{ 35: 夕闇の都市(2) }
それから数日後、春樹は、ロウに連れられて「二十二階の街」を歩いていた。赤い目でいっぱいの街中を、だ。それは、春樹にとって、猛獣のいる檻の中で綱渡りをするくらい空恐ろしいことだった。
「今日こそ仕事を手伝ってもらうぞ!」
そう言って、自分を外に連れ出そうとするロウに春樹はベッドにしがみついて抵抗した。にもかかわらず、結局、むりやり引っ張り出されてしまった。伏し目がちになりながら、しかし同時にキョロキョロ辺りを警戒しながら歩いている春樹の背中をロウが思い切り叩いた。
「案外なんとかなるじゃないか!」
「そりゃ……」
春樹はゴホゴホと咳込みながら言った。
「なんだかんだで、赤いものにも慣れてきたわけだし……」
「トマト作戦が成功したんだな。毎日、湯剥きして炒めた甲斐があったってもんだ」
ロウは得意げに言った。
「どうだ? いったん外に出てしまえば、どうってことないだろ?」
「そうだね……でもやっぱり怖いよ。もっとはやく歩こう」
春樹は、行き先すらわかっていないくせに早足でロウの前に進み出た。
「ようやく元気が出てきたな」
というロウの声が春樹の背中から聞こえた。
◇
「こっちだ」
まもなくしてロウは、狭い路地に入った。そこからは、迷宮だった。
建てものに挟まれた路地が、奥まで伸びていた。路地というよりも、もはや隙間と呼べるくらい狭い道だった。しかも、その小道は右に左にと分岐して、途中にいくつもの階段を挟みながら、延々と奥まで続いている。
考えてみれば、あたりまえだった。どんなにデタラメに大きくとも、「黒い塔」だってやっぱり建てものなのだ。その建てものの中に街を作るとなると、ビルやアパートはどうしてもギュウギュウ詰めになってしまう。
路地には、住民が窓から投げ捨てたであろうゴミが散乱していた。排水が水たまりを作っている。上を見れば空調の室外機がモザイク模様をなし、電気ケーブルや水道管が蔦のように壁を巡っていた。この二十二階で初めて目覚めたとき、春樹はゴミ捨て場にいたわけだけど、あの場所も、思い返せばこのような路地だった。
こんな場所であっても、歩行者が少ないわけではない。表通りと同じく、路地にも小さな食堂や雑貨屋がひしめき、おかげで度々誰かとすれ違った。そのたびに相手と肩がぶつかりそうにもなった。ここらは乾物屋も多いようで、ホタテの貝柱を濃縮したような強烈な匂いがあたりに立ち込めていた。
春樹は、道行く歩行者と、店頭で仁王立ちして客を待ち受ける店主たちが、自分の顔をのぞき込んでいるような気がした。僕の瞳の色が赤でないことに、ここの住民たちは気づくだろうか? もしも気づいてひと騒ぎ起きたら、通報されるかもしれない。
通報……果たしてこの黒い塔に警察なるものが存在するのか? いや、警察ならまだマシだろう。万が一にも、動物の仮面をかぶった連中がやってきたらと思うと、ゾッとする。
目的地までまだしばらく歩くらしい。路地は長く、複雑で、自分がどこにいるのか、あっという間にわからなくなった。慣れた足取りでロウが進んでいくのに対し、春樹は、慣れない道をおっかなびっくりで進まなければならなかった。おまけに、グルグルに巻いた電線ケーブルを両脇に抱えていたので、ただ歩くにしたって大変だった。先行くロウの背中を見失ったらどうなるのだろう、という考えが頭を何度もよぎった。ロウの部屋に帰る自信はもうなかった。
「今日はいったい何をするんだ?」
ずんずん突き進むロウの背中に春樹は声を投げかけた。少しでも彼の気を引いて、置いてけぼりになるのを防ぎたかった。
「話してなかったかな?」
ロウが背中越しに言った。
「電気工事の仕事だよ。春樹は俺の助手だ」
「現場はどこなんだ?」
「このさきのダイセン地区にあるボロっちぃアパートだ。そこの住民が屋上に部屋を増設したから、電線を引っ張ってそこで電気を使えるようにするんだ」
「ペントハウスってわけか。ステキだね」
「ステキかどうかは知らんが、部屋に電気を通すのをすっかり忘れていたらしい。工事が終わった後に気づいたんだとよ。この時期でも、冷房か扇風機がつかにゃ暑くてとても住めたもんじゃない。先方からは『さっさと工事をしてくれ』とのお達しだ」
ダイセン地区の現場につくと、そこはロウのアパートに負けず劣らずの粗末な建てものだった。入り口の階段にはスナック菓子の空き袋が落ちているし、建物内の壁に設置してある各部屋の郵便ポストは、半分くらい壊れていた。廊下もホコリとシミだらけだ。まさにボロアパートの面目躍如といったところか。
ホコリ臭い上に、狭っ苦しい。この点も、やはりロウの住居とおなじだった。郵便ポストがさっと数えられないほど壁にギッシリなのを見ると、たくさんの部屋が建物にギッシリ詰まっているのだろう。
「ここは何階建てなんだ?」
春樹はアパートを見上げながらたずねた。まるで鉛筆をおっ立てたような細い建てもので、狭っ苦しさが目につく一方で、高さはそれなりだ。
「さぁね」
ロウは、肩をすくめてみせた。
「たぶん十階建てじゃないか? ダイセンは古い地区だから、それくらいの建物がほとんどだ」
「塔の二十二階に街があって、その街に十階建て屋上ペントハウス付きのアパートがあるわけか。なかなかややこしいじゃないか」
ロウがアパートの奥に進んでいった。春樹も両脇の下の電線ケーブルを肩の上に抱え直してロウに続いた。
「配電盤はどこにあるんだ?」
春樹はたずねた。
「奥だ」
ロウは答えた。
「一階にあるのかい」
「そうだ。さっさとこっちに来い」
「ここから屋上まで電線を伸ばすわけか……たいへんそうだ」
配電盤とは、発電所から電気を受け取る機械で、アパートの各部屋の電気は、その配電盤が供給している。春樹の初仕事は、配電盤からペントハウスまで電線を伸ばす工事というわけだ。
ロウに案内され、現場の配電盤を目撃した春樹は、「こいつは大変なんてものじゃないぞ」と思わずこぼしそうになった。ビル設備マニアの春樹の与り知る配電盤とは似ても似つかない代物だったからだ。
なんとなれば壁一面に電線のケーブルが張り巡らされている。しかもどのケーブルをとっても、こんがらがっていないものがない。細い蛇か極太のミミズが無数にからまり、のたくっているように見えた。あまりにも汚いし、古い。春樹の目測では、五〇年ほど前から継ぎ足し、継ぎ足し工事してきたようなケーブルの混線具合だった。徹頭徹尾ザツな仕事で、しかも埃だらけで、いつ何時ここから電気が漏れて火災が起こっても不思議じゃない。
「さて、客の部屋に新しい電線を通すわけだが……」
ロウは言った。
「どこから電気をちょうだいしようかね。最近、このアパートに空き室が出たはずなんだ。そいつんちの電線ひっこぬいて、俺たちの新しい電線と付け替えるのが一番はやいんだが……」
「それは、いま僕たちが決めなきゃならないことなのか?」
春樹は言った。
「なにしろ仕事なもんでな」
「いや、僕が言いたいのは……その、なんというか、工事計画的なものはないのかってことだ」
「部屋に電気を通すだけだぞ。なんで計画が必要なんだ?」
「せめて、配線図はないのか?」
「あるかもしれないが、俺は持ってないな」
「いいのか? 無許可で工事して?」
「住民の依頼で仕事をしているんだから、許可ならあるさ」
「そうじゃなくてさ……もっとこう……ビルの管理会社とか、施工会社とか、電力会社とか、色々話を通すもんじゃないのか?」
「は? なんで?」
ロウは、心底不思議そうな表情で春樹を見ていた。ビル設備管理マニアで、高校生ながら電気設備にも詳しい春樹にとって、いたって常識的な提言をしたつもりだった。でもロウの顔を見る限り、この塔ではどうもそういうわけではないようだ。
「なんでもない。気にしないでくれ」
春樹は言った。
「さっさと工事をすませるぞ」
ロウは気を取り直して言った。
「午後から別の仕事があるからな。昨日からフグタのばあさんちの部屋の電気がつかなくなったらしい。どうせ誰かが勝手に工事をして、ばあさんちの電線を引っこ抜いたんだろうよ」