{ 12: テロの架け橋(3) }
東棟の階段を上って春樹は研究開発室のあるフロアまで戻ってきた。ユウナ博士が春樹たちを出迎えてくれたエレベーターホールも、下の階と同じように停電して真っ暗だった。それに静かだった。人の姿が見えない。ここまで来る間、誰ともすれちがわなかった。動物面のテロリストたちから逃げる人とも、それを追うテロリストたちとも……みんなどこかに隠れているのだろうか。部屋に鍵をかけて閉じこもっているのかもしれないし、もしくは緊急時の避難場所がどこかにあるのかもしれない。
秋人たちのいる発電施設のフロアはさらに上にあるのだけど、停電でエレベーターは使えそうになかった。仮に動いたとしてもエレベーターに乗るのは危険だろう。あいつらに僕の居場所を知らせるようなものだからだ。
「やっぱり、歩いていくしかないか……」
その時だった。春樹は背中の襟を乱暴につかまれた。何が起きたのか理解する間もなく、エレベーターの扉に体を押しつけられていた。誰かが、骨を折らんばかりに春樹の左腕をひねりあげた。
「動くな!」
男の声がした。
「声も出すな!」
そんなこと言われなくたって、金属の扉に顔を打ちつけたせいで声をあげられなかった。春樹は、扉に頬を擦りながらコクコクうなずいた。声に聞き覚えがあり、男の正体にすぐ思いあたった。春樹の工具箱を没収した治安隊の隊長だった。
男も春樹のことに気づいて手を離した。春樹がその場で崩れると、男はあわてて春樹の腕をつかんだ。
「すまない、暗くて誰が誰だかわからないんだ」
バン隊長は、春樹を抱え起こした。
「君の体格はテロリスト向きじゃないとわかっていたんだが、念のため確認させてもらった。大丈夫だったか?」
「は、はい……」
春樹は、心臓バクバクの胸を手で抑えながらうなずいた。頭もまだクラクラしていた。
「君はこんなところで何をやっている?」
バン隊長は言った。
「今がどんな状況かわかっているのか? フロアをうろつくのは危険だ。すぐに隠れる場所を探して……」
「まってください!」
バン隊長が腕をつかんで引っぱっていこうとしたので、春樹は慌てて言った。
「受付ロビーで、動物面の二人組が暴れています。みんな人質にされて……」
「わかっている……ロビーで警備をしていた私の部隊も、テロリストどもの強襲を受けたんだ」
バン隊長は立ち止まった。その顔が急に険しくなったので、春樹はビクリと体を震わせた。
「私は用事があってその場を離れていたんだ……異変に気づいて戻ったときはもう遅かった。私の部下たちは倒されていた。おそらく……おそらく皆殺しにされただろう……ロビーにいた人たちを見捨ててここまで退避したのは悔やまれるが、私ひとりではどうしようもない状況だったんだ」
バン隊長は、春樹に状況を説明したいというよりも、その後悔の念をふり払いたいがために話しているようだった。
「ど、どうするんですか?」
春樹は言った。
「他の部隊と合流して、今度はこちらから強襲をかける。殺された仲間の無念は必ず……」
ふとバン隊長の背後に影があらわれた。影は気がついたらそこにいて、それがあまりに突然だったせいで春樹は絶句してしまった。大きな影だった。牛の仮面をかぶった巨大な影が……身長二メートルを超す大男がそこにいた。
「う……」
春樹はハッとなって叫んだ。
「うしろだ!」
バン隊長の反応の速さは、春樹の比でなかった。隊長は、回転中のコマでもかくやという速度でふり返ると、牛仮面に襲いかかった。ただ敵のほうが速かった。いや……速いというよりも人間の動きを明らかに凌駕していた。
今度は隊長の体がエレベーターの扉に激突する番だった。春樹には何が起きたのかさっぱりで、気がつけば隊長は反対側のエレベーターに投げ飛ばされていた。春樹は逃げようとしたけれど、慌てたせいで足がもつれ、その場に転んでしまった。
決着は一瞬だった。隊長はエレベーターの扉を背中で押し、その反動で前に進み出ようとした。すでに間近に迫っていた牛仮面が隊長の腹を殴った。ただ殴っただけだというのに、にぶい音がはっきり聞こえた。腹の中に仕込んだマイクが、隊長の内蔵と肋骨とが潰れて混ざりあった音を春樹の耳に直接届けたかのようだった。隊長は、口から血をまき散らし、その場で倒れた。
隊長が動かないのを確認すると、牛仮面の大男はこちらを向いた。
春樹は、悲鳴も声も出せずにへたり込んでいた。立てなくても、せめて後ずさりしようとしたけれど、手足が震えて体をうまく押し出すことができなかった。
牛仮面がゆっくりと歩き始めた。「僕の首をひねるのに全力の百分の一もいらない」とでも言いたげな足取りだった。殺されると思った。牛仮面から目が離せなかった。仮面は、二本の角を生やし、やはり鬼のような形相だった。身にまとっているのは、臙脂色の装束……死者のまとう白装束を、黒に近い赤で染め直したような代物だ。そして、血のような色をしているボサボサの赤髪だった。
「た、助けて……」
春樹の命乞いが聞き届けられた様子はまったくなかった。でも牛仮面はその場で足を止め、ふり返った。
「バ……」
春樹もつられてそちらを見た。
「バン隊長!」
なんとバン隊長が生きていたのだ。でも、もうまともに歩けないのだろう……バン隊長は、かろうじて牛仮面の足元まで這って来て、その右足にナイフを突き立てた。隊長はナイフの柄を両手で持ち、渾身の力で足の甲に押しこんだ。
「な……!」
バケモノにも恐怖はあるようだ。牛仮面の声は、明らかに震えていた。人間を紙くずのように投げる怪物を今さらナイフで傷つけたところで、たいした効果はないんじゃないかと春樹は思っていたけれど、牛仮面は確かに恐怖で震えていた。
「クソが……」
隊長の体を牛仮面が踏みつけようとしたかに見えたけど、そうではなかった。それどころではなかった。牛仮面が一歩二歩と進み、この場から離脱しようとした途端、不思議なことが起こった。その巨体に火がついたのだ。誰かが火をつけたのではない。ひとりでに燃えだしたのだ。
火はあっという間に燃え上がり、体の燃えている時間は長かった。少なくとも春樹には長く感じられたし、牛仮面本人ならもっとだろう。その間、悲鳴が聞こえ続けた。牛仮面は立ったまま暴れまわり、エレベータの扉や壁に体を幾度となく打ち付け、ドラセナの樹を植木鉢ごとなぎ倒した。そのうちに全身が火だるまになった。春樹はその光景から目をそむけた。
牛仮面を燃やす火が、暗闇の中でバン隊長の体を照らしていた。仰向けに倒れた隊長は目を見開いていて、顔と胸のあたりには大量の血があった。春樹がそばによって顔を覗き込むと、隊長は苦しげでいて、しかし満足そうな笑みを浮かべた。
「よかった、アタリを引けて……」
バン隊長はそれきり動かなくなった。死んだのだ。牛仮面は、徐々に黒いだけの大きな塊に成り代わっていたが、体が燃え尽きる最後の時まで悲鳴は止まなかった。