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{ 22: 健康生活(3) }
さらに一ヶ月が経った。あいかわらず飽食と惰眠を尽くし、「体を切り裂かれる」を繰り返す毎日だったけど、良かったこともひとつだけある。持て余した時間の合間に、世界で一番おいしい料理とその食べ方を発明してしまったからだ。
具体的に説明しよう。まずは、焼きたてのチョコチップ・クッキーをパティシエールに用意させる。つぎに、バケツサイズの容器から甘ったるい業務用クリームチーズをスプーンですくい、それをクッキーにありったけ塗る。それをもう一枚のクッキーで挟んでできあがりだ。芸術的じゃないか。ちょうどいま四十一枚目に差し掛かったけど、まだまだ食べられそうだ。
「そ……そろそろ、おやめになったほうが……」
顔をあげると、ウェイターが心配そうにこちらを覗きこんでいた。春樹がステーキの皿を投げつけたあの男だった。
「そ、それに、お召ものを着なければ、カゼをひいてしまいます」
お召もの? 何をいっているんだ、こいつは。まさか僕の身だしなみに文句でもあるのか? シャツは着ているし、ネクタイだってちゃんとしているぞ。そりゃ、ズボンを履いていないし、このトランクスだって三週間前から履きっぱなしだけど、それがいったいなんだというのだ?
「そんなことより、ポテト・チップスを買ってきたか?」
春樹は言った。
「間違ってもオーガニックなんて買ってくるなよ。そこらのスーパーで売ってるヤツで、一番やすいのを食べたいんだ。甘いモノと、塩っ気の強いモノを交互に食べると、止まらなくなるぞ? 食欲の特急列車だ」
ちかごろは体が重たく、椅子に座るのもおっくうだった。だから手近のテーブルを横に倒し、それに寄りかかりながら地べたに座っていた。そうすると、ただでさえ天井の高いこの食堂ホールがより大きく見える。真っ白なテーブルクロスと床のカーペットに春樹の汗が巨大な雲の影のように染みわたり、それがなんとも心地よかった。
体重以外にも、顕著な変化があった。顔に手をやると、指に脂がつくし、かつてあんなにも美しかった肌はニキビで覆われていた。近ごろの春樹は、ニキビを指でつぶしたいという衝動によく駆られていた。少し痛いけれど、痛みに慣れっこの春樹にとって、ニキビをつぶすのは逆に心地よいくらいだった。しかも、最近はわざわざ顔の上で爪を立てる必要がなくなった。顔を力むだけで、ニキビの表面がプッチとはじけて、中から真っ白な膿が出てくるのだ。爽快じゃないか。
「お、おやめください」
そんな春樹の奇行をみて、ウェイターがあわてて言った。
彼は、ほとんど恐怖すら感じていた。
「それ以上健康を害してしまうと……その……私が怒られてしまいます」
「そんなこと僕の知ったこっちゃないよ」
春樹は言った。
まったく、どいつもこいつも。自分のことばかりだ。なにがお体に障りますよ、だ。おまえらには、殴られすぎて鼻くそが常時ピンク色になる僕の気持ちなんてわからないんだ。
「おい、ポテト・チップスはどうした? さっさと買ってこい!」
「いま、使いの者に買いにいかせています。間もなく戻ってきますから……」
彼の言う通りだった。食堂ホール入り口の観音扉が、片方だけギィーと重い音をたてて開いた。買い出しに言っていた別の使用人が戻ってきたのだ。いつも春樹にコーラを注いでくれるあのソムリエだった。
春樹は立ち上がった。まさかこんなに体力が残っていただなんてと、自分でも驚いたほどだけど、全力疾走した。使用人の手元にあるポテト・チップスが欲しいからじゃない。いつもかたく閉ざされている扉が、なんと開いたからだ。春樹は、裸足で食堂ホールを駆け抜けた。
「どけぇ! 」
叫ぶ必要なんてどこにもなかった。突進してくる春樹におどろいた使用人は、その場からすでに飛び退いて春樹に道をゆずっていた。ふたりの使用人は、駆け抜ける春樹をただ唖然としながら見送った。
食堂の外は廊下が伸びていて、突き当りは曲がり角だった。そのさきに何があるのかわからない。でも、ここではない別の場所へ行けるのなら、なんだってよかった。
敵が全滅するまで血を絞り続ける人生なんて、ごめんだ。僕は、家族の仇討ちなんかより、家族に会いたい!
「やった! 外に出られるぞ」
春樹は角っこを曲がった。向こうの方から、二人組の男がこちらにむかって歩いていた。いったい、だれだろう? いや、そんなこと気にするな。蹴散らして、突っ切るのみだ。
「どけぇ……!」
男のひとりが足早に近づいてきて、春樹の土手っ腹に拳をお見舞いした。春樹は、その場で崩れ落ちた。横隔膜が痙攣して呼吸もままならないのに、チョコレート風味の黒色のヘドがバケツでぶちまけるように出てきた。沼の中で溺れているよりも苦しかった。
「信じられないな……」
春樹を見おろして男は言った。
「まさか脱走するだなんて」
「ハ、ハリ……!」
視界がぐるぐる回って、洗濯機の中の洗濯物のような状態だった。立ち上がろうにも、膝を伸ばす前にまた転んでしまうのをくり返していた。そんな状態でも、専属の拷問官の声だけは聞きまちがえようがない。
「こ……ここから出して……」
ハリの足にしがみつきながら、春樹は声をしぼり出した。
「君のことが理解できないよ」
ハリは言った。
「自分の血でヤツらを殺せるんだぞ? 光栄だとは思わないのか?」
「落ち着け、ハリ隊員……」
もうひとりの男がハリの肩に手を置いた。ユウナ博士だった。
「使用人たちに担架を持ってこさせるんだ。春樹君は、僕が見ておくよ」
「しかし……」
「何を心配することがある? 彼にはもう噛みつく力すら残っていない。そんなことよりも、すぐに治療をしなければ。彼の輸送計画に支障をきたすわけにはいかないぞ?」
「わかりました」
足にしがみつく春樹を払いのけると、ハリは廊下を引き返していった。
「さて、春樹君……聞こえているかな?」
やがてハリの姿が消えると、ユウナ博士は春樹のそばに(慎重に吐瀉物を避けながら)膝をついた。
「返事はいらないよ。ムリをせずその場で聞いてほしい」
ムリをするな? この男は、いったいどの口でほざいているのだろう?
「僕がここに来たのは、君にいくつか伝えたいことがあったからだ。この様子だと、延期したほうがよさそうだね……」
伝えたいこと? おまえたちの話を聞いて、僕になんの得があるというのだ。そんなこと、もうどうだっていい……何もかもが、どうだっていい。だから、頼むから、みんな僕の前から消えてくれ。
「ただし、いま伝えなければいけないことが一つだけある」
ユウナ博士は言った。
「意識の残っているうちに、これだけは聞き届けてほしい……今朝、秋人君が亡くなった」