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{ 3: シャン家の朝 }
◇
シャン春樹が目覚めたのは、汗をかきすぎたせいで、布団がちょっとした水たまりになったからだった。今しがた見た光景が、鮮明にまぶたの裏に残っていた。ボロをまとった連中に囲まれ、怒鳴られ、あげく燃える穴の底につきおとされたあの光景だ。
春樹は吐きそうになって口を抑え、布団から体を起こした。部屋の中を見渡して、自分がどこにいるのかを確かめた。そうしなければ、またパニックを起こしてしまいそうだった。
畳の部屋だ。家具はたったのひとつで、ふすまの横に本棚があるだけだ。布団のそばには、学校の教科書が平積みにされていた。その一番上にあるのは、東京都市出版の「電気工事施工管理・基礎編」だった。
「大丈夫、ここは僕の部屋だ……」
寝る前にカーテンをしめ忘れてしまった。窓から朝日が差していて、汗だらけの春樹の顔を焼きつけていた。尋常じゃないこの汗の量は、夏の陽のせいだろう……きっと……
「夢? そうだ、あれはただの夢だ……」
僕はただの学生だ。これから処刑される身でもないし、やけど一つ負う予定もない。何も心配することはないのだ。
それでも体は震えていた。部屋は蒸しているのに、汗だらけのシャツは、背中に張り付いて冷たかった。暑いのか寒いのかわからず、気分が悪い。それに、こんなふうに目覚めるのが毎度のことだという事実が、いっそう春樹を落ち込ませた。なにより悪いのは、「あれがほんとうに起きたことだ」と思ってしまうことだった。
「あれはただの夢だ……」
あんなこと、現実に起こったわけがない。たとえ起こったとしても、ずっと昔のことだし、僕とは関係のないことだ。だから、春樹、落ち着くんだ。泣くんじゃない。
全力疾走の直後みたいだった呼吸が一段落し、やっと平静を取り戻した時だった。ふすまの戸が開いた。ちょうど僕と同じくらいの背丈の……いや、見栄を張るのはよそう……ひとつ年下なのに僕より七センチも背の高い青年が入ってきた。学校の制服にもう着替えていて、この暑いのに、首までちゃんとネクタイを上げていた。シャン秋人、僕の弟だ。
秋人は、夏の間に長くなった前髪をすっきりとかきあげていた。すでにワックスとジェルとを使いわけていて、高校生ながら髪型をつくるのがうまいのだけど、春樹はそのやり方を教えてくれと切り出せないでいた。
「今日はまたすごいな」
秋人は感心したように言った。
「まるで一年分のオネショだ」
「勝手に入ってくるなよ……」
春樹は言った。
「そうは言うけどさ、毎朝うめき声を聞かされるこっちの身にもなってくれよ。今朝なんてほとんど悲鳴だった」
「さ、叫んでいたのか?」
春樹は布団をギュッと握っている自分の手を見た。
「大丈夫、いつものことさ」
「いいかげん医者にいけよ」
秋人がタオルを投げてよこした。
「行ったさ。行ってこのざまだ」
タオルを受け取ると、春樹は今しがたオネショと宣われた布団を差してみせた。
「ならいいさ。早く着替えて降りてこいよ。朝メシの準備ができたってさ」
そう言うと、秋人は部屋から出ていった。
◇
一階に降りると、春樹は秋人と食卓についた。
「げっ! また焼鮭かよ。ババァくさいメシだな」
秋人が開口いちばん悪態をついた。
「それは悪うございました」
台所で魚の焼き網をタワシでこすっているハウスメイドの鈴子さんが声をあげた。
「なにしろババァが作ったものでして」
春樹は秋人の肩をこづいた。秋人は肩をすくめてみせた。
実際のところ、秋人が言うほど鈴子さんの食事は悪くない。そりゃ泣いて喜ぶほどウマいわけじゃなないけれど、むしろこれがシャン家の朝食であるべきだと春樹は思っている。献立は、焼きたての塩鮭と、茶碗に盛った白いごはんだった。味噌汁からは湯気がたっているし、ほうれん草のおひたしには白胡麻が乗っている。ありがたいことじゃないか。
「僕は好きだよ、鈴子さん」
春樹は白ごはんをかっこんで言った。
「俺も鈴子さんのことは好きだ」
秋人も箸に手を伸ばして食事をはじめた。
「さっさと食べてくださいな。食卓も早く片付けたいものでして」
「まったく、何十年も家に住んでると使用人も遠慮がなくなるってもんだ」
秋人がヒソヒソ声で春樹に言った。
「いいからさっさと食べろ」
春樹は答えた。
鮭の切り身がちょうど半分くらいの大きさになったころ、春樹ははじめて生野菜のサラダに手を伸ばした。レタスとキュウリとトマト、そしてオーロラドレッシング……なんの変哲もないサラダだったけど、春樹の箸は皿の上でとまった。
「どうした?」
秋人が、春樹の様子に気づいた。春樹は震えながらトマトを見ていた。
「ただのトマトだ」
秋人は言った。
「これもダメなのか?」
「赤いのはイヤだ」
春樹は言った。
赤いモノを見てるとあの火を思い出す。見知らぬ家族と僕を焼いたあの火だ。火だけじゃない。僕を見つめていた死体の赤い目も思い出す。
あの夢を見始めたころは、火や血を見るだけで震えていた。それから一年が経ち、最近では赤いというだけで、それがなんであっても怖くなった。街を駆ける消防車も、そこら中にある郵便ポストも、プラットフォームにある電車の非常停止ボタンも、同級生のひどいニキビ面もだ。
割烹着姿の鈴子さんが様子を見に台所から出てきた。濡れた布巾を手に持ったまま春樹のそばへ駆けよった。
「春樹さん、むりして食べないでくださいな」
「この前まで、ちゃんと食べられたんだけど……」
春樹は言った。
「ムリしてでも食べるんだ」
秋人は言った。
「血が怖いってならまだしも、赤いだけで震えるのは異常だよ。社会でまともに暮らしたければ、いまのうち克服しなきゃ。俺が駅のプラットフォームから落ちた時、いったい誰が電車の非常停止ボタンを押すと思ってるんだ?」
「わかってる」
春樹は言った。
「お前が落ちてもボタンは押さないけど、トマトは食べなくちゃね」
春樹は、可能な限りレタスとキュウリに目をやりながら、トマトに箸を伸ばした。ふたりが緊張した面持ちで見守る中、トマトを口に運んだ。うん、いけそうだ……口に入れてさえしまえば、なんてことはなかった。
「うまい! ……ウッ!」
トマトを頬張り、ふたりに向かって笑ってみせたが、結局口の中から吐いてしまった。机の上にぶちまけた赤い残骸から目をそむけ、確かにこれは異常事態だと春樹は思った。