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{ 20: 健康生活 }
貸し切りのジムで一時間ほど運動したあと、黒い大理石のシャワー室で、頭のてっぺんから熱い湯を浴びた。自分の体質にあわせた特注のスクラブ石鹸を泡立て、毛穴という毛穴から体の老廃物を削ぎ落とすと、バスタオルを腰に巻いて洗面台の前に立った。「床面積」と呼んでも差し支えない大きさの鏡に、上半身ハダカの自分がポツンと映っていた。マッサージ師、美容師の双方が、「まるでゆで卵」と称賛してやまないツルツルの肌にクリームを塗りながら、春樹は体を入念にチェックした。
「よかった……」
肩の傷口は、もうふさがっているようだ。二週間ほど前、医療用のメスでスパッと切り裂かれたところだ。でもここだけちょっぴり乾燥しているようだし、クリームを多めにねりこんでおこう。
春樹はバスローブ姿のまま、自分のウォークイン・クローゼットに移動した。そこで素っ裸になると、ブラックからネイビーまで、あるいはベージュからグレーまでグラデーションで並んでいる数十着のスーツの中から、今日着ていく服を選びはじめた。
「そうだな……今日は、こっちのチャコール・グレーにしようかな? 最近は、マリン・ブルーのスーツばかり着ていたし」
春樹は、白樺製のごついハンガーを掴みながら、灰色と青色のスーツを見比べた。
「シャツは、基本に立ち返って無地の白にしよう。でもネクタイは、いつもと変化をつけて鮮やかな色にしたいな。モス・グリーンはどうだろうか。うん、それに決めた!」
オーダーメードのジャケットをまとえば、その下の絹シャツも別格の肌触りだった。服が自分の体型に合ってさえいれば、スーツを着ることは、単なる作業でもなければ、日課でもなくなる。自分が毎日生まれ変わるための儀式と等しくなるのだ。秋人が毎朝、ネクタイをきちんと締めていた理由を春樹はいまさらながら理解できた。
襟のボタンを留めている時に気づいたのだけど、首の側面に見知らぬ傷があった。新しい傷ではないようだ。治りかけている。ナイフで刺した跡かな? いったい、いつこんな傷を負ったのだろう? おぼえていない。
廊下に出たとき、脱いだバスローブを外に投げ捨てて置いた。そうしておけば、あとで誰かが回収して、勝手にクリーニングしてくれるからだ。家にいたころ、服を廊下に投げ捨てておこうものならハウスメイドの鈴子さんがブチ切れていたことを思えば、ここでの僕の待遇はエラい違いだった。
革の靴で絨毯を踏みしめ、春樹は廊下を歩き出した。重たい靴だったけど、その分、自分の体が大きくなったみたいだ。でも、左の足首がうずくおかげで、そちらだけどうしても引きずり気味なってしまう。すでに松葉杖なしで歩けるようになったけど、もう少しのあいだ杖を借りておけばよかった。
食堂に着くと、ウェイターがうやうやしくお辞儀をしながら春樹を出迎えた。春樹は、無人の食堂ホールを歩き、隣接する個室に案内してもらった。もうひとりのウェイターが、椅子を引きながら春樹の到着を待っていた。
「今日の担当は、小出シェフだったかな?」
テーブルに付くなり春樹はたずねた。
「さようでございます」
春樹が椅子に座るのをサポートしながらウエイターは答えた。
「今夜は、小出シェフにすべてまかせるよ」
春樹は言った。
「フルコース、満漢全席、懐石料理……およそここで食べられる料理はすべて食べてしまったからね。これからは、担当シェフの個性、創作性を存分に確かめていきたい。ただ、できるだけ季節の食材を取り入れるようにしてほしい。トマトだけは絶対にダメだけど。それと、飲み物も君たちに一任しよう。赤ワインとアセロラジュース以外だったらなんでもかまわない」
料理が運ばれてきた。豆腐と旬の魚介のオードブル、ピーマンやえんどう豆など本来生食には適さないはずの野菜を活用したサラダ、収穫したてのトウモロコシでつくった冷製ポタージュスープ、主菜のひとつは北海道ニシンのムニエルだった。どれも味も彩りも見事だった。
ハリ孝之拷問官は、医師免許を持っているだけあって、さすがプロと呼ぶべき仕事をしてくれた。彼は、どうやったら効率よく人を痛めつけられ、なおかつ対象の体を壊さないでいられるかを熟知している。春樹が苦痛に苛まれるよう様々なやり方を創作する一方で、決して後遺症を残さないようにしてくれるのだ。どんなに顔面を殴られたとしても、歯は一本も欠けていない。顎への負担も最小限で、やわらかいものなら問題なく、おいしく食べられる。口の中の傷にソースがしみることにも、すっかり慣れてしまった。
まもなくして、メインディッシュが運ばれてきた。尻肉からモモ肉にかけての分厚いステーキ……春樹の大好物だ。
「まったく! せっかくジムで運動したというのに、毎日おなかいっぱい食べてちゃ、いつまでたっても痩せられないじゃないか」
春樹は文句を言いながら肉にナイフを挿し込み、切り分けた。
「ん……?」
ナイフがストンと皿まで落ちた。その途端に、春樹は固まった。なぜならお肉の内側が、バラのように真っ赤だったからだ。
春樹は奇声をあげながら、テーブルを思い切り叩いた。いや、そんなことしても意味がないとすぐに気づき、皿を取るなり肉ごと壁に叩きつけた。
あまりに突然のことで、ウェイターはふたりとも飛び上がった。どちらも春樹の二倍以上の年齢であるにもかかわらず、その癇癪に心底おびえた様子だった。
「僕にサーブするときは、真っ黒になるまで肉を焼けと言っただろうが! さっさと作り直させろ! いや、別のシェフを呼んで、そいつにつくらせるんだ! ステーキを生焼けにするマヌケは、二度と僕の厨房に立たせるな!」
ウェイターのひとりが、あわてて部屋を出ていった。
春樹は、椅子に座り直すと、歯を食いしばってそれ以上の癇癪を抑えた。クソが! よりによってレアだと! 中がほとんど生のままじゃないか。肉、血の滴る肉……赤色の肉……なんで、僕がこんな目にあわなくちゃならないんだ……
「飲み物を」
春樹は言った。
残っていたウェイターが、飛び散った肉と、粉々になった皿を片付ける間もなく、あわてて飛んできて、春樹の目の前に新品のシャンパングラスを置いた。ボトルから液体を注ぐと、砂時計の砂のようにきめ細やかな泡がグラスの底から湧き立ち、さわやかで甘い香りが春樹の鼻に押し寄せた。
「ペプシです」
ウェイターが言った。
「ありがとう」
春樹は言った。
食事が終わると、春樹はラウンジで読書をした。コーヒーと一口サイズのチョコレートをつまみながら、革張りのソファーに身を沈め、お気に入りの本を読んだ。すなわち、東京都市出版の「電気工事施工管理・基礎編」だ。キルヒホッフの法則を知ることで、オームの法則への理解が一段と深まることを春樹は学んでいた。
読書をしているうちに、眠くなってきた。もう十一時ごろだろうか? 時計がどこにもないせいで、正確な時刻はわからないけど、きっとそれくらいのはずだ。好きな時に好きなことができる今の生活になってから、時間なんてものは無意味な概念になっていた。だから、春樹の独自のこだわりにより、時計のような道具はいっさい取り払っていた。もちろん早起きの必要だってないけれど、それでも健康のため、少しでも眠くなったら寝るようにしていた。
今日も、いい一日だった。生きているとはなんと素晴らしいことなのか。春樹は満足して、病室も兼ねる自分の寝室に戻った。
ベッドの横に、拷問官のハリ孝之が座っていた。ユウナ博士が、春樹の見舞いにやってきてときに使ったあの椅子に……春樹が生まれて始めて拷問を受けたあの椅子の上に!
吐き気がこみ上げてきた。消化して、便として処理するはずだった全てのモノが、そうなる前に引き返したいと、春樹の内蔵をドアのように叩いていた。オードブル、サラダ、スープ、チョコレート、それからウェルダンに焼いたステーキ、そのすべてが押し合いへし合いしながら食道に迫ってくるようだ。春樹は手で口を抑え、震える声で言った。
「きょ、今日はお休みでは?」
「その予定だったが、供給量が足りていない」
ハリ拷問官は言った。
「先月のテロ以来、ヤツらの活動も目に見えて増えているのだが……問題は、血の『結晶率』が近ごろ低くなったことだ。君がどんなに血を流したとしても、それが固まって武器とならなければ意味はない。痛みを感じた際に結晶化する性質を鑑みれば、血が固まらない原因は、君が痛みに慣れたからだと思う。だから、今から新しい方法を試したい」
「いやです。今日は、かんべんしてください」
春樹は震えていた。吐き気と悪寒が、洪水のように体を駆け巡り、毛穴という毛穴から汗が吹き出した。そんな状態でどうして立ったままでいられるのか、自分でも不思議だった。
「すまない。君が絶望すればするほど、結晶化の確率が高まることは、もうわかっているんだ」
ハリは、椅子から立ち上がり、早足で春樹のもとに近づいた。こんな震える足では、逃げようもなかった。ハリは、春樹の肩をつかむと、もう片方の手で思い切り腹を殴った。腹の中のものが、ドベドベと出てくる。真っ赤で鋭い石のような何かが嘔吐物の中に紛れ込んでいた。ハリは、それを素手でひろいあげた。
「上出来だ。しっかりと結晶化している。やはり内臓の血でできた結晶は、大きくて美しいな……」
いつも血だらけにしているのに、これ以上、部屋の絨毯を汚していいのだろうか? スーツだって、せっかくのおろしたてなのにこのザマだ。床の汚物の上に崩れ落ちた時、腐った便所以下の臭いが鼻経由で脳天に押し寄せた。春樹は、それがトドメとばかりに気絶してしまった。