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月面ラジオ { 2: "夢やぶれし月美" }

30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。

前回

次の夜、大学の研究室の帰りに陽子の自宅をたずねた。
都内の高層マンションの十九階だった。
ただのマンションではない。
中二階の吹き抜けの部屋で、月美の住んでいる二階建てアパートの建物とおなじくらいの広さだった。
おどろきだ。

さらにおどろくことに、陽子の住むマンションは地下鉄の改札と直通だった。
屋上には芝生の生えた公園もある。
たかだか食べて寝るだけの場所なのになんて贅沢なんだと、月美はいつも問題視していた。
駅へ行くのに雨に濡れる必要がないだなんて! 

「月美が私を羨んでいるだけでしょ。それに、ホントの金持ちならわざわざ地下鉄には乗らないんじゃない?」
 陽子はあっけらかんと言うのだった。

「なにか飲む? ビールとワインなら色とりどりよ。」
 月美をリビングに案内した陽子がたずねた。

リビング! 
六畳一間に住む月美には縁のない代物だ。

「じつは禁酒してるんだ。」
 月美は答えた。

「そうなの? いつから?」

「四十分くらい前かな。」

「ビールとワイン、どっちがいい?」

「ビール。」

陽子は指でオーケーのジェスチャーをすると、キッチン・カウンターへ入っていった。

「あいかわらず大きな家だな。」

食卓につくと、月美はつぶやいた。

高級住宅の広告をそのまま切りだしたような部屋だった。
地下鉄でたまに見かける広告に描かれたような……せまい都心にひしめく民草が、思わずあこがれてしまう間取り、そして新品の家具の匂いが漂ってきそうな……そんな部屋だ。

キッチン・カウンターはすべて大理石でできていた。
アザラシの肌を磨きぬき、それを固めてつくったようなカウンターだった。
食器棚はマホガニー製で、アルコール専用グラスが並んでいた。
上等な木材があればマホガニーだと月美は思うようにしているので、ほんとのところはよくわからないのだけど。
銀光沢の冷蔵庫だって、カウンターと食器棚との間にテトリスよろしくピッタリ収まっている。
きっとこのキッチンのために幅を調整した特注品にちがいない。

奥行きのあるリビングは、子供とキャッチボールができそうだった。
奥の壁には新品の壁紙スクリーンがはってあった。
壁紙スクリーンには、白黒時代の映画が映しだされていた。
パリだかロンドンだかのカフェテリアでジャケットを着た白人の中年たちが新聞をめくりながらタバコを吸っている。
カフェテリアの向こうに道が伸びていて、今よりもずっと均一だったころの欧州の街並みが続いていた。
無声映画ではないけれど、音声は流れていなかった。
賑やかなのにどこかさびしい映像だった。

陽子は、カウンターに置きっぱなしだった冷凍ピザの空箱を丸めてガベッジ・シューターに捨てた。
陽子は料理をしないので、あれが夕食の名残なんだろう。
ピザのあった場所にグラスを並べると、陽子は東欧のビールをついだ。

「家賃はどっちが払ってるんだ?」
 不躾な質問だけけど、月美は気にしない。

「旦那が一、あたしが三ってところかな。」
 カウンターの向こうから陽子が答えた。

「やっぱり陽子のほうが稼いでるのか?」

「まあね。正直、旦那には仕事をやめてもらって、娘の面倒をみてもらいたいぐらい。」

「その旦那さんはどこにいるんだ?」

月美はあたりを見回した。
頭上の吹き抜けの廊下にも目をやったけれど姿はないようだ。

「品川のオフィスまで出稼ぎにいってる。」
 陽子は答えた。
「今日は遅くなるんだって。」

「三人で暮らすにしては広すぎじゃないか? この部屋はさ。」

「芽衣が独り立ちしたら、もうすこし狭いところに引っこすつもり。逆にあんたのアパートは、ひとりで住むにしたって狭すぎる。」

「あれでけっこう気に入ってるんだ。はじめから古ぼけてると、掃除が必要だと思わないで済む。」

「月美は仏堂や教会に住んだって掃除しないでしょ。わざわざ貧乏なところに住む必要もないんじゃない?」

「貧乏だから住んでるんだよ。ほっといてくれ。」

陽子がトレーにビールグラスを二つ、クラッカーを一盛り、それにガチョウのレバー・ペーストにのせて運んできた。
ペーストを塗る小さなナイフもふたつあった。

「明日はお休みでしょ?」
 陽子はウキウキ声だ。
 陽子も月美に負けずアルコールに目がない。
「今日は泊まっていって。久しぶりにたくさん飲みましょうよ。」

「いいね。ビール大好き。」
 月美はグラスを手にとって掲げると、乾杯と言った。

「それで?」
 机にグラスを置いて月美は言った。
「夢みる少女が見当たらないようだけど? せっかく夢破れた女のお出ましだってのに。」

「なにを言っているの?」
 陽子はクラッカーにペーストをぬる手を止めた。

「芽衣に説教してほしいんじゃないのか?」
 月美は言った。
「ほら……『もっと現実を見ろ』とか、『あたしみたいになるな』とか。そういったことを期待してたんだろ?」

「カン違いしないで。芽衣に会ってほしいって言ったのは、月美にお願いがあるからなの。」

陽子は間を置いてからこう続けた。

「しばらくあの子を預かってほしいの。」

「預かるって……」
 月美はぽかんと口を開けた。
「夜逃げするのか?」

「そんなわけないでしょ。いいから聞いて。私、また海外で働くことになったの。」

「どこ?」

「東南アジアのいろんなとこ。紛争地以外だったらどこだってあたしの職場になる。たぶん二年くらいは向こうかな。」

「そりゃたいへんだ。芽衣と旦那はどうするんだ。」

「ふたりとも東京に残る。でも旦那だって家を空けることがあるからその時は芽衣を見てほしいの。今日はあなたにそれをお願いしたかったわけ。」

なるほど、と月美はうなずいた。

「一人にするのが心配だからこの家に泊まってほしいだけ。ごはんくらい自分で用意させるから。」

「私の分も用意させるなら喜んで引き受けるよ。」

「そう言ってくれると思った。」
 陽子は手を伸ばした。

「よし。商談成立だ。」

ふたりは握手をした。

「こんないい家に泊まれて、しかもタダ飯つきだ。断る理由はないね。あとは、その……」
 月美はグラスを食卓に置くと、物欲しげに陽子を見つめた。
「ゆっくり一服できたらうれしんだけどな。」

「あたしが死ぬほどタバコ嫌いだって知ってるでしょ。」
 とたんに陽子の顔つきが変わった。
「泊まりに来た時も、ここではやめてね……ちょっと! タバコが吸えないくらいで死んだような顔しないで。」

喫煙者にとってニコチンは食事であり、水であり、空気だ。
吸えばやる気がでる。
たばこを吸わない人はどうしてそれがわからないのかと、月美は常々苦心していた。

「なら外で吸う。」

「ベランダもだめ。灰皿だってないんだし。それと先に言っておくけどこのマンションに喫煙所なんてないから。」

「冗談だろ。一服するのにまさか隣街まで行けってか? 呼吸困難で死んじゃうよ。」

とはいえ子どもみたいにごねたってきいてくれる陽子じゃない。
月美はあきらめて立ち上がった。

「ちょっと出かけてくる。」

「どこに行くつもり?」

「喫煙所があるなら地球の裏にだって行くね。止めたって無駄だよ。」

「それなら屋上にも行ってきて。」

「いやだ。」
 月美は怒った。
「どうせ屋上も禁煙だ。」

「お願いだから、吸えるか吸えないかをあなたの行動基準にしないで。」

至極当然の意見だ。

「いま屋上に芽衣がいるの。夜も遅いから、迎えにいってちょうだい。」

「電話しろよ。」

「しても無視されるから頼んでるの。あの子、アレに夢中だから。」

「アレって?」

「さあ?」
 陽子は肩をすくめた。

「さあってことはないだろう?」

「ほんとうに『さあ?』なのよ。」
 陽子はだんだんと怒った口調になった。
「あの子がなにをやっているかなんてさっぱり! あたしにはね!」

まるで火にかけたヤカンだと月美は思った。
それから急に平静さを取り戻し、陽子は穏やかに続けた。

「でも月美ならわかると思うの。あの子のやっていることを理解できる。だから行ってきてちょうだい。」

陽子の有無を言わせない調子に月美はたじろいだ。

陽子の顔に歳相応の疲れがにじんでいるのを月美は見つけた。
いつもたくましい姉が、はっきりと自分よりも年上に見えた。
十歳以上も離れているのに、普段そう思うことのほうが少ない。

とにかく屋上にいかなければならないようだ。
じつのところ芽衣に対する興味もわいてきた。
私とおなじくらい陽子をうんざりさせられる人間がいるだなんて。


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