{ 15: 血のロビー(3) }
春樹は頭を抱えた。秋人たちが見つかったのはいいが、まさか人質として捕まっていただなんて。しかも秋人は気絶していて、父さんに至っては死にかけていた。
犬面の男……イッショウと呼ばれた大男は、秋人の片足をつかみ、体を引きずってレセプション・デスクに向かった。秋人の着ているシャツは、せっかく鈴子さんがアイロンをかけてくれたというのにすでにクシャクシャで、お腹の部分がめくれ上がって下着がのぞいていた。制服のネクタイだって、首吊り用のロープのように剣先が頭部へとずり上がっている。一方、レセプション・デスクの上で気絶している父さんは、なんとういか、親切でそこに寝かせてくれたかのように見えた。
「どうする?」
春樹は自分にたずねた。
決まっている。なんとかして二人をここから逃がすんだ。特に父さんの奪還は一刻を争う……だが、どうやって? 敵は文字通り百人力のバケモノで、春樹のかなう相手じゃない。たとえ不意打ち(背後から近づいてブスリだ)をしても倒せる自信はないし、仮に倒せてもまだ一人が残っている。とはいえ、ここで考えを巡らせたところで、まともな策をひねり出せるとも思えなかった。不意打ちだって? 一人だけでもテロリストの動きを止められるなら上等じゃないか。
「とっておきのをかましてやる」
後はロビーから走って逃げて、野となれ山となれだ。残りの一人が僕を追ってきたら、レセプション・デスクに捕まっている人たちも逃げ出すだろうし、その人たちが秋人と父さんを運んでくれるかもしれない。いけそうな気がしてきた。「やる」以外の選択肢はもはや残されていない。
しかし、とっておきの不意打ちをかましたのは、春樹でなかった。イッショウの右手から秋人の足首がすっぽ抜けた。イッショウがふりかえった。床から秋人の上半身が急に持ち上がったかと思うと、秋人は、斜め上方に飛び出すロケットのように体全体でイッショウにぶちかました。
「なっ……?」
イッショウが声をこぼした。
「な……」
春樹もイッショウとまったく同じように声が漏れた。
「秋人のやつ、気絶したフリをしていたんだ!」
イッショウは、秋人に押されて尻もちをついていた。秋人はイッショウにかまわず、デスクに向かって走りだした。
「父さん! 起きるんだ!」
秋人は、父さんの肩をゆすった。秋人が揺らした分だけ父さんの上半身は揺れ、目を覚ますことはなかった。秋人は、デスクの中に気づいた。たくさんの人がそこにうずくまっていて、さぞ度肝を抜かれただろう……こんな事態でも、誰ひとりその場から動こうとしなかった。みんな虚ろな目のまま、デスクの向こうから覗きこむ秋人の顔を眺めていた。こうなると秋人の判断は速かった。父さんの腕をつかむと、体を抱えてその場から離脱しようとした。
「みんな、にげろ!」
秋人は叫んだ。
デスク反対側の狐面は、黙ってその様子を見ていた。秋人が叫んでも、父さんを運ぼうとしても、彼女はそこから一歩も動かず、ひと言も発さなかった。本当にただ見ていただけなので、春樹はそのことに一番驚いたかもしれない。もしかして、春樹のいる渡り廊下を警戒しているのか? それとも、鼠面の男がそうしたように、吹き抜けのはるか上方を見ているのか? まるで、そこから誰かが降りてくると言わんばかりに。
秋人が父さんの体を持ち上げて、だらりと垂れるその腕を自分の肩に回した時、イッショウがデスクに向かって歩き出した。春樹は、それを見て立ち上がった。もう隠れている場合じゃないと、急いで西棟に引き返した。
◇
「社員専用通用口」とかかれた扉をあけ、そこにあった階段を降り、春樹は受付ロビーに飛びこんだ。渡り廊下から覗いていた時と状況は変わっていなかった。人質たちが四方八方、脱兎のごとく散っていると思いきや、あたりはシーンと静かなままだった。「逃げようがない……」と、もうみんな諦めているのだ。
ただひとつ変わったことがあった。イッショウが、秋人の首根っこを押さえていた。
「やめろ!」
そう叫んだのは、春樹ではなかった。なんと、狐面の女だった。
「あ?」
イッショウは、シャツの上から秋人の胸ぐらを掴み、その体を持ち上げながら狐面の女、スイレイを見た。秋人はまともに息もできず、両足をばたつかせていた。何度も相手の腰や太ももを蹴っていたけれど、イッショウは気にも留めていない。
「スイレイ……今なんて言った?」
イッショウは言った。
「ただのガキだ。殺す意味はない」
春樹は立ち止まった。いったい何が起きている? 大男の腕からヘチマのようにぶら下がっている秋人は今にも窒息しかけていたけど、狐面の女が男を止めようとしている。彼女に任せておけば、秋人は助かるのか? ロビーへ無防備に飛び出したにも関わらず、この場にいる誰もが、春樹の登場に気づかなかった。隠れることに意味があるのか分からないまま、春樹は観葉植物の鉢のそばに伏せた。
「殺す意味ならあるさ。人間は駆除対象だ。騒ぐヤツは始末しろというお達しもある」
イッショウは、秋人に視線を戻した。仮面の下なんて見えるわけもないのに、イッショウが笑っていると春樹は確信できた。人体を片手で持ち上げる腕力があるなら、その首を折るのも簡単だろう。
「なによりも、こいつはただのガキじゃない。俺たちに抵抗した戦士だ。俺はこいつに尻もちをつかされ、死にそうな目にあった」
「減らず口を……」
スイレイは、人質でいっぱいのレセプション・デスクを指さした。
「さっさと、この中に放り込め。見張りに集中しろ」
「わかっている。だが、首と背骨を折っておいたほうが、収まりはいいだろ?」
春樹は観葉植物の陰から飛び出した。立ち止まっていただなんて、僕は大馬鹿だ。
「イッショウ!」
スイレイが春樹に気づいた。
「うしろだ!」
「秋人を離せ!」
春樹は叫んだ。
イッショウがふりかえった。ついにテロリストに見つかってしまった。けど、そんなことはもうどうだっていい。秋人を助けなくちゃ。秋人は僕の弟だ。たったひとりの親友であり、僕自身でもある。
「バン隊長! 僕に力を!」
実際のところ、こんな芝居めいたことを言っている余裕はなかった(なにしろ小学校以来の全力疾走だった)。でも心の中でバン隊長の名前を呼んだのは確かだ。春樹は、右足のポケットに入れていたドライバーをテロリストにつきたてた。ドライバーは、春樹の手をすっぽ抜けた。刺しそこねたわけじゃない。春樹は、生まれて始めて他人を傷つけるつもりで腹に凶器を突き立てた……そのはずだった。なのにドライバーは跳ね返った。地面へと叩きつけたボールが、元の位置よりさらに高くジャンプするように、ドライバーはテロリストの肌を跳ね返って床を転がっていった。体に突き立てた凶器が、勢いよく跳ね返るだなんてありえない。でも、事実そうなった。こいつの肌は岩より硬いと、春樹のしびれる手は感じ取っていた。
気がつけば、春樹はドライバーの横に転がっていた。急に視界が真っ暗になったかと思うと、次の瞬間、吹き抜けの天井を仰いでいた。何が起こったのか理解できないでいるうちに、遅れて激痛がやってきた。
「ハ、ハウイ!」
秋人が叫んだ。秋人は、イッショウの手に爪をつきたて、足の裏で腹を蹴りながらいっそう暴れたが、その拘束が解けることはなかった。
春樹の顔から血が吹き出ていた。鼻がつぶれ、まともに呼吸もできなかった。殴られたのだろう……指先が動いたところすら見えなかったけれど、イッショウの拳が自分の顔にめり込んだのだと春樹は確信した。木の棒で石油缶を打ち付けるように頭がガンガン鳴っていた。立ち上がろうとしたものの、足腰ともに震え、床から体を起こすので精一杯だった。
「ア……キトをは、は……ハナせ!」
「おまえら知り合いか?」
イッショウが春樹を見て言った。秋人の体を右手から左手に持ち替え、喉元から首を絞め上げて、春樹にその様子を見せつけた。コーヒー・タンブラーか何かを運ぶような気軽さで秋人を扱っている。
「隠れてればいいものを。仲間を救い出すためにこの俺に立ち向かってくるとは……」
犬の仮面の穴からイッショウの瞳が覗いていた。春樹はその瞳を見て凍りついた。
「感動的じゃないか……言われたとおり、手を離してやらなくちゃな」
「や……やめてくれ……」
春樹は言った。いや……言おうとして言えなかった言葉の残りカスが、そんなふうに唇を震わせただけのことだ。春樹は、すでにゴキリというイヤな音を聞いていた。
イッショウが手を離した。秋人の体は力なくその場に崩れ、床に落とした布のように横たわった。秋人の首は、折れていた。
春樹は、イッショウに向かって走り出した。この男を、秋人と同じ目に合わせてやるということ以外なにも考えていなかった。
今度は、イッショウの動きが見えた。ヤツもこちらに向かってくる。ただし見えたからといって、どうにかなるわけじゃない。フライパンのような手が顔の前まで伸びてきたかと思うと、何一つ抵抗できないうちに春樹も喉もとを絞め上げられた。足が地面から離れ、メリーゴーランドに乗っている時のように体が持ち上がった。
「殺してやる!」
息の止まる前に春樹は言ってのけた。
「泣くんじゃねぇ」
イッショウは言った。
「お前もすぐに同じ場所に行くんだ……」
「やめろ、イッショウ!」
またスイレイが言った。
完全に怒声だった。
「ただの子どもだ!」
「テメェは黙っていろ!」
イッショウも怒鳴り返した。
春樹は、イッショウの手首から右手を離した。「確かここにしまったはずだ、頼むからここにあってくれ」と万感の願いを込めて自分のお尻をさぐった。
「まずい! 手を離せ、イッショウ!」
スイレイがレセプション・デスクの向こうから叫んだ。その叫びは、怒りに駆られたものでなく恐怖によるものだった。
春樹の右手にナイフがあった。牛仮面の男を倒したバン隊長のナイフだった。イッショウが遅れてそれに気づいた。
「うわぁぁぁ!」
まるで子供のような悲鳴だった。大男のテロリストがこんな風にわめくだなんて、想像もしていなかった……春樹の首を一周するほど巨大な手が、急に緩むのを感じた。イッショウは春樹を離そうとしたが、遅かった。春樹は右手を振り上げて、イッショウの首にナイフを突き立てた。
時間が止まった。イッショウは動かなかった。春樹は動けなかった。こんなはずじゃなかった。これと同じものが、牛仮面を倒したのを僕は見た。このナイフを見た瞬間、イッショウは叫んだ。こいつらの体がどんなに固くたって、このナイフだけは肌を通すはずだった。そのはずだったのに!
ナイフが、手からすっぽ抜けた。刃は、岩のような肌を通らなかった。落ちたナイフが、フロアのカーペットにサクッと刺さったにも関わらず。
「イッショウ、無事か!」
スイレイは、自分の持ち場を放棄してこの場に駆けつけた。
「あぁ……」
イッショウは呆然自失だった。
「ハズレだったようだ……」
「危なかった」
スイレイは、落ちたナイフを見て言った。
「本物なのか? どうして子どもがこれを持っている?」
「そんなことはどうだっていい!」
イッショウは、春樹の首を締め直した。それから空いている方の手で、春樹の顔面を殴った。春樹はふたたび背中から落ちた。殴られた痛みと、床にぶつかった衝撃で、口から血を吐いた。意識が飛びそうだったし、そうなればどんなに楽だろうか……
「イッショウ!」
スイレイが言った。
「黙っていろ! 俺はこいつを殺す! これ以上指図するなら、スイレイ、おまえもだ!」
イッショウは、仮面の下からツバが飛び散るくらい喚いていた。鬼を模した犬仮面の形相と、いまや怒り猛っているはずの素顔とで、果たしてどちらのほうが恐ろしいだろうか?
「こんなもんじゃねぇぞ! 体中から血がでるまで殴り続けてやる」
春樹は、イッショウの言葉を聞いていなかった。いや……聞こえなかったというほうが正確だ。かつてないほどの痛みが頭部を襲い、そのてっぺんから中身も飛び出したみたいだった。背中を叩きつけたせいで肺が痙攣し、鼻血が気道をふさいでいることも相まって、呼吸どころじゃない。腰より下は余すところなく痺れていて、いま現在も金槌で殴られているような感覚だった。もう二度と立てない気さえした。
二度と立てない……? 首の骨を折らた秋人のように……? 僕はこれから撲殺されるのだ。犬の仮面をかぶった赤髪の大男に……だから言ったろう、秋人? 赤、これより恐ろしい色はないって。
「待つんだ、イッショウ!」
これ以上イッショウの神経を逆撫でするものはないと思っていたが、そうでもないようだ。今のイッショウは、この場にいるたった一人の仲間にも殴りかかりそうなほどキレていた。
「おい、スイレイ……俺がいま言ったことを……」
「ちがう!」
スイレイはなおも言った。
「おかしい! お前の拳から血が出ている! いつ、ケガをした?」
「血?」
イッショウは、拳を自分の顔の前に持ってきた。丸めた指の付け根を呆然と眺めていたが、すぐに鼻で笑った。
「このガキの返り血だ、バカめ! 不死身の俺たちがケガなんざ……あ……?」
「どうした……?」
「あ、あつい……そんなバカな?」
「だからどうしたんだ?」
「あ……あぁぁぁ! 」
イッショウの声が、悲鳴にとってかわった。血まみれの拳に、火がついたからだ。あぁ、まただ……と春樹は思った。なんて不思議な現象なのだろう。牛仮面がそうだったように、火はどこからともなくやってきて、対象の体を焼き始めた。
「イ、イヤだぁぁ!」
イッショウは叫んだ。
右手はまるでロウソクだった。すぐに肘と肩へと燃え広がっていき、イッショウは右腕を振り回した。火を消そうとしたのだろうけど、それは髪に引火するという事態を招いただけだった。真っ赤な髪に赤い火が灯り、ロウソクがまた一本増えた。仮面が落ちた。春樹は、この男の素顔を拝む機会についぞ恵まれなかった。仮面の下では、火が顔の表皮を引っ剥がしているところだった。
すぐそばにいたはずのスイレイは、五メートルくらい後ろに飛び退いていた。仲間の体に火がついたとなれば、消火器を探すなり、自分の服を相手にかぶせるなり、対処すべきことはいくらでもあるだろう。でも、スイレイは何もせずただ眺めているだけだった。暴れ狂うイッショウに一歩たりとも近付こうとしない。その火が自分に燃え移ったらどうなるか、スイレイは知っているのだろう。
「そんなバカな……」
スイレイは言った。
「さっきのは間違いなくハズレだった!」
イッショウは、二、三歩ほど前に進んだきり、その場にうずくまった。死んだわけではなかった。火の痛みは、骨の髄まで切り裂いたことだろう。彼の痛みが実際どれほどなのか春樹に知るすべはないけど、それくらい痛ましい叫びだった。
春樹は、弟の仇が苦しみながら死んでいく様を横目で眺めていた。ただ見ているだけで、それが良いことなのか、悪いことなのかも判断がつかない。春樹の意識だってこの世界から旅立つ寸前で、隣人の火事を慮る余裕はなかった。
イッショウは、うつ伏せの状態になった。間もなくして動かなくなり、うめき声に近くなった悲鳴もやがて止んだ。黒い塊がその場に残っていた。スイレイは、カカシのように立っているだけで、何もできないという点では春樹とたいして違いなかった。レセプション・デスクの中から何人か顔をのぞかせていたけれど、みんな目を見開いて固まっていた。誰ひとり、口を開く者はいなかった。
沈黙を破ったのは、見知らぬ男だった。男は、どこからともなく現れて、春樹のそばまで歩いてきた。
「二本角が二体か……久しぶりの大物だな。だが、一匹は勝手に死んでしまったぞ?」
さすがにイッショウや牛仮面の男ほど大きいわけではないが、その男もなかなかのガタイだった。バン隊長と同じチョッキを着て、手には細身のナイフを握っている。髪の色は、春樹にとってありがたいことに、白髪混じりの黒だった。
男はひとりじゃなかった。同じような格好の男が他に五人も現れて、スイレイの周りを囲っていた。あるいは五人以上いたかもしれない。あるいは女の人もいたかもしれないが、視界の大半は霧がかかったようで、おまけに眼鏡も壊れたせいで、その確信はなかった。
一方で、スイレイは落ち着いていた。知人が自然発火したことに比べれば、こんなの屁でもないといったところか。当然だろう。これこそが、彼女の望んだ状況……彼女の任務なのだから。
「よお、カンパニーの飼い犬ども」
スイレイは周囲を見渡しながら言った。
「たったこれだけの人数で私を相手にするつもりか?」
「十分だよ」
白髪交じりの男はナイフを構えた。
「いますぐ焼いてやるからかかってこい」
男が「どこからともなく現れた」というのは正確でなかった。春樹は、男とその仲間が登場したところを偶然にも目撃していた。ちょうど仰向けで寝転び、上を見ていたからだ。彼らは、はるか上方の渡り廊下からこのフロアへ飛び降り、 着地してのけた。まるで映画のようだ、と春樹は思った。そう思ったきり、春樹の意識は途切れた。真っ暗になった。映画が始まり、劇場がフッと暗転するように。
長い一日だった。今日こそ、いい夢を見られるといいのだけど……