手紙なる一族 1 (全6回)

金の無心のために街を歩いているとき、見ず知らずの男が話かけてきた。まさか私にお金を貸してくれるのか? そう期待して立ち止まったものの、もちろんそんなわけなかった。たとえ「お金をください。なんでもします。」という看板を首からぶら下げていたとしても、道ゆく中年にいきなり資金援助を持ちかける者などいない。

第一その男の身なりは、今日出会った者の中で一番ひどかった。ジャケットこそ着ているものの、ほつれと毛玉のない箇所を見つけるのが難しい古びたウールだった。シャツだって、これまで一度もアイロンをかけたことのない代物である。ズボンを裏返せば、ツギハギの跡がそこら中に見つかるだろう。ありていにいえば、彼は貧乏そうだった。むしろ、私が彼に金を貸してあげたいくらいに。

「ものごいか? すまないが、他をあたってくれ。」

「そういうわけではありません。大切な話があるので、お時間をいただきたいのです。」

私は忙しかった。私の帰りを待っている子どもたちのために、そして私を信頼して数週間、無給で働いてくれたすべての従業員のために、どうしても資金援助をしてくれる人を見つけなければならない……と言えば、だいたいの事情を察していただけるだろうか? だから男を置いて再び歩き出したのだけれど、再三呼び止められて、結局話を聞くはめになった。

男の話を聞いてあげたのは、彼の顔つきがやけに真剣だったからだ。偏見かもしれないが、信頼のおける人物に思えた。そんな降って湧いたような信頼感は、彼がぼろっぼろの手紙をポケットから取り出し、「これは、我が一族で、300年前から受け継がれてきた手紙です。あなたに渡すために」と話はじめたあたりで、あっさり不信感に取って代わった。

私は、公園のベンチで彼の話を聞いた。ワーナー・マクレターと彼は名乗った。ワーナーの手元には、手紙があった。

「この手紙にまつわる最も古い話は、サース・マクレターが、彼の父から手紙を受け取った時のものです。サースは、我がマクレター家の七代前の当主です。」

「おいおい、待て待て。七代前だって? この話は長くなるのか?」

「はい、しばらくお付き合いください。」

サース・マクレター(七代前)

サースが父から手紙を受け取ったは、夕食も一段落して使用人たちがすっかり引きあげた後のことだった。

「使用人たち」とつい見栄を張って言ってしまうことが多いけど、給仕係がたった一人いるだけで、その者はコックも兼ねていた。さらに言ってしまえば、そのコックだって、「かろうじてスープと呼べる野菜のごった煮専門の職人」と呼んだほうが正確だった。子どものころ、池の魚のように食卓を周回する使用人が、両手の指だけでは数えられないほどいたことを思えば、いまのマクレター家の境遇はお寒いかぎりだ。それどころか卓上に置くロウソクすら一本だけという始末。ましてや毎晩この暗い食卓に座るのが、気難しい父と自分だけという事実に、サースはたまに打ちひしがれそうになる。

さて、いつも颯爽と引きあげる給仕兼コックが(我が家に長居したくないのだろう、気持ちはわかる)、今夜はさらなる記録を打ち立てんばかりに早々に片付けを済ませて帰ったころ、父は胸の内側からあるものを取りだした。手紙だった。

「これは、父から渡された手紙だ。」
 父は言った。
「つまりおまえのじい様から預かったんだ。」

「手紙……ですか?」

サースは気のない返事をして、食卓に置いてある手紙を見た。白い封筒に真紅の封蝋が押してある。蝋に押した印は、マクレター家の雄牛の紋章だ。なんの変哲もない手紙……ただし、宛名は記していなかった。

「おじい様が私に宛てた手紙ですか?」

「ちがう。」

「なら、どうしてそんなものを私に見せるのです?」

「今日からおまえがこの手紙を預かるからだ。」

「預かってどうするのですか?」

「預かるだけだ。」

「預かるだけ……ですか。」

話を聞けども、話は見えてこない。からかわれているのでは……と思ったけれど、父がそんな性格でないのは重々承知していたし、なにより顔つきは真剣だった。ロウソク一本きりの暗い食卓であっても、シワの堀がはっきり見えるほど表情を固く結び、父は息子を見つめた。その形相にひるんだサースを尻目に、父は真正面へ向き直った。そして語りだした。

「『いまからちょうど300年後、とある人物にこの手紙を渡すんだ。それまで決して開封してはならない』。おまえのじい様は、そう言ってこの手紙を俺に渡した。」

「300年後!」

サースは声を上げた。

「そうだ。300年後だ。」
 父は続けた。
「俺もおまえもその時まで生きているわけじゃない。だからマクレター家で代々この手紙を預かるんだ。俺はおまえに手紙を渡し、おまえは自分の子に手紙を渡し、子はその子に手紙を渡していく。そうしてきっかり300年後に……俺が預かったのは15年前だから、正確には今から285年後だが……目的の人物に手紙を渡す。それだけだ。」

「そ、それだけ……ですか。」

サースは卓上の手紙を呆然と眺めた。いろいろ疑問はあったけど、ありすぎて、まず何を聞けばいいのかよくわからない。

「その、つまり……父上は、おじい様の手紙をずっと預かってきたのですか? 中身を確かめることなく。」

「そうだ。」

「いったいなぜそんなことをしなければならないのでしょう?」

「さあな。俺も同じように尋ねたが、じい様は理由を教えてくれなんだ。手紙を渡してすぐに死んでしまったから、もう知りようもない。」

アベルト・マクレター……先代のマクレター家の当主であり、サースの祖父である。幼いころに亡くなった祖父のことをサースはよく憶えていた。父以上に厳格だった祖父が、いたずらにこんなものを残すとは思えない。サースは手紙がなにやら神妙なものに見えてきた。

「手紙の中身も、預かる理由も、俺には皆目見当もつかない。が、わからないままでかまわない。」
 父は続けた。
「じい様は、いい人だった。そのじい様がそうしろというのなら、俺はそうするまでだ。」

サースだって祖父アベルトを尊敬していた。父が祖父を尊敬してやまないように。同時に、祖父が家族以外の人たちから嫌われていたことも承知していた。

「確かにじい様は嫌われ者だった。」
 父は言った。
「じい様は金の亡者の権化であり、誰かがそう罵ったとしても、息子の俺ですら否定できない。ものを売るにしても麦ひと粒すらオマケしなかったし、貸した金の返済だって一秒も待つことはなかった。たとえ病人相手でも借金を取り立てただろう。そのくせ自分が何かを買うときは、値切りに値切って、相手が根負けして『あなたの言い値で売る』と言ったら、さらに値切り交渉を始めたくらいだ。決して罪を犯したわけではないが、ただただ他人から嫌われた。取引相手がじい様を嫌うのは当然として、その妻、子どもたち、さらには孫からご近所さんまでもが嫌った。」

「つまり街中の人から嫌われたんですね。」

「だが家族には優しかった。他の家とは違い、決して子どもを殴ったりしなかった。もちろん厳しい人ではあったが、怒られたのは俺がくだらん悪さをした時だけだ。」

「そんなじい様だが……」
 父は続けた。
「最後は女に金をだまし取られた。いまのマクレター家が辛酸を嘗め、この屋敷を維持するので精一杯なのもそのせいだ。あれほど聡明だったじい様が、どうしてそんなことに……」

「きっと何か理由があったはずです! 街の者どもがウワサするような下賤な理由でなく。」

「そのとおりだ。じい様のことを知りもしないのに、死んだ今でも笑いものにする奴らがいることに俺は腹が立ってしかたがない。」

「私もです。」
 サースは拳を強く握った。
「おまかせください。必ずやマクレター家を復興し、一族を侮辱した者どもを見返してやります。」

「よくぞ言った! 明日からは、おまえがマクレター家の当主だ。」
 父は机を叩いて言った。
「屋敷の暖炉という暖炉に再び栄光の火を灯すのだ。夜を明るく、冬を暖かくしてみせろ。そして、子々孫々にまで栄光を伝えるのだ。この手紙とともにな。」

父は、卓上の手紙を手にとった。サースがそれを受け取ると、渓谷のようにシワだらけだった父の顔が、とたんに緩んだ。安心しきったこの時の顔を、サースは後に何度も思い返すことになる。

祖父アベルトからの手紙……三世紀も後に生まれる者へ渡すべき手紙……なにがなにやらさっぱりだが、手紙を受け継ぐことにサースはなんの疑問もなかった。父の言ったとおり、祖父がそうしろというのならそうするまでだ。マクレター家の家督を継ぐことに比べれば、手紙を預かることなんて物の数ではない。ポケットの内側、あるいは執務室の机にしまっておく、それだけでいいのだから。

それよりも家督である。手紙を受けとった次の日、サースは当主となった。おちぶれたとはいえ、伝統ある家業を正式に継いだわけだ。自分は若輩で、学ぶべきことも多いだろうが、いつか必ず事業を大きくしてみせよう。アベルト・マクレターがかつてそうしたように。そして、女に騙され財産を失った我が祖父を……ひいては我がマクレター家を笑いものにした連中を見返してやるのだ。家督を継ぐとき、サースは父にそう誓ってみせた。

サースは、意気揚々と執務室の机に座り、未決済の書類の束を手にとった。それを午前いっぱいかけて眺めているうちに、ふとあることに気がついた。書類の内容が、一文字たりとも頭に入ってこないのだ。

どうも集中できていないようだ。父の仕事を引き継いだばかりで意気込みすぎているわけではない。手紙のせいだ。手紙が気になるのだ。手紙が気になって仕事に集中できないのだ。

サースは、机の中から手紙を取り出した。ローランド社製の丈夫な紙で折った封筒(15年も前のものなのに、まったくへたれていない)を改めて眺めてみたが、昨晩もそうであったように、宛名はどこにも書いていなかった。まさか鉛筆で薄く記してあるのではと目を凝らしてみたものの、筆圧の跡すらなかった。手紙を太陽にかざしたところで、中が透けて見えることもないようだ。

「開けるな、だって?」
 サースは、真紅の封蝋をにらみながら言った。
「そんなふうに言われると、余計に開けたくなるじゃないか。」

そう思い始めたが最後、手紙のこと以外なにも考えられなくなった。仕事をしながらも、サースはついつい手紙を手に取っていた。そのうちに、開けたくて開けたくて仕事どころでなくなった。

「いったい、なんなんだこの手紙は!」

家紋印の押してある封蝋をナイフで引っぺがし、中の便箋を根こそぎ掴みだしたいという衝動にサースが駆られるのは、それから間もなくのことだった。しかし、絶対に開けるなというのが祖父アベルトのお達しで、それを無視するわけにもいかなかった。サースは思い切って父に相談してみた。

「開けていいか、だと?」
 父は言った。
馬鹿か貴様は! 開けてはいけない手紙を開けていいはずないだろ!

人間からこんな大きな音が出てくるのか。そう思ってしまうほどの怒声だった。

「耐えられないんだ!」
 サースは負けじと言い返した。

「気持ちはわかる。」
 父は、サースの肩を鷲掴みにしながら言った。
「だが私は耐えられた。おまえにもできるはずだ。」

老人離れした父の握力と迫力に尻込みし、サースはその場から引き下がるしかなかった。

耐えられるはずだと父は言ったけれど、本当にそうだろうか? 確かにサースは、手紙を開けなかった。でも手紙のことが気になってしまい、四六時中そのことを考えていた。仕事をしているときも、食事をしているときも、婚約者と過ごしているときも、ベッドで寝ているときも、ついつい手紙を眺めていた。

「開けたい……」

その渇望は、サースの心と身体を蝕んでいた。食事をしそこねた時に、腹が減りすぎて、胃が痛くなる感覚に近かった。その痛みを我慢しているうちに、やがて手紙が話し始める幻覚を見るのは、むしろ自然なことのように思えた。

「やぁサース、ちょっくらおいらを開けてみないか? なに、たかだか手紙の内容を確かめるだけじゃないか。封にナイフを差し込んで、封蝋をペリっとはがすだけさ。読み終わったら、ちょっぴり蝋を足してしまい直せばいい。バレっこない。」

封筒に唇とひげが生えたあたりで、サースは開封の誘惑に耐えられないことを悟った。手紙とナイフを懐に忍ばせると、普段だれも近づかない屋根裏に上った。ホコリだらけの机に手紙を置くと、決して封を傷つけぬようナイフを慎重に滑り込ませようとした。

ドンッ、と音が鳴った。気がつくと、サースは屋根裏の床に転がっていた。頭に痛みがはしり、サースは体を抱えてうめいた。ただし、サースが心底愕然としたのは、その痛みにでなく、すぐそばに父親が立っていることに対してだった。父に背後かろ掴まれ、投げ飛ばされたのだ。

「貴様はじい様を裏切る気か!」
 父はあらん限りの声で叫んだ。

「も、申し訳ございません……」

サースは目に涙を浮かべながら言った。

「二度とこのようなことは……ん……ち、父上……?」

サースは急いで立ち上がった。父が胸を抑えながら床に膝をついていたからだ。

「父上! どうしたのです? しっかりしてください!」

サースは父の元に駆け寄った。

「この騒動から間もなくして、サースの父は亡くなったそうです。」
 現代の当主、ワーナー・マクレターは淡々と語った。

「し、死んでしまったのか?」
 私は驚いて言った。

「はい。」
 ワーナーはうなずいた。
「誤解されぬように。きっかけは、このときの出来事だったかもしれませんが、手紙が悪いわけではないのです。先代はすでに高齢で、もともと心臓も弱っていましたから。当主になったばかりのサースは、こう思ったそうです。こんなことにあと何年、耐えなければならないのだろうか、と。私だけで言えばあと30年、まだ見ぬ子孫も含めれば、さらに250年もこの手紙を預からなければならないのか、と。一族に課せられた使命の重さを知った瞬間でした。」

「使命の……重さ……?」

「はい。その次に手紙を受け継いだのは、サースの息子、ダレン・マクレターです。」
 と、ワーナーは続けた。


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