見出し画像

{ 3: シャン家の朝 }

{ 第1話 , 前回: 第2話}

シャン春樹が目覚めたのは、あせをかきすぎたせいで、布団がちょっとした水たまりになったからだった。今しがた見た光景が、鮮明せんめいにまぶたの裏に残っていた。ボロをまとった連中に囲まれ、怒鳴どなられ、あげく燃える穴の底につきおとされたあの光景だ。

春樹はきそうになって口をおさえ、布団から体を起こした。部屋の中を見渡みわたして、自分がどこにいるのかを確かめた。そうしなければ、またパニックを起こしてしまいそうだった。

たたみの部屋だ。家具はたったのひとつで、ふすまの横に本棚ほんだながあるだけだ。布団のそばには、学校の教科書が平積みにされていた。その一番上にあるのは、東京都市出版の「電気工事施工しこう管理・基礎きそ編」だった。

大丈夫だいじょうぶ、ここはぼくの部屋だ……」

る前にカーテンをしめ忘れてしまった。窓から朝日が差していて、あせだらけの春樹の顔を焼きつけていた。尋常じんじょうじゃないこのあせの量は、夏の陽のせいだろう……きっと……

「夢? そうだ、あれはただの夢だ……」

ぼくはただの学生だ。これから処刑しょけいされる身でもないし、やけど一つ負う予定もない。何も心配することはないのだ。

それでも体はふるえていた。部屋は蒸しているのに、あせだらけのシャツは、背中に張り付いて冷たかった。暑いのか寒いのかわからず、気分が悪い。それに、こんなふうに目覚めるのが毎度のことだという事実が、いっそう春樹をませた。なにより悪いのは、「あれがほんとうに起きたことだ」と思ってしまうことだった。

「あれはただの夢だ……」

あんなこと、現実に起こったわけがない。たとえ起こったとしても、ずっと昔のことだし、ぼくとは関係のないことだ。だから、春樹、落ち着くんだ。泣くんじゃない。

全力疾走しっそうの直後みたいだった呼吸が一段落し、やっと平静をもどした時だった。ふすまの戸が開いた。ちょうどぼくと同じくらいの背丈せたけの……いや、見栄を張るのはよそう……ひとつ年下なのにぼくより七センチも背の高い青年が入ってきた。学校の制服にもう着替きがえていて、この暑いのに、首までちゃんとネクタイを上げていた。シャン秋人、ぼくの弟だ。

秋人は、夏の間に長くなった前髪まえがみをすっきりとかきあげていた。すでにワックスとジェルとを使いわけていて、高校生ながら髪型かみがたをつくるのがうまいのだけど、春樹はそのやり方を教えてくれと切り出せないでいた。

「今日はまたすごいな」
 秋人は感心したように言った。
「まるで一年分のオネショだ」

「勝手に入ってくるなよ……」
 春樹は言った。

「そうは言うけどさ、毎朝うめき声を聞かされるこっちの身にもなってくれよ。今朝なんてほとんど悲鳴だった」

「さ、さけんでいたのか?」
 春樹は布団をギュッとにぎっている自分の手を見た。
大丈夫だいじょうぶ、いつものことさ」

「いいかげん医者にいけよ」
 秋人がタオルを投げてよこした。

「行ったさ。行ってこのざまだ」
 タオルを受け取ると、春樹は今しがたオネショと宣われた布団を差してみせた。

「ならいいさ。早く着替きがえて降りてこいよ。朝メシの準備ができたってさ」

そう言うと、秋人は部屋から出ていった。

一階に降りると、春樹は秋人と食卓しょくたくについた。

「げっ! また焼鮭やきざけかよ。ババァくさいメシだな」

秋人が開口いちばん悪態をついた。

「それは悪うございました」
 台所で魚のあみをタワシでこすっているハウスメイドの鈴子すずこさんが声をあげた。
「なにしろババァが作ったものでして」

春樹は秋人のかたをこづいた。秋人はかたをすくめてみせた。

実際のところ、秋人が言うほど鈴子すずこさんの食事は悪くない。そりゃ泣いて喜ぶほどウマいわけじゃなないけれど、むしろこれがシャン家の朝食であるべきだと春樹は思っている。献立こんだては、焼きたての塩鮭しおざけと、茶碗ちゃわんに盛った白いごはんだった。味噌汁みそしるからは湯気がたっているし、ほうれん草のおひたしには白胡麻ごまが乗っている。ありがたいことじゃないか。

ぼくは好きだよ、鈴子すずこさん」
 春樹は白ごはんをかっこんで言った。

おれ鈴子すずこさんのことは好きだ」
 秋人もはしに手をばして食事をはじめた。

「さっさと食べてくださいな。食卓しょくたくも早く片付けたいものでして」

「まったく、何十年も家に住んでると使用人も遠慮えんりょがなくなるってもんだ」
 秋人がヒソヒソ声で春樹に言った。

「いいからさっさと食べろ」
 春樹は答えた。

さけの切り身がちょうど半分くらいの大きさになったころ、春樹ははじめて生野菜のサラダに手をばした。レタスとキュウリとトマト、そしてオーロラドレッシング……なんの変哲へんてつもないサラダだったけど、春樹のはしは皿の上でとまった。

「どうした?」

秋人が、春樹の様子に気づいた。春樹はふるえながらトマトを見ていた。

「ただのトマトだ」
 秋人は言った。
「これもダメなのか?」

「赤いのはイヤだ」
 春樹は言った。

赤いモノを見てるとあの火を思い出す。見知らぬ家族とぼくを焼いたあの火だ。火だけじゃない。ぼくを見つめていた死体の赤い目も思い出す。

あの夢を見始めたころは、火や血を見るだけでふるえていた。それから一年が経ち、最近では赤いというだけで、それがなんであってもこわくなった。街をける消防車も、そこら中にある郵便ポストも、プラットフォームにある電車の非常停止ボタンも、同級生のひどいニキビ面もだ。

割烹かっぽう着姿の鈴子すずこさんが様子を見に台所から出てきた。れた布巾ふきんを手に持ったまま春樹のそばへけよった。

「春樹さん、むりして食べないでくださいな」

「この前まで、ちゃんと食べられたんだけど……」
 春樹は言った。

「ムリしてでも食べるんだ」
 秋人は言った。
「血がこわいってならまだしも、赤いだけでふるえるのは異常だよ。社会でまともに暮らしたければ、いまのうち克服こくふくしなきゃ。おれが駅のプラットフォームから落ちた時、いったいだれが電車の非常停止ボタンをすと思ってるんだ?」

「わかってる」
 春樹は言った。
「お前が落ちてもボタンはさないけど、トマトは食べなくちゃね」

春樹は、可能な限りレタスとキュウリに目をやりながら、トマトにはしばした。ふたりが緊張きんちょうした面持ちで見守る中、トマトを口に運んだ。うん、いけそうだ……口に入れてさえしまえば、なんてことはなかった。

「うまい! ……ウッ!」

トマトを頬張ほおばり、ふたりに向かって笑ってみせたが、結局口の中からいてしまった。机の上にぶちまけた赤い残骸ざんがいから目をそむけ、確かにこれは異常事態だと春樹は思った。


いいなと思ったら応援しよう!