月面ラジオ {45 : フンザ(2) }
あらすじ:大昔、世界の果てまで家でしたときのことを彦丸は振り返る。
◇
◇
びっくりするくらい大きな眼鏡をかけたやせた女だった。
赤毛を三つ編みにして、頭のうしろに縛りつけている。
たぶん二十代の真ん中くらいだろう。
緑色のナイロン生地のウィンドブレーカーを着て、登山用の道具でパンパンに膨れたリュックサックを背負っている。
女は、彦丸の顔をまじまじと見た。
彦丸が英語を話せるかどうか疑っているのだろう。
こんにちは。
エリン・エバンズっていうの。
私もここにテントを張りたいんだけど、おとなりに泊まってもいいかしら?
変わった人だと彦丸は思った。
こんなところで見知らぬ人に声をかけるのもおかしいし、いちいち許可を求めるのもどうかしている。
あたりは荒野で、こんなにも広々としているのだから、好きなようにすればいい。
彦丸だって誰にも許可をとらないで勝手にテントを張っているのだ。
とはいえ、尋ねられたからには返事をしなくちゃいけない。
「だめだ。」
「え?」
エリンは顔をしかめた。
「いまなんて? ここはあなたの土地?」
「ちがう。」
「ならどうして?」
「どうしてと言われても、許可を求めたのはそっちだろ? だから返事をしただけだ。わかったらさっさと帰ってくれ。」
疲れているのに他人にかまっている時間はなかった。
休んでいるそばで騒がしくされても困る。
だめだと言ってどこかに行ってくれるなら上々だろう。
彦丸はテントの中にひっこむと、また寝袋に寝転んだ。
いや寝転ぶというよりも、ぶっ倒れるといった方が正確かもしれない。
とにかく、彦丸の意識は飛んでいった。
◇
「超伝導体は翼である!」
威勢のいい女の人の声が聞こえた。
「超電導体は磁石のようなありふれた物質ではない。磁場に対して過剰ともいえる反応を示す。もう一度実演してみよう。」
ふと気がつくと、彦丸は大学で講義を受けていた。
古い大学だった。
石の壁に囲まれた講義室……
座席は教壇を中心にして、劇場のように半円状にならんでいた。
目の前には実験用の大きな机と黒板あった。
ランプの光はうす暗く、チョークの匂いと、窓枠に積もったほこりの匂いが混じり合っていた。
建てものが古いというよりも、時代そのものが古かった。
ここは中世、もしくは近世のヨーロッパだった。
たくさんの子どもが授業を受けていた。
彦丸よりもさらに年下の少年・少女たちが、高度な物理学の講義を受講しているのだ。
不思議なことに、みんな白い粉をはたいたカツラをかぶっている。
でも彦丸だけがヒゲだらけで、頭の半分が禿げ上がっていた。
鏡はないけど、自分はガリレオ・ガリレイになのだと直感した。
教授は、長い黒髪の見知らぬ女性だった。
目が悪いせいで、顔がよく見えない。
「板書の字が読めないのか?」
教授は大きな声で彦丸に話しかけた。
「いったいどうしたんだ?」
「望遠鏡で太陽を見たんだ。」
彦丸ことガリレオ・ガリレイは答えた。
「それで目をやられてしまった。」
「なぜそんな危険なことを?」
「黒点を観測していたんだ。太陽の表面には黒い模様がある。そのすべては、同じ方向に動いている。太陽が自転しているからだ。地動説を証明する根拠となるはずなんだ……」
教授は教壇の上にチョークを置いた。
「地動説を証明するのはそんなに重要なことなのか? 視力を失う価値はあるのか?」
「わからない。」
彦丸は首を振った。
「それが重要かどうかなんて考えたこともない。ただそうしたいだけなんだ。そうしないではいられないんだ。僕が僕である限り……」
彦丸は目を覚ました。
気がつけば、あたりはすっかり暗くなっていた。
彦丸は重たい体を起こした。
氷のような冷えこみに体が震えた。
もう一度寝袋にくるまり、心ゆくまで眠りほうけていたい。
夢を見ていたようだ。
記憶は定かじゃないけど、女の人と話していたような気がする
メガネをかけていて、僕のことをえらく心配していたような気がする。
あれ、眼鏡はかけていなかったっけ?
髪は黒色だったような気もするし、赤毛だったような気もする。
よくわからない。
あれはいったい誰だったのだろう?
彦丸は時計を見て飛び上がりそうになった。
深夜の三時だった。
信じられない、半日近くも眠っていただなんて。
まずい、と口走りながら寝袋のファスナーを開けた。
グズグズしていると夜があけてしまうじゃないか。
さすがに万全とはいかないまでも、体は軽くなっていた。
彦丸は、手探りでカバンから撮影機材を引っぱり出して外に出た。
外はそら恐ろしいほど暗かったけど、そばに置いてあったランタンの灯のおかげで、あたりの様子はなんとなくわかった。
ランタンを用意したのは昼間にやってきたあの人だった。
エリンがいた。
折りたたみ式のイスにすわって、背もたれに寝転ぶような姿勢で空を見ている。
その背後には、僕は許可した覚えがないけど、立派なテントが建っていた。
彦丸は、エリンにかまわず撮影の準備をはじめた。
カメラに広角レンズをはめ、三脚を開いて地面の上に置いた。
「すまない。」
エリンを見もせずに彦丸は言った。
「撮影の準備が終わったらランタンの灯を消してほしい。三十分くらいで終わらせるから。」
「いやだ。」
エリンが言った。
彦丸は顔を上げた。
エリンはイスに座ったまま、その大きなメガネ越しに彦丸を見つめていた。
彦丸は口をぽかんとあけ、何か言おうとしたけれど、けっきょく口を閉じた。
言うべきことがわからなかったし、抗議する気も懇願する気も起きなかったからだ。
「わかった……」
彦丸は言った。
「僕が移動するよ。」
彦丸はカメラを取り付けた三脚を抱えて歩きだそうとした。
その時、ふと辺りが暗くなり、なにも見えなくなった。
エリンがランタンの灯を消したのだ。
唐突に。
撮影のために灯を消したわけじゃない。
まだ準備が終わっていないのに、いきなり真っ暗になったら何もできない。
それどころか歩くことすらおぼつかなかった。
「いったい、なんなんだ!」
彦丸は抗議の声をあげた。
ガチャン!
彼女に向かって一歩踏み出そうとしたが、三脚に足をぶつけてしまった。
まずい!
彦丸はあわてて三脚をつかもうとしたけどすでに遅かった。
「カメラが壊れる!」
ガシャンという不吉な音がなることを覚悟したけど、しかし何も聞こえてはこなかった。
三脚は倒れかけたままの状態で停止していた。
エリンがを支えてくれたのだ。
彦丸とちがって闇夜に目が慣れているのだろう、とてもすばやい身のこなしだった。
彦丸は固まってエリンを見つめた。
なんと言えばいいのかわからなかった。
彼女のせいで倒しそうになったのだから、お礼をいうのも変な感じだったけど、なんとなくお礼をいいたい気分でもあった。
「ありが……と……ん?」
しかし言葉に詰まった。
なんとなれば、三脚の先にあるはずのカメラがなくなっていたのだ。
地面に落としたわけじゃない。
落としたなら音ですぐわかる。
カメラは、エリンの手の中にあった。
「返してくれ。」
彦丸は言った。
「まるでガリレオね。」
エリンはレンズを覗きこんで言った。
「ずっと宇宙を見ている。」
「そんなことを僕は話したのか?」
あぁ、そうだった……
寝ている間に彼女が僕のそばで看病をしていてくれたような気がする。
いや、気がするのではなく、事実そうなのだろう。
彦丸はやっと思い出した。
異変に気づいたエリンがテントに入って水をくれた。
寝苦しくてうわごとを言う僕のかたわらにずっといてくれたのだ。
レスキューを呼ぼうかとエリンは言ったけど、僕はそれを断固拒否して、彼女はひどく困った顔をしていた。
だとしたらあの夢は……
彦丸は急にはずかしくなった。
「笑っているのかい?」
彦丸はエリンの顔を見た。
少しずつ暗闇に目が慣れてきた。
エリンは笑っているように見えた。
「いいえ。敬服してるのよ、本当に。ガリレオは私が尊敬している人のひとりよ。」
「僕もだ。」
彦丸は言った。
「だから、やると決めたことはやり遂げるし、主張は曲げない。ガリレオはたとえ失明しても望遠鏡を見続けたんだ。」
「そうね。そうあるべきね。」
エリンがカメラを顔から離した。
「でもいまのあなたの行動はいただけないわ。あなた、さっきまで倒れていたのよ。」
「僕なら平気だ。ちょっとくらい体を壊したってかまわない。この程度のことで壊れる体なんていらないくらいだ。」
「どうしてそんなに思いつめているのかしら?」
エリンは静かに言った。
まるでため息を付いているかのようだった。
「妥協したら前に進めなくなるからだ。前に進まなくちゃ宇宙には行けない。僕は宇宙に行くんだ。そのためならなんだって捨ててみせる。時間もお金も、故郷も家族も……」
「それに友達も?」
彦丸はうなずいた。
ふたりにはもう会わない。
黙ってアメリカに出発するつもりだ。
「ここで撮った写真を送ってそれを最後の手紙にするんだ。だから……お願いだから邪魔しないでほしい。」
信じれないことに、彼女はクスクスと笑っていた。
「やっぱり笑ってるんだね?」
「しかたないでしょ。」
エリンは言った。
「ガリレオが望遠鏡の見過ぎで失明したのって都市伝説よ。」
彦丸はポカンとした。
「当然でしょ? ガリレオ・ガリレイが底なしの間抜けだってなら話はわかるけど、失明するまで望遠鏡なんてのぞけるわけないでしょ? 彼は望遠鏡を安全に使う方法を心得ていた。失明の本当の原因は、緑内障や白内障というのが通説よ。七十歳を過ぎたガリレオがなったって不思議じゃない病気だと思う。」
彦丸は何も言い返せなかった。
確かにエリンの言うとおりだ。
ガリレオが間抜けなわけがない。
対して自分はどうだ?
すこし考えればわかるようなデマを鵜呑みにしていたのが急にはずかしくなった。
「でもあなたは本当に失明をしてしまいそう。それはとってももったいない。世界はこんなにも美しいのに。」
エリンは顔を上に向けた。
「さっきからあなたはカメラばかり見ているけれど、たまにはゆっくり星空を見たらどう?」
彦丸も空を仰いだ。
薄い氷のような空だった。
心臓が止まりそうになった。
「うそだろ……」
こんなに輝く空がそこにあったというのに、どうして今まで気づかなかったのだろう?
ダイヤの粉塵をまぶしたところでこうはならない。
夜空に圧倒されたのは初めてだった。
「いまのは……流れ星?」
仰ぎ見ているうちに、ひっかき傷のような白い線が、ほんの一瞬だけ空に現れたような気がした。
「さっきから、何度も流れているわ。やっと気づいたってわけね。」
うまれて初めて流れ星を見た。
いや、それどころか、実家の窓からでも見えるような惑星だって初めて見た気がした。
キャンプで天体観測をしていた時も、彦丸はいつも望遠鏡の話ばかりで、肝心の星をあまり見ていなかった。
また白いひっかき傷があらわれた。
「まただ! 落ちた!」
彦丸は興奮して言った。
「月美、流れ星だ。今度こそはっきり見えた!」
カァーと顔が熱くなった。
間違えた。
「月美って?」
「友達だ。年下の女の子で……僕はその子のことが好きなんだ。」
自分でも不思議なほど言葉がすらすらと出てきた。
月美はよく流れ星を見つけていた。
でも僕は一度もみたことがなかった。
視力のせいだと思ってたけど、ちがうみたいだ。
空をちゃんと見ていなかっただけなんだ。
「帰ったら月美に気持ちを伝えるよ。」
彦丸は続けた。
「一緒にアメリカに……宇宙に来てほしいって。でも……」
「でも?」
「返事がどんなものでも僕はやっぱり宇宙に行くよ。たとえひとりでも……どうしても僕はあそこにいきたいんだ。」
「そう……」
エリンはうなずいた。
カメラを肩にかけたまま、空に視線を戻した。
彦丸もだまって星を見た。
それからテントに戻り、静かに眠りについた。
◇
翌朝、エリンがチャイを淹れてくれた。
椅子に座って温かいマグカップを握りながら彦丸はエリンと話をした。
お別れのときが近づいていた。
彦丸の出発の時間がせまっているのだ。
すでにテントを畳み、荷物をあらかたリュックサックにしまったあとだった。
彦丸はこれまで旅した場所と、これからどこに行くつもりなのかを話した。
彼女も同じような話をした。
彼女が最後に言ったひとことに、彦丸は身を乗り出して叫びそうになった。
「国に帰ったら月に行くわ。じつは宇宙飛行士なの。」
「宇宙飛行士だって?」
彦丸は興奮すると同時にがっくりうなだれた。
どうして出発の直前にそんな大切なことを?
聞きたいことがいっぱいあったのに……
「どうしたの?」
「こんなところで宇宙飛行士に会えるとは思ってなかったから。」
「飛び上がっておどろくほどのこと?」
彦丸は、自分が田舎者丸出しで、急に恥ずかしくなった。
「この世に宇宙飛行士なんてものがほんとうにいるだなんて。今まで一度も会ったことがなかったから。」
「それを言ったら、宇宙だってそうでしょ? ほとんどの人は宇宙に行ったことがない。あなたも、私も行ったことがない。宇宙ってほんとうに存在するのかしら?」
「それはまあ、確かに……そうだけど……」
エリンはポケットの中からガラスの小瓶を取り出した。
「私が宇宙飛行士だっていう証拠をあげるわ。」
中に何が入っているのひと目でよくわからなかった。
顔を近づけて見ると、瓶には砂が入っていた。
彦丸は瓶をうけとって、陽にかざしてみた。
「なんだろう?」
かなり細かい砂だ。
一粒一粒がするどく尖っていて、キラキラ光を反射している。
「月の砂よ。宇宙飛行士といっても本職は地質学者なの。月の地層の研究をしているわ。」
エリンは胸を張った。
「自分で採集したわけじゃなくて、先に月に行った人からのお土産なんだけどね。」
「こんな貴重なものをもらっていいのかい?」
「もちろん。それに、そのうち貴重なものではなくなると思う。そうでしょ?」
彦丸はうなずいた。
そのうち誰もが宇宙に行ける時代がやってくる。
その時代は僕たちが作るんだ。
「聞きたいことがあるんだ。」
彦丸はずっと気になっていたことをたずねた。
「エリンも同じ宿にいたよね?」
昨日、彦丸は麓の村で宿をとって、キャンプで使わない荷物だけおいてそこを出てきたのだけど、同じ宿でエリンの姿を見かけたような気がしたのだ。
聞けば、エリンはここでキャンプをするつもりはなかったけど、熱にうなされながら出ていった彦丸のことが心配になって、こっそりついてきてくれたらしい。
彦丸はそのことについて精一杯お礼を言った。
元気になってよかってね、とエリンは言ってくれた。
「また会えるかな?」
彦丸は言った。
「あら、私の連絡先が知りたいってこと?」
「いや。」
彦丸が首をふると、エリンはなんだか苦い顔をした。
「僕も月に行くんだ。そうしたらまたあなたと会えるかな?」
エリンはニコリと笑った。
最後に別れるとき、エリンがカメラを返してくれた。
そういえば、カメラのことをすっかり忘れていた。
急いで出発の準備をしたので、装備品の点検をしそこねたせいだ。
カメラを受けとる時、エリンが僕にレンズを向けてからシャッターボタンを押した。
彦丸は、星の写真のかわりに、この時の写真を月美に送ることにした。