傾いたので、階段を降りていたのだろう。担ぎ手たちは、長いこと階段を降りていた。
やけに長い階段だな、と春樹は思った。それ以上のことはわからない。なんの音も聞こえず、そのうち何もかもがどうでもよくなって、春樹は眠りについた。
そして、ついに目覚めた今このとき、春樹はゴミ溜まりの上に転がっていた。
◇
枕代わりだったゴミ袋から春樹は頭をおこした。割り箸のような何かの棒がお尻の下敷きになった。春樹の知らない虫が、足のそばを這っていた。
まもなくして、自分が街中にいるんだと気づいた。どこからか無数の足音が聞こえ、話し声も聞こえ、換気扇の回る音がした。
泣きたくなるほど懐かしい音で、事実、春樹は嗚咽を漏らした。だってこの「雑踏」というやつは、人の生活する音なのだから。春樹は、人間が人間として生活する場所にやっと戻ってきたのだ。
あたりはうす暗く、そばに人のいる気配はなかった。せまっ苦しい路地裏に春樹は置いてけぼりにされたようだ。陽は差しておらず、今は夜だ。
夜……? ほんとうにそうだろうか?
それにしたって妙に活気がある。もちろん夜の雑踏だって、そりゃ活気づいているのだけど、仕事やら授業やらが終わったあとの陽気さと、時にお酒の混じったあの騒がしさとは様子がちがうのだ。春樹が感じたのは、清々しく軽やかで、今日も今日とて働くために人々が粛々と歩を進める朝の活気だった。
なによりも朝ごはんの匂いがした。米を炊くときの匂い、小麦を焼くときの匂い、肉や野菜を炒めるときの匂い、スープを煮出すときの匂い……それらの匂いに気づいた衝撃で、胃袋が握りこぶしほどの大きさに縮み、消化液の混じったような濃い唾液が舌の平からにじみ出てきた。
思えば、ここ数週間、まともな食事をした記憶がない。最後なんて、チョコレート・クッキーにクリームチーズを挟んで四十枚以上平らげるという愚行をやらかしたのち、土手っ腹を殴られてすべて吐き出した。それより前に食べたものだって、もう何も体内に残っていない。あれから何日も経っているようだ。
「な、なにか食べないと……死んで、しまう……」
春樹は、フラフラの足で立ち上がった。頭がぼんやりして、足取りは異常に重いというのに、体そのものはふわふわと浮いているかのようだった。こんな状態でよく歩けるものだと自分でも思う。食べなきゃ死ぬという恐怖が、体を突き動かしているのだろう。
その時、食事とゴミの匂いを上書きするほどのきつい汗の匂いがした。自分の体臭もあるだろうけど、それだけじゃない。春樹は身に覚えの大きな布をまとっていて、これが強烈な匂いを発しているのだ。
「なんだこのボロボロの服は?」
春樹は、火葬屋のローブを着ていた。
彼が実際に身につけていた服であることは、このすえた匂いからわかった。
「あいつのローブをどうして僕が着ているんだ?」
春樹は、ローブを脱ごうとしたものの、ふいにその手を止めた。本心ではすぐさま捨てたいのだけど、このまま着ていた方が良い気がしたのだ。春樹をここに放置した火葬屋が、餞別の代わりこれを置いていったとしたら、あまりに非常識すぎる。だからこそ何か意味があるのかもしれない。春樹は、ローブのフードをかぶり直して(やっぱり臭い……)先を急いだ。
ローブの下は、作業用のツナギだった。これは、春樹の通っていた専門校から支給された制服だ。すでに記憶は定かでないものの、兵器工場への輸送の最中からこの服装だった気がする。テロリストがカンパニービルを襲撃した時にも着ていた服で、いまや春樹に残された唯一の財産で、輸送する前にハリ拷問官が着せてくれたのだろう。
ありがたいことに、メガネもかけたままだった。ありがたいというより、奇跡に近かった。カンパニー治安隊、動物面のテロリスト、そして火葬屋……ここまで春樹を運搬してきた連中のうち、誰かのせいでメガネを失くしていたとしても不思議じゃないのだから。レンズはホコリだらけで、脂の跡もあり、かなり見えづらい状態だったけど、この際ぜいたくは言うまい……
「ん、これは……?」
最後にもうひとつ、気づいたことがあった。ツナギのポケットに何かが入っていたのだ。まったく見覚えのないカードだった。名刺と思わしき長方形の紙キレで、表面に建物と施設の名前が小さな文字で書いてあった。
「ヒト……ヒラ医院……? って読むのかな? どうしてこんなものが? だめだ、もうこれ以上考えることができない。目まで霞んできた。さっさと何か食べないと……」
春樹は、路地裏から大通りへと出た。そして、再び、気を失いそうになった。赤い目の者たちがいたからだ。それも、無数にだ。