{ 46: 一日楽医院(2) }
ロウの口の中に、平たい金属の用具を突っ込みながらヒトヒラ先生が言った。
「舌をだして、『アー』と言ってごらん」
ベッドに腰掛けたまま診察を受けていたロウは、先生に言われたとおり舌を出した。
「アー……」
虚ろな表情で唸るロウは、全身が青ざめていて、陶器の人形のように見えた。先生は、ロウの胸に聴診器をあて、手首で脈拍を測り、口や喉の様子を観察し、風邪の患者を診る時にはおよそやるであろう検査を一通り終えた。
「ど……どうですか?」
ヒトヒラ先生の背後から春樹が恐る恐る尋ねた。
「ロウは大丈夫なんですか?」
「いたって健康だ」
ヒトヒラ先生は答えた。
「どこにも異常はない」
「そんな………」
本来よろこぶべきはずの診断結果に春樹は少なからずショックを受けた。
「でも、さっきは……」
春樹は、こんな夜明け間近に先生を呼びつけたことに対し弁明するかのようにまくしたてた。
「さっきは、ほんとうにひどかったんです! 悪夢にうなされて、ロウは叫んでいたんです。それが、あまりにひどくって……ロウ、気分はどうだ?」
「最悪だ……」
ロウは、春樹を見もせずに言った。
「まだ夢を見ているみたいだ」
「わかっている」
ヒトヒラ先生は、春樹、ロウどちらにともなく言った。
「君たちはウソをついていない。私は、その症状を知っているよ。シュオの見る火の夢のことを……」
「あの夢のことを知っているんですか!」
春樹は思わず声をあげてしまった。
「毎日毎日見続けるあの地獄のような夢のことを!」
春樹がいきなり乗り出してきたので、ヒトヒラ先生はたじろいだ。ロウも驚いて春樹を見上げていた。
「え? あ、あぁ……春樹君、いきなりどうしたんだい?」
「教えてください! あの夢はいったい何なんですか? いや……それよりも、あの夢を見ないよう治療することはできるんですか?」
「お、落ちつくんだ!」
ヒトヒラ先生は、ぶつかりそうになるほど迫ってくる春樹をあわてて押し留めた。
「君は、やけに夢のことに興味をもつんだね? もちろん話してもかまわないが……でも、その前に……」
「その前に?」
「もう朝になった。部屋を出て、屋台にでも繰り出さないか?」
「やたい……?」
春樹は眉をひそめた。
「どうして?」
「簡単なことだ」
ヒトヒラ先生は言った。
「私は空腹なんだ。ロウ、気分が悪いだろうけど付き合ってもらうぞ」
「いや……」
ロウは首を振って、死にかけの鳥のような声で返事をした。
「吐きそうだ……」
「いいや、付き合ってもらうぞ」
なおもヒトヒラ先生は言った。
「しっかり朝食をとることが、体調回復の第一歩なんだ。たとえ吐いてでも食べられるようになったほうがいい。さぁ、ふたりとも行こう」
そういうとヒトヒラ先生は立ち上がり、春樹とロウを強引に引っ張りながら部屋をあとにした。
◇
ヒトヒラ先生が、屋台の調理台から三人前のお粥と、一盛りの揚げパンとを運んできた。先生は、青いプラスチック製の椅子に腰かけると、砕いたナッツをまぶしたお粥に、揚げパンを浸しながら食べ始めた。先生に倣って春樹も揚げパンを浸したけれど、それ以降は手も口も動かせないでいた。自分のお椀を呆然と眺めているロウが、昨夜食べた饂飩と今にも再会を果たしそうで、そのとなりで朝食を取る気分には、どうしてもなれなかった。
「どうした?」
ヒトヒラ先生が、先ほどから微動だにしないふたりに気づいた。
「遠慮せず食べるんだ。私のおごりだぞ?」
ヒトヒラ先生は、本日の診察に必要な体力を取り戻さんとばかりに朝食をガシガシ食べていた。先生が徹夜をする羽目になった原因が自分たちである手前、その好意を無碍にするわけにもいかず、しかたなく春樹は揚げパンにかじりついた。ロウは、春樹と先生が食べ終わったころになっても、一口だって食事に手をつけなかった。
朝もすっかり開けたころで、中央回廊東側の大通りに設置された無数の屋台は、仕事前に腹ごなしをしにきた住民たちでごった返していた。みんながみんな、元気いっぱいで、病床のロウに全く気を使わず騒がしくしていることに、春樹は無性に腹がたった。春樹は、かつての自分も今のロウのようだったことを思い出していた。
「ロウ、どんな夢を見たか話してもらえるかな?」
人心地のついたヒトヒラ先生が、椅子にもたれながら話を切り出した。
「ロウ、答えられるか……?」
ロウが何も言おうとしないので、春樹は心配になって声をかけた。
「気分が悪いならムリしなくていんだぞ?」
それでも、ロウはしばらくして答えた。
「火だ……火で焼かれたんだ……」
ロウの声は、喉の奥からなんとか絞り出したようなか細いものだった。焦点があっているとは到底思えない視線が、テーブルの上をあてどなく彷徨っている。ロウの顔は、本当に今にも吐き出しそうなほど青ざめていた。
「夢の中だと……俺は、女の子だった」
「女の子だって? どういうことなんだ、ロウ?」
春樹は驚きのあまり、大声をだしてしまった。ロウが自分と同じ夢を見ていたものだと思い込んでいたからだ。春樹だって、夢の中で見ず知らずの別人になって体を焼かれるわけだけど、少なくとも自分は女の子じゃなかった。
「君は夢の中で別人になっていて、体を焼かれている……女の子として? それって……」
ここでヒトヒラ先生が手を上げて春樹を押し留めた。春樹は、ハッとなって屋台の椅子に座り直した。座り直してから、自分が無意識のうちに立ち上がっていたことに気がついた。
「続けてくれ」
ヒトヒラ先生は言った。
「俺は、ボロボロの服を来た連中に縄でしばられて、火をつけられた。やめてくれと叫んでも、だれも助けてくれなかった。そして、俺の体が……女の子の体が燃えだして……」
ここで、ロウはブルッ体をふるわせた。自分の両肩を抱えながらも、なんとか最後の言葉をしぼりだした。
「死んだ……夢のはずなのに、現実に起こったかのようだ……今だって、生きている実感がまったく持てない。むしろ……あんな苦しい思いをするくらいなら……死んでしまいたい気分だ」
春樹は、何も言わずにロウを見やった。
ほんとうなら、こんな風に言ってやりたかった。自分も同じ症状で苦しんだことがあって、ロウの気持ちはよく分かる、と。たとえ苦しくとも、本当に死ぬわけじゃないから気を持ち直すんだ、とも……でも今この場でそう伝えるのは、ロウを余計に混乱させそうな気がして、春樹は何も言えなかった。
ヒトヒラ先生も、なにやら考え事をしているように押し黙っていた。
「そうか……」
やがて先生は顔を上げて言った。
「やはり思いすごしではなかったか」
「さっき、先生はロウの見た悪夢のことを『シュオの夢』と呼びました」
春樹は言った。
「シュオの夢とはいったい何なのですか?」
「私たちシュオの祖先が、かつて人間たちに殺された時の光景だ」
ヒトヒラ先生は言った。
「時を超え、私たちはその時の有り様を夢として見るんだよ」
信じられない……とは言わなかった。春樹だって、赤の他人として殺される夢を一年以上も見続けてきたのだから。ただ、春樹はシュオなるものの子孫ではないはずで、その点が食い違っていた。
「その夢は、シュオであれば、みんな見るものなのですか? 黒い塔の住民たちは、毎晩ロウのように苦しんでいるのですか?」
「まさか」
ヒトヒラ先生は首をふった。
「夢を見るのは、おおむね十代の子どもに限られるし、子どもだからといって必ず見るわけでもない。というよりも、めったに見られるモノじゃないんだ。ロウのような症状が現れるのは極めて稀だ。そうだな……この夢を研究する者の中には、『選ばれし者の見る夢』と呼ぶ者もいる」
「えらばれしもの……どういう意味ですか?」
「夢を見たシュオは、ケモノの戦士になるんだ」
ヒトヒラ先生は言った。
「悪夢は、戦士として生まれ変わる前兆だ」
◇
「さて、朝食も済ませたことだし、私はそろそろ行かねば……」
ヒトヒラ先生が立ち上がって言った。
「えっ?」
春樹は顔をあげた。
今しがた先生がとんでもないことを言ったおかげで、思考が数秒間止まっていたようだ。
「どこに行くんですか? だって、まだ話が……」
「もう診察の準備を始めなければ」
ヒトヒラ先生は、春樹を遮って言った。
「他にもたくさんの患者がいるからね」
「そんな! この状態のロウを放って行っちゃうんですか?」
「私にだって優先順位というものがある。ロウの場合、昼間は普段どおりに過ごせる。しかし、他の患者はそうはいかない」
「でも……」
春樹はロウに目をやったが、ロウはなおもボンヤリしたままだった。ヒトヒラ先生がここにいることにも、話の途中で帰ってしまうことにも、まったく関心がないようだ。
「ロウ、辛いだろうけど、いつもどおり過ごすんだ。悪夢を見ることは病気ではないんだよ」
病気ではない? そのひと言に春樹は憤慨した。毎夜殺されるのがどんなに辛いことか先生にはわからないんだと、ロウの代わりに言ってやりたかった。でも、そんなふうに反論したところで得るものは何もないだろう。ヒトヒラ先生の言っていることに、間違いはないのだから……
「症状を楽にする薬を処方してあげよう」
黙り込んだままの春樹とロウを見比べながら先生が言った。
「他では手に入らない特殊な薬だ。病院の診療時間が終わったあとに取りにおいで。その時なら、シュオの夢についてもう少し詳しく教えてあげられるよ」
春樹は、ロウの様子をちらりと見たが、相変わらず石のように固まったままだった。
「ありがとうございます」
何も返事をしないロウの代わりに春樹が応えた。
「僕が行ってもいいですか? この状態のロウを連れて歩き回るのは、やっぱり……」
「かまわないよ」
そう言うと、ヒトヒラ先生はニコリと笑ってその場から立ち去った。
結局ロウは、朝食に一口も手をつけられなかった。残ったお粥は、すっかり水を吸いこんでグチョグチョだった。春樹は、屋台の店主にたのんで手付かずの揚げパンを紙に包んでもらうと、その包み紙とロウの肩とを抱えて部屋に戻った。