{ 37: 魔窟の探索者 }
日もすっかり暮れ、帰りの道が暗くて見えなくなるのではと不安になる頃になって、ようやく春樹は東京を見渡せる大穴の広場をあとにした。春樹とロウのふたりは、黙って歩きながら家路についた。三十分ほどかけてアパートまでたどり着くと、春樹は部屋に入るなりロウにたずねた。
「どうして今まであの場所のこと教えてくれなかったんだ?」
「それは……まぁ、あれだ……」
ロウは、ハンチング帽を脱いで二段ベッドの上段に投げ入れると、くたびれた様子で下段のベッドに腰掛けた。それから頭をワシワシと掻きながら続けた。
「おまえが、あの場所から飛び降りるんじゃないかと思ってな。大丈夫だと確信できるまで黙っていたんだ」
なるほど、確かにそのとおりだ……そう思ったものの、春樹は口に出さないでおいた。もちろん今となっては飛び降りる気なんてさらさらないけれど、以前の春樹ならそうしたところで不思議じゃなかった。
「春樹……」
ロウが急に顔をあげて言った。
「ほんとうに帰りたいのか? ここにいたければ、いつまでも……」
「ありがとう」
春樹は、ロウの正面に立った。
「ここでの暮らしは楽しいよ。ロウには感謝している。君が助けてくれたから、僕は生きることができたんだ。でも、もう家に帰らなくちゃ……この先、どんなに辛いことがあったとしても。家族と会いたいんだ。弟にも」
「お前は、ここに来る前のことを話したがらない。だからくわしい事情なんてわからないけどさ……でも、言わせてくれ。春樹の弟は死んだんだろう? 自分でそう言っていたじゃないか?」
「死んだと、聞かされただけなんだ……」
春樹は言った。
「僕を捕まえていた連中は、僕にそう思わせたい理由があったからね。今までは、連中の話を信じていた。弟が死んだと思い込もうとしていたんだ。だってその方が楽だから。希望なんてないほうがよかった……」
「生きている確証はないんだろ?」
「僕は、弟が……秋人が死んだって諦めたくない。塔から脱出したら、そのことを確かめるんだ……だから教えてくれないか?」
春樹はロウの目を見据えながら続けた。
「この塔のことを。君たち赤い目の一族は、いったい何者なんだ?」
ロウは、キョトンとしながら、その赤い目で春樹を見つめた。まるで幽霊でも見つけたかのような表情だった。
「ど、どうしたんだ?」
春樹は、面食らって尋ねた。
「こっちこそ『どうしたんだ』だ。春樹は俺たちのことを何ひとつ知らないくせに、今まで一度も質問しなかったじゃないか?」
「知るのが怖かったんだ」
春樹は言った。
「真実を知るのには覚悟がいるって、父さんはいつも言っていた。だけど、もう覚悟を決めたよ。ここから脱出するためにも、僕は知らなくちゃならない」
「わかった。俺の知っていることを教えてやるよ。そのかわり、今夜はお前がメシを用意しろよ?」
「いいよ。いつもおごってもらってばかりじゃ、悪いからね」
◇
その夜、ロウから話を聞き出すことはできなかった。ロウのように鉄鍋をふるって野菜を炒めようとした春樹が、火力の調整を誤って、あやうく部屋を火事にしかけたからだ。それで大さわぎになって、話を聞くどころじゃなかった。
「しかたないだろ……」
と、春樹は鍋からこぼした野菜くずを床から拾いながら言った。
「プロパンガスのコンロって、火力の調整が難しいんだから……」
「だからって火をつけた途端に鍋をほっぽりだして逃げるんじゃない!」
ロウがカンカンになって言った。
「僕は火も苦手なんだ! とくに赤く燃え上がる火が!」
というのがことの顛末だった。なかなかうまくうまくいかないものである。
◇
春樹は、次の日もロウと仕事に出かけた。ロウに言わせれば、塔から脱出する決意を固めたところで、それが仕事を休む理由にならないらしい。雇われの身の辛いところである。
いったい何の因果か、この日の現場は火事場の跡だった。回廊南側の大通りに面したアパートの外壁で、その壁には、部屋に電気を届けるための電線がこれでもかと張り巡らされていた。ただし、配線の一部は破損しており、焼け焦げた跡が壁面に残っていた。通りを行き交う者たちも「あらら……」といった顔でその前を歩いていた。火事の原因は一目瞭然だった。
「なんて雑な仕事なんだ!」
春樹は叫ぶようにして言った。
「ボヤで済んだのが奇跡だよ。ちゃんと計画をたてて配線しないからこうなるんだ。電線ケーブルはどこもかしこもグチャグチャで、しかも引火してくれと言わんばかりにホコリだらけだ。いくら雨が降らないからって、建物の外に配線するのも非常識だよ。停電がやたらと多いのは、そのせいだなんだぞ」
「文句を言うな」
ロウは、うんざりした調子で言った。そして続く彼の一言は、春樹に衝撃を与えた。
「おかげで、俺たちがおまんま食えてるんだ」
前の業者の粗末な仕事のおかげで、僕たちはこうして仕事を得ている? その事実に気づくにいたり、春樹は愕然となった。だけど、文句をいったところで始まる物語などない。さっさと終わらせてしまおうと、春樹は作業にとりかかった。
「ところで、ロウ、電気メーターはないのか?」
修理に必要なケーブルの長さを目測で見積もりながら、春樹はふいにたずねた。
「前から思っていたんだけど、この街のどの建てモノにも電気メーターが見当たらないんだ」
「電気メーター? なんじゃそりゃ?」
ロウは首をかしげた。
「電気の使用量を測るための機械だよ!」
なんで知らないんだ、とばかりに春樹は言った。
「住民たちが電気をどれだけ使ったのかを測るためのモノだ。こういう配電施設には、必ず電気メーターがついている。だって、電気料金の請求に必要だろ?」
「電気を使うのに、なんで金がかかるんだ? 電気なんての無限に湧いてくるだろう」
「なにをいっているんだ?」
春樹はさらにおどろいた。
「電気がネズミみたいに増えるわけないだろう? なら、この街の電気はいったいどこから湧くってんだ?」
「そりゃ、おまえ、発電所だろうよ」
ロウは、当たり前だとばかりに答えた。
「この塔にも発電施設があるのか?」
「あるよ。たしか、四十九階だったかな? その階まるごとが、発電所だって聞いたことがある」
四十九階と聞いて、春樹は口をあんぐりと開けた。この二十二階ですら、地面が拝めないほどの高さだと言うのに、まだ上があるというのか?
「ロウはそこまで行ったことがあるのか?」
「まさか。そんな遠くまで足を運べるわけがない。それに、発電所なんぞの何がおもしろいんだ?」
「おもしろいに決まっているじゃないか!」
春樹は大声で抗議した。まさか発電所がつまらないものだと侮辱されるだなんて。
「あぁ、でも、発電所は上にあるのか……行ってみたかったなぁ」
「俺はごめんだね!」
ロウは急に身震いして、工具を手に握ったまま自分の体を抱えた。
「想像しただけで、寒気が走る。下手すれば、命にかかわるぜ」
「ただの社会科見学だ。なにを怯えているんだ?」
「発電所のことじゃない」
ロウは、いつになく真剣な調子だった。
「恐ろしいのは、そこまでの道中さ。春樹は、ここしか知らないから実感がわかないんだろうけど、この塔にゃ、やばい場所がいくつもあるんだよ。足を踏み入れたが最後、生きては出られない『死の階』がな……」
唐突に飛び出た不吉な言葉に、春樹はごくりとツバを飲み込んだ。
「一番やばいのは『四十七階』だ」
ロウは、続けた。
「四十七階には、誰も住んでいない。昔は、この階と同じで街があったんだけど、今では廃墟になっている。その廃墟は、地獄とつながっているそうだ。というよりも、地獄とつながったせいで誰も住めなくなったんだ」
「じ、地獄だって?」
春樹は声をあげた。
「ほんとうに、そんな場所があるのか?」
「あぁ」
ロウはうなずいた。
「それから、いかにも春樹を怖がらせるようなオドロオドロしい調子で続けた。廃墟には侵入者を地獄に引きずりこむ何者かが徘徊しているらしい……」
「こ……この塔はいったいなんなんだ?」
「あぁ、そうだった、その話の続きをしなくちゃな」
ロウが、何やら恨みがましい様子で言った。
「春樹がボヤを起こしたおかげで、昨日は俺たちシュオや塔のことについて話せなかったもんな。怪談話なんてしている場合じゃない……」
「か、怪談? 今のは作り話なの?」
「作り話じゃないさ。おれが子どものころから、大人たちは皆こんな風にいうんだ。『四十七階だけはダメだ、ぜったいに近づくな……』ってな。まぁ、俺はそんな上の階まで行ったことないけどな。行こうと思っても行けないんだ。遠すぎて。この目で確かめようがない真実ってヤツさ」
「そのことなんだけど、ロウ……前から気になっていたことがある。なんで今まで訊かなかったのか、自分でも不思議なくらいなんだけど……」
「回りくどいな。さっさと言え」
「『黒い塔』では、階と階の間をどんなふうに移動するんだい? 『アパートのひとつ上のフロアまで電線を伸ばしに行く』という話じゃなくて、『別の街に行く』という意味での移動だ。やっぱり、階段みたいなものがどこかにあるのかい?」
「このビルに階段はありますか?」なんて質問は、もう金輪際しないだろうなと思いながら春樹はたずねた。
「あるよ、大階段が」
ロウが言った。
「『大階段』ってのは、名前からじゃ想像しにくいだろうけど、すっげぇ大きな階段だ。別の街に移動するとき、俺たちは大階段を使う」
「やっぱり階段があるわけか……」
春樹は言った。
「でも、大きくても、小さくても、階段は階段だ。のぼるか、おりるか、それだけだ。この塔がどんなにデタラメな高さでも、歩いていれば、そのうち着いちゃうんもんじゃないのか? その四十七階にも、発電所にも。当然、地上にだって……」
「それは、階段がつながっていればの話だな。大階段は、フロアごとに途切れているんだ」
「それはつまり……」
春樹は、つかの間考えてから言った。
「僕が大階段を使ってひとつ下の階に降りたとしても、階段はそこで終わっている。そして、さらに下に続くべつの階段を探さなくちゃならない……ということか?」
「ご明察」
ロウは言った。
「そして、それがなかなか骨の折れるのは、この街を見ればわかるだろう? なんとなれば、黒い塔のどこを切り取っても、ただただひたすら広い。しかも、ほかに大きな問題がある」
「というと?」
「大階段には、検問所があるってことだ。わかるか? 検問所だ。怪しいヤツを見つけて、捕まえて、牢屋送りにする心温まる場所だ」
「そこは、僕みたいなのが……君たちと比べてほんのちょびっと瞳の色が違う可能性があるかもしれない僕が……通れるところなのか?」
「通ろうとした途端、おまえが捕まることに給料の一年分を賭けてもいい。さらに滞納している家賃二ヶ月分を上乗せしてもかまわん」
「ほんとうに、そんなに大変なのか?」
「あぁ。なにしろもともと貧乏な上、近ごろ食い扶持が二倍に増えたもんだから……」
「家賃のことじゃないよ。『人間』が検問を抜けるのは、ほんとうに不可能なのか? そいつを知りたいんだ」
「さぁな」
ロウは肩をすくめてみせた。
「なにしろ検問破りなんてやったことねぇからな。『何ごとも試してみなくちゃわからない』って立派な言葉もあるが、自分の身で試すヤツは少ないだろうよ。俺はおすすめしないね」
「やっぱりこの塔に人間がいたらダメなのか?」
「この街の住民は、俺といっしょにいる限りおまえの正体なんか気にしやしないよ。怪しいヤツなんざ、この街にゃ数え切れないほどいるからな。もちろん人間を嫌っている者も住民の中にはいるさ。一方で、人間よりも怖がられている者もいれば、嫌われ者もいる。たとえば、俺の部屋のとなりに住んでいるチャウって工場主もみんなから嫌われている。犯罪者が隠れ住んでいる地区だってけっこうある。この街に人間ひとり紛れ込んだところで、いちいち気にしてられないってのが現実さ。でも、検問所を通るとなると、話はべつだ。少しでも怪しいやつは、すぐにしょっぴかれる。なにしろ門番ってのは、しょっぴくのが仕事なんだ」
「そうか……まいったな。よそ者の僕は、階段を降りることすら難しいのか……」
春樹は、頭を抱えた。
「正規の道ならな。ロウが言った」
「どういうことだと、春樹は顔をあげた」