{ 11: テロの架け橋(2) }
前のめりになりその場に倒れこむと、とたんに昼食の残骸を含む胃液が口からこぼれてきた。地べたに自分の吐瀉物があるにもかかわらず、春樹はその場でうずくまった。
何も考えたくなかった。あの動物面のふたり組のことも、破壊された部屋も死体も、すべて頭の中から追い出そうとした。でも突き付けられたどうしようもない事実は、振り払えそうにない。
「テ、テロリストだ……あいつらはテロリストだ。ほんとうにいただなんて……」
助けを呼ばなくちゃ、と春樹は思った。テロリストたちは、ユウナ博士を殺すと言っていた。博士のそばには、秋人も父さんもいる。
ジリジリジリと鳴っていた警報が止んだ。春樹は、それをきっかけに立ち上がり、出口に近づいた。扉からできるだけゆっくり顔を出し、廊下に誰もいないことを確かめた。部屋の奥で横たわっている死体を最後に一瞥すると、来たのとは反対に向かって走りだした。
廊下の終わりが見えた。春樹は、自分の記憶が確かだったことにホッとした。廊下のつき当たりの扉には、「非常階段」と銘打たれていた。ここを降りれば外に出られるし、地上階の警備室に行って助けを呼ぶこともできる。ただ、春樹が本当に目指していたのは非常階段でなかった。
春樹は、非常階段の手前で足を止めた。そこにあったのは、資材搬入用のエレベーターだった。人ではなく、家具や機材を運ぶための大型エレベーターだ。ここから地上まで三百メートルもあるので、自分の足で降りるよりもこっちの方がずっと早いだろう。
昇降装置の中から暗い廊下に灯りが漏れていた。おろらく今日の唯一の幸運はこれだろう。エレベータは、春樹のいる階で停止していた。しかも、扉が開きっぱなしというオマケ付きで。資材搬入用のエレベーターなので、自動で扉は閉まらないというわけだ。春樹は飛び乗って地上に向かうボタンを押した。
喜んだのも束の間、自分の目論見が甘かったと春樹は思い知った。エレベーターが動かないのだ。どのボタンを押したところでウンともスンとも言わない。
「なんで? まさか故障しているのか」
春樹は、なおもボタンを連打して言った。
「しまった、そういうことか!」
廊下が真っ暗だったときに気づくべきだった。このあたり一帯は停電しているのだ、と。動物面のテロリストたちが、電気室の変電設備を破壊したせいだ。エレベーターの灯りは点いているけれど、これはバッテリー式の非常灯というわけだ。
「あいつら、エレベーターを止めて誰も逃げられないようにしているんだ……」
春樹には、まだ考えがあった。このエレベータのどこかに緊急用の電話がある。故障して閉じ込められた時に外部の管理会社へ連絡するための電話だから、天井の非常灯と同じく、停電中であっても使えるはずだ。
「それで助けを呼べれば……」
エレベーターは、扉が手前と奥の両側にあった。入った方とは反対側の扉の横に緊急電話のスピーカーがあるのを春樹は見つけた。我ながらでかしたと一瞬だけ喜び、それからすぐに肩を落とした。なんて入念なヤツらだろう……電話も、電気室の変圧器と同じように潰されていた。
「クソ!」
春樹は、エレベーターから飛び出して非常階段に走り込んだ。手すりから覗き込めば、何度も何度も途中で折れ曲がりながら階段が延々と下に続いているのが見えた。目の前の踊り場の壁には、「五十二」とデカデカ書いてある。ここから地上まで降りるのに、果たしてどれくらい時間がかかるだろう? 少なくとも十分はかかるはずだ。運動不足の春樹なら二十分かかっても不思議じゃない。降りきった時には、まともに歩けなくなっている可能性だってある。助けを呼べたとしても、救助隊が到着するまでにどれくらい時間が経っているだろう。一時間? 二時間? 検討もつかない。テロリストたちは、それまでにユウナ博士を殺すかもしれないし、秋人や父さんだって巻きこむかもしれない。あいつらは、計画的に行動していた。短期決戦で決着をつけるつもりなのだろう。そう思うと、この場で思い悩んでいる時間がもったいなかった。
気がつけば、春樹はもと来た道をひき返していた。つまり電気室のあった方に……正確には、動物面のふたり組が行ったであろうロビーの方に向かって……
◇
ロビーは大混乱だった。春樹は、ビルのバックヤードを出て、東塔の渡り廊下のはしっこから階下のその様子を見ていた。
想像とだいぶ違った。映画のようにテロリストが銃を乱射したり、人質を一箇所に集めて周囲を数人で見張ったりする光景を春樹は想像していたのだけど、目下の光景はそれとかけ離れていた。狼とそれから逃げる羊の群れを、バケモノと人間に置き換えたような混乱ぶりだった。
ロビーにいた人たちは、悲鳴を上げながら四方八方に散っていった。たくさんの人がいっせいに逃げ出そうとしているにも関わらず、ロビーから誰も抜け出せないでいた。動物面をかぶったテロリストたちが、あまりに人間離れしていたせいだ。
狐面の女は、瞬きするよりも早く逃亡者に追いついて、その髪を鷲掴みにした。逃亡者が、頭皮が剥がれそうになるほど暴れたり、泣き叫んだりしているいるのにかまわず、女はもう片方の手でシャツをつかんで相手を放り投げた。体は宙で弧を描き、円形のレセプション・デスクの内側に墜落した。テロリストたちは、ロビーにいた人たちを次々とデスクに放り込んでいった。
人間の体が飛んでいるところなんて初めて見た。バスケットボールを扱うようにヤツらは軽々と人の体を持ち上げていた。なんならデスクに投げ入れた人間のスコアを競い合っている節もある。
「どうだスイレイ!」
犬面の男が吠えた。
「俺はこれで三十一匹目だ! そっちはまだ二十もいっていないんじゃないか?」
「し、信じられない」
春樹は唖然となった。
「人間の腕力じゃない……」
円形デスクの内側は、どんどん人体で埋まっていった。床に打ちつけた体を抱えてたくさんの人がうめいている。逃げることを諦めた者、恐怖で動けないでいる者たちもその場で頭を抱えてうずくまっていて、飛んでくる人たちの下敷きになることもあった。
何度も逃亡を試みたり、捕まっても暴れまわる者にはひどい仕打ちが待っていた。犬面の男は、スタンプでも押すかのように足の裏で相手を蹴とばし、その膝をへし折った。遠目に見ても、ひどい折れ方をしたとわかる。蹴られた者は皆その場で泣きわめいていたし、骨が飛び出した者も中にはいた。
勇敢な者は武器(といってもボールペンや、レセプション・デスクのそばにあった鉢植えがせいぜいだ)を持って立ち向かったけど、結局なにもできないうちに、他の人と同じような運命をたどった。テロリストに一歩でも近づこうものなら、途端に五メートルは後ろに吹き飛び、顔面が血だらけになった。春樹は上から見ていたので、犬面の男がものすごい速さで相手の顔を殴ったのだとわかった。でも殴られた本人たちは、いったい何が起こったのか理解できないまま、床に転がっていることだろう。とつぜん折れた鼻っ柱の上で走る激痛にうめきながら。
これ以上見ていられなかった。ロビーにいる人たちは気の毒だけど、春樹にテロリストを止めることはできない。たとえナイフと銃を両手に持っていたとしてもムリだ。
春樹はその場で腹ばいになると、肘で床をかきながら渡り廊下を前進した。廊下から頭を出して歩こうものなら、たちまちテロリストたちに見つかってしまう。あいつらならひとっ飛びでこの橋の上に来られるだろう。そして、僕の体をレセプションデスクへ投げ入れるのだ。
春樹は亀のように這って、秋人たちのいる西塔を目指した。階下の悲鳴に耳をふさぎたいと切実に思いながら……