月面ラジオ {51 : 月面パルクール }
あらすじ1:月美の想い人・青野彦丸は、月で宇宙船を作っている。彦丸の養子のユエは、大学生でありながら、月の大企業「ルナスケープ」でエンジニアとして働いていた。
あらすじ2:彦丸のアルバムの写真に写っていた少女(じつは月美)が、なぜか気になるユエだった。
◇
◇
ロニーとの話し合いは、無事に終わった。唐突なお願いだったけど、西大寺月美の身辺調査を彼が快く引き受けてくれてよかったとユエは思った。仮想空間から戻ってくると、ユエは彦丸のアルバムを閉じて元の場所に戻した。それから彦丸の部屋を出て、大学へ行く支度を始めた。
それにしても月美という女が月にやってきたのは偶然なのだろうか? 写真の女が気になるワケがわかり、ノドに刺さっていた魚の小骨が取れたようにスッキリしたのもつかの間、今度は月まで来た理由が気になっていた。もしかして彦丸に会いに来たのでは? そんなふうにユエは勘ぐっていた。だってあいつのあの笑顔、あれはまちがいなく彦丸に惚れていたはずだ。もしかしたら初恋の相手なのかもしれない。まったく根拠はないけど……
写真の彦丸も笑っていた。彦丸はいつも楽しそうに仕事をしているけれど、それでもあんなに屈託のない笑顔、ユエの前ではしたことがなかった。庭に出たユエは、エレベーターを待っている間、ハルルに尋ねた。
「ねぇ、ハルル、あの女はルナ・エスケープにいるのよね? あそこって、いま何をやっているの?」
「ルナ・エスケープ社に関して、いくつかニュースがございます。」
ハルルは答えた。
「ルナ・エスケープの提供でパルクールのエキシビジョン・ランが行われています。有名な選手がケガから復帰したということでかなり話題になっているようです。」
「それってアルジャーノンのこと?」
「はい、そのとおりです。」
ユエは動けなかった。エレベーターの扉が開いてもその場で固まったままだった。まもなく扉は閉まり、エレベーターは行ってしまったけど、それでも動けなかった。
「アル! 危険なことはやめろっていつも言ってるのに。」
ユエは怒りで震えた。
「今日の撮影ってこのことだったのね。ハルル、その動画を見せて。いますぐ!」
「承知しました。」
ユエの仮想空間に緊張の面持ちのアルジャーノンが映った。たくさんの観客が、スタジアムの席からストレッチ中のアルを見つめている。ユエは月面スタジアムのど真ん中にいた。
◇
最初は、アナウンサーのお決まりの煽り文句だった。こういう時はたいてい「アームストロング」だの「アポロ」だのが絡められるのだ。
「アームストロング船長が最初の一歩を踏み、月面史が始まったのがおよそ八十年前……」
ほらね、とユエは思った。
「以来、何千億もの足跡が月に刻まれ、その一歩一歩が月の歴史を作ってきた。人は月に街をつくり、そこで発電し、人類の未来を照らしたのだ。今宵、その未来都市にランナーたちが集結した。人の力の限界を超えるため、速さを、そして巧みさを競いあうのだ。彼らの一歩もまた歴史となるのか? 月面パルクール、チャンピオンシップがいま始まる!」
耳の骨に埋めたマイクロイヤホンに観客たちの大歓声が響いた。耳の中で騒がれているようで、たまったものじゃなかった。
「音量さげて、ハルル!」
「最初の大会が月で開催されたのは、十七年前。彼はその年に誕生した。彼は生まれた瞬間から立って走ることができたんだ……」
そんなわけないでしょ、とユエは声を出しそうになった。
「彼の走りを見たら誰もが納得するだろう! 月で生まれて、月で走ってきた。これほど月面をたくみに走るヤツは見たことがない!」
アナウンサーが、そして会場中の観客が熱気を帯びた。
「待っていたんだ! 我々はこの瞬間を! 彼は、半年間の治療とリハビリの末、ついにここへ戻ってきた……」
ヒソヒソ声のようなざわめきが、驚きとどよめきに変わった。観客たちは、もう叫ぶ準備を始めていた。
「月面パルクールの最年少選手にして、すでに伝説! 長い休養期間を経てもまだ最年少! 彼なしでは月のパルクールは語れない……アァァールゥゥージャーノンッッ!」
スタジアムが爆発したような大歓声だった。みな気でも触れたかのように叫び拍手をしている。さわぎの中心にいるアルジャーノンがそれに応えて手をふると、いっそううるさかった。
「再び彼の勇姿を見られる日が来るだなんて!」
アナウンサーも感極まっていた。
「アルを迎える拍手でスタジアムの屋根が壊れてしまいそうだ。」
シャドーボクシングをしたり、宙返りをしたりして、アルジャーノンはその健在ぶりをアピールした。観客たちも最高潮へと達していた。
「申し遅れたが、実況はパット・リーが務めさせていただく。さて、彼が走り出す前に、ちょっぴり補足させてくれ。残念ながら予選大会に間に合わなかったアルジャーノンは、エキシビション・ランの走者として参戦する運びとなった。なお、このランは彼自身が経営する『ルナ・エスケープ』の提供によるものだ。みんな、彼のウェアに注目してほしい。」
アルジャーノンがユエに向かって親指を立てた。自分の胸のあたりを指してスーツを誇示している。全体が筋張っていて表面が赤黒かった。むき出しの人工筋肉に包まれたスーツは、ユエに言わせれば、絶対に着たくないおぞましい代物である。よく見ると、スーツの左胸に絵が描いてあった。黄金の月からジャンプして、青い地球に飛び込んでいる人間の姿を模した絵だった。ルナ・エスケープのロゴマークだろう。いつのまにそんなものを用意したんだ、とユエはあきれた。
「なんてすばらしいスーツなんだ!」
信じられないことにパットは感心しきっていた。
「アルジャーノン自らが開発したパワードスーツだ。元気になった自分の姿とともに、スーツの驚異的な性能をお見せするとのことだ。さて、前置きはそれくらいにして、みんな、心の準備に取り掛かろう。ミッション・ランのスタート時間が迫っている。」
パットは続けた。
「ミッションの種類は『デザイナブ・ロケット』だ。まさか復帰後のランにこれを選ぶとはね。さすが、と言いたいところだが驚きでもある。なにしろ、ミッション・ランの中でも文句なしの最難関だ。彼に限ってまさかそんなことはないだろうが……また骨を折ったりしないように祈ろう。」
うそでしょ……とユエはうめいた。「危ないことをするな」という自分の忠告を無視するアルジャーノンに腹が立つ。でも、ユエにはもう止めようがなかった。
パットの声が鳴った。
「さぁ、はじまりだ!」
とたんに、スタジアムが消え、あたりが真っ暗になった。観衆のうねりも聞こえない。場面転換だ。仮想空間に慣れっこのユエは、とくにおどろかなかった。
あたりが明るくなると、ユエは見知らぬ建物の中にいた。どうやらホテルにいるようだ。アルジャーノンもすぐそばに立っていた。月面都市では考えられないほど古びたホテルだった。うす暗い石壁のロビーはカビの匂いがしそうで、フロントデスクの壁に部屋の鍵が整然と吊るされている。こういう建物は、映画の中でしかお目にかかったことがない。
アルジャーノンは、すぐさまホテルを出た。ユエもアルジャーノンについて外に出た。ユエはその場で立っていただけだが、問題ない。視点が勝手に動いて、アルジャーノンを追跡するのだ。それが仮想空間というものだ。
石とコンクリートが大半をしめる都市に、重たそうな雲がのしかかっていた。いわゆる冬というやつだろうか? 道を行き交う人はみんな分厚いジャケットやコートを羽織っていた。どこもかしこもが路地裏のようにうす暗い街だった。昼間だというのに、ヘッドライトを点けたゴミ収集車が前をとおりすぎていく。ペンキの代わりにガラスの扉に赤いテープを貼って、それで店名を書いているようなしょぼくれたスーパーマーケットが、ホテルの正面にあった。人の往来は多いけど、みんなポケットに手を突っこんでうつむいた。車さえ下を向いているかのように走っている。広場にある銅像だけが、まっすぐ前を見ていた。
ホテル玄関先の石段を飛んでアルジャーノンが街に降り立った。パットの声が耳元で鳴った。
「さぁ、アルジャーノンが走りはじめた。舞台は、架空の都市『エカテリノ・スラーフ』だ。旧ソビエトがモデルのこの街を走り、ロケット工場にある設計書を盗むというのが彼に課された任務だ。ミッション・ランでは、任務を達成するまでの時間、技の難易度と美しさ、そして個性を加味して総合得点を競いあう。おっと、アルジャーノン、車のボンネットを踏み台にして、さっそくバスの屋根に飛び乗った。さらに飛び跳ねて……建物の二階のバルコニーへ飛び移った。雨樋をつたい屋根へと登っていく。さすがにはやい。月でもし野生動物が目撃されたとしたら、きっと彼のことに違いない。」
「うそでしょ……」
ユエは胸の前で手を組み合わせた。
「建物の壁をのぼる人がこの世にいるだなんて……」
カメラの位置が変わり、屋上が映し出された。アルジャーノンが目の前を駆けぬけていったので、ユエは思わず飛び退いた。パットが声を上げた。
「アルジャーノンが加速していく! 屋上を走り抜け……ジャンプ! 向かいのビルへと飛びうつった!」
ユエは悲鳴をあげた。アルジャーノンが見事ベランダに着地するまで悲鳴は続いた。
「着地成功! アルジャーノン、当然のようにショートカットだ。道を歩くなど邪道と言わんばかり。」
「当然?」
ユエは、アナウンサーに向かって噛みついた。
「屋根から飛ぶのがどうして当然なの?」
アルジャーノンは、着地と同時に前転し、その勢いのままビルの中へ入っていった。そこは、オフィスだった。書類の山の隙間から(信じられないことに、ペンという道具を使って文字を書く時代があったと先生から聞いたことがある)白シャツの労働者たちが何事かと顔をのぞかせた。キョトンとする労働者たちを尻目に、アルジャーノンは部屋を横切っていく。途中、いくつものデスクを飛びこえ、書類が積んであれば、わざわざ崩していったのでみんなカンカンだった。
アルジャーノンは、建物の見取り図を正確に把握しているようだ。迷わず廊下を駆けて、三階東側のトイレを見つけた。
「じつはこのトイレの窓こそが……」
パットは力を込めて言った。
「目的地にもっとも近い出口なのだ。」
「トイレの窓が出口なわけあるか!」
憤然遣る方無いユエのことなどつゆ知らず、アルジャーノンは窓へと飛び込んだ。
「レース開始前、選手には、街と建物の見取り図を見る時間が五分だけ与えられる。その間に目的地までの走行経路を考えて、しかも記憶しなければならない。ミッション・ランでは、屋上から飛び降りた時の受け身と同じくらいにこのプランニングがものを言う。アルが辿った経路こそが最速の理論値だということを鑑みれば、彼はこの点についても一流のようだ。」
パットは淡々と説明した。
「アルジャーノン、トイレの窓からパトカーの上に飛び降りた。車両の屋根がつぶれたので追加点だ。居合わせた通行人たちは拍手喝采。アルジャーノンは彼らと余裕のハイタッチだ。」
それからもアルジャーノンはまっすぐ街をかけぬけ(文字通りまっすぐだ。行手に何があるかなんて関係ない)、やがて人通りのない道にやってきた。コンクリートの塀がずっと先まで続く細い路地だった。
「目的地の工場に到着だ。ただし行く手を遮るのは、刑務所よりも高い壁。いかな月のガゼルといえど、飛び越えていくのは不可能だ。いったいどうやって中に入るつもりなのか?」
アルジャーノンは路地を走っていった。通りの建物と塀とを見比べて、何かをさぐっているようだ。おそらく踏み台にできる手頃な建築がないか物色しているのだろう。アルジャーノンのとった選択は、排水パイプを伝ってビルを登り、そこから塀に飛び移るというものだった。
「並の選手なら非常階段を使うことを選択する。リスクの高いルートだが、アルならなんなくやってのけるだろう。」
右足のつま先を窓に、左手の指をパイプに引っ掛けながらビルをよじ登るアルジャーノンをパットは褒めちぎっていた。
「まるでいま走り始めたかのような素晴らしい動きじゃないか。」
どうでもいい、とユエは思った。大ケガをするために走っている人を、私がなんで心配しなくちゃならないんだ。でもユエはアルジャーノンから目が離せなかった。
やがて十分な高さまでくると、窓枠に踵を乗せ、アルジャーノンはビルの壁面に立った。
「ああ、そんな……やめて……」
間髪入れず、なんの迷いもなく、アルジャーノンはジャンプした。ユエは顔を手で覆い隠した。これ以上はとても見ていられない。
次にユエが目を開けた時、アルジャーノンは塀に囲まれた広場の中を走っていた。これ以上ないほど殺風景な場所で、廃棄されたであろう木材や金属が、枯れかけの草を潰して、そこら中に転がっていた。
アルジャーノンは、敷地の真ん中にある建物を見ていた。あれがパット・リーの言っていたロケット工場とやらだ。コンクリート・ブロックを横に寝かせたような建物で、裏庭の殺風景さも相まって、見ているだけで気が滅入ってくる。ただ、建物は目を見張るほど大きい。ロケット工場の名は伊達じゃない。目測で長幅百メートル、高さも五十メートルを超えそうだ。
入り口は、閉ざされていた。鍵がかかっているようだ。アルジャーノンは、建物の側面に迂回した。
「工場の見取り図は、選手たちに提供されていない。ここから先は、現場を見ながらルートを構築していく必要がある。」
工場の壁面にはたくさんの窓があるので、一見して侵入し放題だった。ただいやらしいことに、窓は人の手の届く高さになかった。さらにずっと奥の方を見れば、いかにも「踏み台にしてください」と言わんばかりに鉄骨が山盛りに置いてあった。アルジャーノンは鉄骨に見向きもせず、何もない壁に向かって走りだした。建物にぶつかりにいくような勢いで、減速せずに壁を蹴ってジャンプした。
ぜったいにムリだとユエは思った。届くわけがない。アルジャーノンの体は、釣り糸で屋上から引っ張り上げられるようにグングンと伸びていったけど、それでもだめだろう。なにしろ窓は建物の三階の高さにあるのだから。
やがてアルジャーノンの体がピタリととまった。あとは、そのまま月の重力に引っ張られてゆっくり落ちてくるだけだというユエの予想ははずれた。見れば、中指一本だけが、かろうじて窓のふちに引っかかっていた。
「すごい!」
パットは叫んだ。
「だれも見たこともないとびきりの跳躍だ!」
アルジャーノンはぶら下がったままひと息ついていた。それから「フンヌっ!」という気合の声が聞こえた。指に全体重をかけて窓枠まで体をもちあげたのだ。そのままの勢いで窓に乗り入れて、工場の中へと転がっていった。
場面転換だ。ユエの視点も工場に移動した。気がつけば、コンクリートがむき出しのフロアの上に立っていた。塗装の剥がれかけた壁にキリル文字の案内板がかかっていた。アルジャーノンがすぐそばで立ち上がった。
木土往還宇宙船の建設現場で広いところに慣れっこのユエといえど、眼前の光景には目を奪われた。回廊の手すりに歩みよって、十一層ぶちぬきの大空間を見渡すのだった。
敷地のど真ん中にロケットが寝かせてあった。とても大きいロケットのはずなのに、建物が広すぎるせいで冷蔵庫に置き忘れたワインボトルくらいにしか見えなかった。
完成間近のようだ。何人かの工員たちが作業台の上に立ち、白い耐熱タイルをロケットの側面に溶接していた。ロケット設置台の下にはレールが敷いてあり、いつでも発射場へ搬出できるようになっていた。
天井を見れば、アームやクレーンのような重機が鉄筋の梁にぶら下がり、冷たく固まったまま出番を待っていた。反対側の回廊では、ヘルメットをかぶった現場監督がほかの工員たちに指示を出していた。名前もわからない機材を小さな車両が頻繁に運搬している。古い時代なので、自走できるロボットは一台もないようだ。
ユエはもう一度工場を見渡した。いったいどこにロケットの設計書があるというのだ。
「あ……」
思わず声が漏れた。いや、まさかあれのわけはないだろう。そう思いながらもユエはもう一度目を凝らした。
ロケットの横にデスクが一台だけ置いてあった。今では博物館でしかお目にかかれないような旧式のコンピューター(六十年前なら「電子計算機」だの、単に「端末」だのと呼ばれていたはずだ)が設置してあり、腹の出た中年男が、キーボードに向かって何かを一生懸命に打ちこんでいた。男がちまちまと文字を打つものだから、ユエは代わってあげたいと思ったけど(私なら、あの男がこれから一時間かけてやる仕事を十秒で終わらせられるだろう)、問題はそこじゃない。デスクの片隅に、これまた博物館モノ、フロッピーディスクというメディア装置が置いてあった。
あきれるほどわざとらしい。なんであんな場所に机を置くんだという疑問に意味はないだろう。これはそういうゲームなのだから。見れば、アルジャーノンが手すりに手をかけているところだった。
「ま……」
ユエはあわててかけよった。
「待ちなさい!」
アルジャーノンはユエの静止を無視して(そもそも聞こえるわけがない)飛び降りてしまった。アルジャーノンがフロッピーをひったくると、男はディプレイから目を離した。アルジャーノンは男にニッコリ笑いかけ、きびすを返してその場から去った。溶接作業用の台に足をかけて飛び上がり、ロケットの上を走って逃げた。とたんに「泥棒だ!」と声があがった。とてもあの男から出ると思えない甲高い声だった。それが壁という壁に反響したものだから、工場中の人がそちらに注目した。
「さて脱出やいかに!」
パットも負けじと声を張った。
「悲鳴を聞きつけた工員たちが集まりだしたぞ。出るときは入るときよりも難しい。彼は、脱出の道順を考えているのか? それとも行き当たりばったりか? おっと、これは一本取られた。アルジャーノン、普通に従業員用の扉を開けて外に出てしまった。外からは閉ざされていても中からはかんたんに開く。とんだ盲点だ! アルジャーノン、歩くような気軽さで工場正面のビルを登りだした。追手のことなんて意に介さない。それもそのはず追いつけるわけがない!」
アルジャーノンは建物の屋上から屋上へと飛び移り、やがてホテルの近くへと戻ってきた。屋上のふちに立ち、エカテリーノ・スラフを眺めた。雲の合間から陽がさし、街はいつの間にか晴れだしていた。アルジャーノンは息ひとつ切らしてはいなかった。まるで観光気分で、街並みを楽しんでいる。そのことにパットは驚嘆していたけど、喚き散らされる賞賛に耳を傾ける余裕はユエになかった。ここでもうお開きにしてほしい。でもその願いは叶いそうになかった。
アルジャーノンは両手を広げてそのまま屋上から落下した。ジャンプしたわけじゃない。ただ下に落ちたのだ。あろうことか、目をつむりながら。
ユエはうめいた。叫び疲れていて、アルが落ちていくのを呆然と眺めることしかできなかった。あいつの考えていることがまったく理解できない。あいつは足の骨を折った。死んでもおかしくないこの競技の練習中にだ。そのケガがやっと治ったというのに、今度は背骨が折れても不思議ではないことを平然とやっている。
アルジャーノンは、ファザードの日よけにおちた。その布が彼の細い体を優しく受け止めた。日よけの上でころころ転がってから、アルはゆっくりと地面に降りた。そこはカフェテリアだった。いきなり人が落ちてきたものだから、日よけの下で左手をポケットに突っ込みながら紅茶を飲んでいた老紳士は、カップを握ったまま固まった。アルジャーノンは、かまわずテーブルにフロッピーを置いた。まもなく店内からウェイターが現れたけど、アルジャーノンはすでにいなくなっていた。ウェイターは残されたフロッピーを手に取って懐にしまった。
「ミッション・コンプリート!」
パットが叫んだ。大歓声があがった。ユエはドッと息を吐き、その場にへたりこんだ。
「七分とんで十一秒! エカテリノ・スラフとはそんなに狭い街だったのか? なんとなんと、とんでもない記録を出してしまったぞ。技術点だって文句なしの満点だ。非公認のパワードスーツ着用のため、正式な記録としては認められないものの、アームストロングもおったまげるすばらしいミッション・ランだった。」
突然アルジャーノンの前に人だかりができた。カフェテリアで待機していたチームメートが、いっせいにアルジャーノンへと駆けよったのだ。
「アルの復活を心から祝福しています! みんな瓶を両手にビールを浴びせかけている。おっと失礼、彼は未成年なので、ビールと見せかけてただのレモネードだ。でも、目に入れば痛いのにかわりはない。アルジャーノン、笑いながらも苦痛の表情だ。審査員たちも審査席から飛び出して彼のところに駆け寄っています。私も放送席を飛び出して、今から………」
「もういい。」
ユエは言った。
「もういいわ。早く消して、ハルル。」
旧ソビエトの街は消え、ユエは自宅の庭へと戻ってきた。ユエは、服についたホコリを落としながら立ち上がった。いつの間にかへたりこんでいたらしい。興奮で体中が熱かった。まるで自分が走り抜けたかのように息も荒い。ユエは大きく息を吸って体を落ち着かせた。
「相変わらずくだらないお祭りさわぎね。あいつをとっちめて、危ないことをやめさせなくちゃ。ハルル、アルジャーノンの居場所を教えて。いますぐに。」
ユエは、もう一度エレベーターのボタンを押しながら言った。
「残念ながら……」
ハルルが言った。
「月のネットワークに彼の痕跡を見つけることができませんでした。現在地、行動ログ、スケジュール、それら全てが非公開となっています。彼の電脳秘書が私たちのアクセスを拒否しているため、こちらから連絡を取ることもできません。」
間もなくしてエレベーターがやってきた。マンションのエントランスホールへと降りていく最中、ハルルの言葉を十分に咀嚼してからユエはやっと口を開いた。
「また? また逃げたの、あいつ?」
◇
ユエがエキシビジョンの動画を発見する二時間ほど前、走り終えたばかりのアルジャーノンが月美たちの元へ戻ってきた。月美たちがいるのは、ミッション・ラン終了ポイントのカフェテリアだった。
月美、マニー、ハッパリアスの三人は、興奮ではちきれそうになりながら、まだ息の荒いアルジャーノンを出迎えた。全員両手でがっちり握手をして、相手の体を寄せて抱きあった。髪の毛はレモネードでベチョベチョだったけど、そんなこと気にしない!
「すげぇじゃねぇか!」
ハッパリアスが言った。
「どうして今までこの特技のことを隠していたんだ?」
「隠していたつもりはないけど……」
アルジャーノンは答えた。
「僕、けっこう有名な選手だし……」
「パワードスーツの調子はどうだ?」
月美はたずねた。
「すごいよ。まるでパワードスーツを着ているみたいだった。」
アルジャーノンは答えた。
「ミッション・ランの動画はもう公開されてるのかな?」
「もちろん。」
マニがー答えた。
「動画をアップロードしたとたんに大反響さね。パワードスーツに興味を持った企業もチラホラと……エネルギア社やブルーベア社がコメントを残してるよ。」
「幸先がいいじゃねぇか。」
ハッパリアスが言った。
「それだけじゃないかもね。」
マニーが言った。
「どういうこった?」
「ホークショットから連絡があった。みんな、つなげるよ。」
月美たちの視界にホークショットの姿が映し出された。
みんな期待をこめてホークショットを見つめた。ホークショットだけが月美たちと別行動で、ルナスケープ社に行ってパワードスーツの営業活動をしていた。きっとその結果報告だろう。
「全員、心して聞くんだ。」
もったいぶった調子で言ったけど、ホークショットは満面の笑みだった。
「木土往還宇宙船の採用担当が、パワードスーツを見たいと言ってきた。アル、お前さんのエキシビジョン・ランを見せたのが決め手だった。明日、さっそくルナスケープに見せにいくぞ。」
「よし!」
ハッパリアスが拳をふりあげた。
月美たちは手を取り合い喜びあった。私たちの仕事が評価されている。少なくとも門前払いをされない程度には。こんなにうれしいことはなかった。
「月美。」
と、ホークショットが言った。
月美は抱きしめていたマニーを離してそちらを見た。
「なんですか?」
「あんたも商談に参加してもらうよ。明日はルナスケープで仕事だ。いいね?」