{ 33: 黒い塔(3) }
建物は、大通りに面していた。やはり、赤い目が闊歩するあの街の一端だった。春樹のいる建てものと同じようなビルがずらりと並んでいて、食堂や雑貨屋、食料品店などが軒を連ねていた。
昼のかきいれ時も一段落したようで、いまは午後の穏やかなひとときだった。往来もまばらで、食堂の店主たちも店頭のテーブルで休憩していた。
ロウの言う通り、たしかにここは街なのだろう。でも春樹の知っている街とは大きく違った。
最初に気づいたのは、ここが目抜き通りで街の中心であるにもかかわらず、車が一台もないということだった。代わりに、団子を焼く屋台や、ゴザの上に日用雑貨を並べる露天商たちが、道端で店をかまえていた。
次に気づいたのは、陽がいっさい差さないことだ。曇っているわけじゃない。そもそも空が見えないのだ。
理由はすぐにわかった。いや、今になってやっと気づくことができた、というべきか……ここは建物の中なのだ。春樹の立っているこの街は、建物の中にあるのだ。
「し、信じられない……」
今見ているものが、真実なのか確かめなければならなかった。だから春樹は、できるだけ目を伏せ、赤い目の視線に耐えながら往来を横切った。
通りを突っ切ればロウの暮らす雑居ビルの向かい側につくわけだけど、そちらに建物はなかった。眼の前に広がるのは、奈落の穴とでも呼ぶべき大空間だった。
「こ……ここは、回廊なのか?」
右に左に、上に下に、首の関節をあらんかぎり回しながら、春樹は周囲を見渡した。
たしかに回廊には違いない。吹き抜けとなっている回廊だ。中央に正方形の大穴があり、その縁に沿って真四角の廊下が設置されている。ただし、この建物の回廊は、フットボールのコートより遥かに広大だった。それどころか、手すりから体を乗り出しても、穴の底が見えなかった。顔を上げても、延々と建物が続くばかりで、空も天井もない。春樹の立っている街の通りは、この大回廊の一端であり、残りの三方の廊下でもここと同じような街並みを見ることができた。
度肝を抜かれるとは、まさにこのことだった。カンパニーだって吹き抜けの超高層ビルで、初めて訪れたときはとびきり驚いたものだけど、ここはケタちがいだ。火葬炉を抜け出して牢獄をさまよっていたとき、そこはやけに大きな建物だと思ってはいたけれど、「やけに」どころじゃない。とんでもなく大きな建物のただ中に春樹はいたのだ。そして、いまだその建てものから出られていない。牢獄も、この街も、巨大建造物のほんの一部でしかないのだ。
吹き抜けは深く、地上に降りるまでどれくらい歩かなければならないのか見当もつかなかった。病み上がりなことも相まって、頭がクラクラする。
「あまり乗り出すなよ。回廊の手すりは頑丈だけど、崩れることもたまにはあるからな。上からゴミだって落ちてくる」
ロウが春樹に追いついて言った。
「上にも街があるのか?」
「おうよ。ついでに言うと、下にもな」
ロウの言う通りだった。ここからはるか頭上に、そしてはるか足下にも、別の街の影が見えた。これらの街は、いま春樹たちのいる「二十二階の街」がそうであるように、電灯の光で照らされていた。どちらも遠くて、住民の姿は見えなかった。
「ここが二十二階だって? 百階と言われたって納得できないぞ。だって地面が見えないじゃないか?」
「そう言われてもなぁ……あ! あれを見てみろ」
ロウが、斜め上方を指でさして言った。吹き抜けの大穴をはさみ、春樹たちがいる場所とちょうど反対の上側に建物が見えた。
建物の中に建物があると言うもの妙な話だが、断崖絶壁のようなこの吹き抜けのさなかに建物があるのだ。まわりの雑居ビルと趣の異なる古めかしい建物だった。その建物の窓には、すべからく鉄格子がはめてある。鉄格子……つまり、あれは牢獄の窓ということだ。
「春樹が捕まっていたのはあそこじゃないか?」
ロウは言った。
「二十三階、『牢獄の森』だ。塔に侵入した人間を捕らえておくための施設で、処刑場と墓場も兼ねているらしい。俺は、ここより上に行ったことがないから詳しいことはわからないけど……うん、あんな場所からここまでよく無事に逃げてこられたな!」
「なんて大きさだ」
春樹は、吹き抜けを見上げ、あんぐりと口を開けた。
二十二階と二十三階の間だけでも、ちょっと信じられないほどの高低差だった。ひとつ上のフロアに行くのさえ、かなりの遠出のようだ。目的地が見えているにもかかわらず、どうやってあそこまでたどり着けばいいのか、春樹には見当もつかない。
「デタラメもいいところだ。いったいなんなんだここは……」
「ここは中央回廊だ。俺たちは塔のど真ん中にいるのさ」
「と、塔……まさかほんとうに?」
「そのまさかさ」
何がそんなにおかしいのか春樹にはまったく理解できないが、ロウはさも楽しげだった。
「花の都、大東京に鎮座召しますあの『黒い塔』だ。我らがシュオの世界へようこそ。人間だって大歓迎だ」
◇
黒い塔と聞いて春樹は心底身震いした。だって黒い塔と言えば、バケモノが住むとも、テロリストが住むとも言われているあの塔のことじゃないか。
「東京のどこからでも見られる巨大建造物……黒い塔には、決して近づいてはダメだ……」
春樹は子どもの頃からそう言われてきたし、それはどこの家庭でも同じだった。塔に近づけば、バケモノに誘拐されて食べられてしまうのだ、と親は子どもを脅す。それは、躾として当たり前のことだった。春樹は、毎日のように塔を見上げて暮らしていたけれど、決して近づいたことはなかった。これからも決して訪れる機会はないと思っていた。なのに、よりにもよってその黒い塔に僕は囚われている?
春樹は頭を抱えた。赤い目の住民たちとロウが人食いのバケモノかどうかはこの際どうでもいい。さきほどの煮込み料理はなんの肉だったかなんて訊くつもりもない。バケモノが子どもを食べちゃうだなんて話を無条件で信じ込むほど、僕はもう子どもじゃないのだ。
そんなことよりも、全員が全員、真っ赤な目をしていることのほうが春樹には問題だった。しかも、その中で戦士と名乗る動物面のヤツらは、僕を誘拐し、焼き殺そうとした。ようやく理解できた春樹の境遇は、ひとことで言ってしまえば、次の通りである。
この塔にいる何百、何千ともつかない住民の視線を避けながら、今にでも僕を追ってくるかもしれない動物面どもの追跡を逃れ、奈落の底に潜るつもりで二十二階分もの長い長い階段を下りて、地上まで到達しなければならない。
さもなくば、僕は永久に家に帰れないだろう。果たしてこの塔から無事に脱出できるのか? 僕が捕まっていた理由がもしもロウにばれたら……僕の血が、一滴でも入れば体が燃え上がる劇毒だとバレたら……ロウは、僕をあの動物面たちに売るのだろうか?
売るに違いない。こいつだって、ヤツらの仲間なんだ……
「おい、どうした? 顔がまっさおだぞ?」
ロウが僕の肩に手をおいた。
ほんの一瞬のことだけど、ロウの手が燃え上がったように見えた。それが恐怖から見た幻にすぎないことにすら、春樹は気づけなかった。
「さわるな!」
僕は、ロウの手を払い除けて言った。
僕はバカなのか? こんな大通りに飛び出して、たくさんの赤い目の前に姿をさらけだして……ここでは、僕こそが異邦人なんだぞ。黒い目をしたよそ者なんだ。はやく隠れなくちゃ。でもいったいどこに?
春樹はまた走り出した。呆然とするロウをその場に残して。ロウの住居に向かって、まっすぐ引き返した。