{ 24: 輸送(2) }
狐がいた。二本角が生え、鬼の形相をしたあの狐である。春樹の輸送車を襲撃したのは、狐の仮面をかぶった女だった。それもたったひとりで……こいつのことは憶えている。カンパニー・タワーを襲ったテロリストで……名前は、たしかスイレイ。ハリとの激しい戦闘の最中、夜でもはきりわかる赤い髪が、狐面のうしろで乱れていた。
こんな戦い見たことなかった。あるいは映画でも見ているかのようだ。
ハリが、注射刀を持って、スイレイに襲いかかった。二分の一の確率とはいえ、ひと差しするだけで死んでしまう刃を、スイレイはすんでのところでかわしていた。春樹の目には、刃がスイレイを切り裂いているように見えたが、白装束の着物をかすめているだけだった。しびれを切らしたハリが、注射刀を両手で握りしめると、雄叫びをあげてスイレイに突進した。スイレイは恐れをなして飛び上がり、横転した他の護送車を超えて、その向こうに姿を消した。
「逃げるな! 戦え!」
ハリは叫んだ。
一方でスイレイの攻撃は派手だった。護送車の上に乗って姿をあらわすと、今度はスイレイから飛びかかった。もし組み伏せられたらあの腕力に対抗するすべはないのだろう。ハリはあわてて横に飛び退いた。牛かイノシシのようにスイレイはその後を追って突進した。注射刀を構える間もなく、ハリは再び飛び退いてかわす他なかった。スイレイは、勢い余って他の護送車に激突することもあったが、悲鳴をあげるのは車体のほうだった。車とぶつかって体が跳ね返るどころか、車体の方が転がって、ついには逆さまになりそうな勢いである。
決着がついた。爆撃のようなスイレイの突進に対応したハリは、最後にそれをひらりとよけると、スイレイがふりかえった瞬間に刃を胸につきたてた。二人とも固まった。お面の向こうの顔などはかりしれないが、スイレイの表情はかならずや恐怖でこわばっているだろう。
だが何も起こらなかった。
「くそ……」
ハリがうめいた。はずれを引いてしまったようだ。スイレイの拳がハリの顔を横殴りにした。子どもがおもちゃのボールを投げたように、ハリの体がまるごと吹き飛んだ。
ハリの体は、すでにノックアウトしている他の隊員の上にうつ伏せになって墜落した。決着のときだと春樹は思った。スイレイは、ハリの頭を踏み潰そうと歩み寄った。しかし、あと数メートルというところで、スイレイは立ち止まり、それ以上近づかなかった。
それを見て、ハリはゆうゆうと立ち上がった。鉄の拳に殴られて、顔の半分がすでに真っ赤に腫れ上がっているのに、ほくそ笑んでいる。その手には、別の注射刀が握ってあった。幸運なことに、吹き飛んだ先に仲間の注射刀が落ちていたのだ。スイレイが考えなしに近づいていたら、ハリはそれで足の甲を刺すつもりだったのだろう。バン隊長が、最後の力を振り絞って、牛仮面の男にそうしたように……
ハリが、夜をつんざく奇声を上げ、突進した。スイレイはそれをかわした。ハリは、自分の持っている注射刀の型が、スイレイに対して必殺であることを確信しているようだ。先ほどまでとはうって変わって必死に攻め立てていた。それを感じ取ったスイレイは、体をこわばらせながらも、必死に逃げた。気がつけば、ハリがスイレイの足元をけとばして、その体を組み伏せていた。
ハリが注射刀を握って相手の胸に突き立てようとしたとき、スイレイはがむしゃらに暴れ、下からハリの腕を思い切り叩いた。注射刀は、ハリの手をすっぽ抜けて、明後日の方向に飛んでいった。そして春樹のすぐ足元に転がった。
二人の視線が、春樹に集中した。二人とも、春樹の存在にたったいま気づいて呆然とした。取っ組み合いの最中で、両者ともその場から動けないでいた。いや、スイレイにいたっては、春樹の腕から血が垂れているのに気づき、恐怖のあまり身を縮こませた。ハリがスイレイの両腕を抑え、こちらに向かって叫んだ。
「それをこっちによこせ!」
春樹は足元の注射刀を拾った。でも、それ以上のことはしなかった。
「なにをしている! 早くするんだ!」
「やめろ!」
両者の叫び声が同時に聞こえた。
しばらくは、手にした小刀を眺めていた。春樹には、これがア型なのかウン型なのか区別できそうにない。顔をあげると、必死の形相のハリがせまっていた。しびれを切らせたハリが、組み伏せていたスイレイを置いてこちらに迫って来たのだ。春樹は、軽くふりかぶって注射刀を放り投げた。注射刀は、ハリの頭のはるか上を飛んで、道路に落ちて転がると、この戦いとはなんの関係もない路上駐車中の車の下に入った。
「な、なんてことを……」
ハリは、その場で立ちつくした。そして、はっきりと憎しみをこめて、僕のことを見た。
今度こそ決着はついた。ふり上げられたスイレイの拳が、ハリの背中に襲いかかった。ハリは、アスファルトに正面から叩きつけられ、それっきり動かなくなった。
◇
春樹はスイレイと向かい合った。
じっくり敵を見たのは、これが初めてだった。紅の絵の具で化粧を施すことで、狐の面は鬼の形相を模していた。りっぱな二本の角は、黄色みがかった朱色である。真っ白で、一見して死に装束のような着物を着ているが、袴は黒のまじった臙脂色だった。うしろに散らばった髪は、動脈血のように鮮やかで、それどころか、仮面の小さな穴からのぞく瞳すら血の色をしていた。
目が真っ赤に光るだなんて、やっぱりこいつは人間じゃない。仮面の裏には、果たしてどんな顔があるのだろう。
血の瞳が、まっすぐ春樹を見据えた。決して目をそらさず、鬼の形相を黙ってこちらに向けたままだ。ハリなど、もう見向きもしない。
スイレイの目的は、春樹を殺すことだろう。春樹の血の秘密を知っているのだ。輸送車を襲撃する理由なんて、ほかに考えられない。
春樹もスイレイから目を逸らさなかった。こいつは秋人の仇だ。いますぐこの血まみれの拳で殴りつけるんだ。返り討ちにあって死ぬかもしれないが、それでもかまわなかった。
でも、その気持ちとは裏腹に、春樹はどうしてもその場から動けないでいた。どうしてだろう……スイレイの赤い瞳に恐怖したのか? 本当は死ぬのが怖いのか? あるいは、何もせず、さっさと楽になりたいのかもしれない。その全てが理由のように思えた。
代わりに、スイレイのほうから近づいてきた。幽霊のように青白い春樹を見て、手こずる相手じゃないと判断したのだろう。たとえ右腕から垂れ流しになっているこの血が、彼女にとって劇毒だったとしてもだ。
こちらから仕掛けるんだ。そんなふうに自分を鼓舞するものの、拳を上げることすらできなかった。春樹は、ただ木のように突っ立っていた。
秋人はもう死んだんだ。命懸けでこいつと戦っても、取り戻せるものも、得られるものも、何ひとつない。もうどうだっていいじゃないか……
スイレイがさらに近づいた。あと数歩ふみこむだけで、こちらに手が届くほどに。春樹は、遠い世界の出来事のように彼女が歩み寄ってくるのを眺めているだけだった。スイレイが拳をふりあげた。
殴りとばされ、意識が飛んだ。それっきりだった。死ねば悪夢を見ないで済むと、薄れゆく意識の中で願った。