{ 36: 夕闇の都市(3) }
「それにしてもおどろいたぜ」
二人並んで歩いて帰っていた時にロウが感心して言った。フグタのばあさん宅の電気工事がぶじ終わり、両脇に抱える電線もなくなって、春樹は軽い足取りでロウの後をついていった。
「工事の時間が、三分の一で済むだなんて! あんなに速く配線するヤツ、親方以外に見たことないぜ。最初は、足を引っ張られるだけだと思っていたんだけどな」
「こう見えて、電気工事士の資格を持っているんだ」
春樹は胸を張って言った。
「シカク? なんのことだ?」
「電気工事をするための資格だよ」
「なんで工事に資格なんているんだ?」
医者の資格がなければ他人に注射してはいけないのと同じことで、電気工事士の資格がなければ住宅の電気工事はできない。なんとなればコンセントの増設すらできず、これは世間の常識である。でも黒い塔にそんな常識はないそうだ。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ……」
「おまえは腕がいいのに、たまに変なことを言うよな?」
ロウが心底怪訝そうな顔をして言った。
「まぁ、なんだっていいさ。明日も忙しいからな。覚悟しとけよ」
春樹とロウとの共同生活はそれからも続いた。春樹はもはやロウの部屋に巣食う穀潰しでなく、優秀な助手となった。
ロウの仕事を手伝うのは楽しかった。重たい電線ケーブルを運んだり、故障した器具を交換したり、ホコリをかぶった配線を掃除したりと、退屈な仕事が多いのも確かだけど、それでも心の底から楽しいと思えた。誰かといっしょに食事をして、朝から出かけることがこんなに楽しいだなんて……なんだか、秋人と暮らしていたころを取り戻せたようで、春樹はうれしかった。
赤い目に対する恐怖心にも変化があった。もちろん、赤が恐ろしいことに変わりないけど、でも、ロウについていって、食材の買い出しを手伝えるくらいにはなった。できるだけ周りを見ないようにして、住民たちの足下を見ていれば、それでなんとかなることを春樹は発見した。ロウはトマト作戦による成果だと主張してはばからなかったけど、春樹自身は、そういったコツをつかめたからだと思う。まだひとりで出かける気にはなれないものの、街を歩いているだけで、昏倒しそうになることはもうなかった。これは大きな進歩だ。
はじめのうちは、自分の瞳の色が違うことがバレてしまうのではと、どこに行ってもおっかなびっくりだった。が、意外にもそのことでさわぐ者は皆無だった。なんてことはない。いつも伏し目がちで、ロウとだけボソボソしゃべる春樹に関心を持つ者などいないのだ。春樹だって、東京で暮らしていたころは、すれ違う人の瞳の色なんていちいち確認しちゃいなかった。
ロウと出会ってすでに一ヶ月ほど経ち、春樹は新しい生活にも慣れてきた。慣れてきたし、楽しかった。春樹の仕事ぶりは重宝されるし(ロウには悪いが、腕も知識も僕のほうが上だ)、専門学校で学んできた技術を活かせることが素直にうれしい。
ロウとの生活には、痛みも苦しみもなく、あの悪夢もない。ユウナ博士も、ハリ拷問官もいなければ、動物面のテロリストたちもついぞ姿を見せなかった。ここにあるのは、働いて、日々の糧を得る生活だけだ。ほかにやることと言えば、たまに部屋の掃除をして、いまや春樹の一張羅(かつ仕事着)となった訓練校支給のツナギをタライで洗濯するくらいだ。これが「生きている」ということなのだろう。
残る一生をこの「二十二階の街」で過ごしても良いのではと、春樹は真剣に考えるようになった。父さんや鈴子さんに会えないのは寂しいけれど、でも家に戻ったところで僕を誘拐しようとする連中に怯えて暮らさなければならない。それならこの街の方がマシだろう。というよりも、ここ以外にない。僕はやつらから逃げ切ったのだ。
ロウに聞いてみたいことがあった。このままずっとこの部屋で暮らしていいのだろうか、と。でも「ダメだ」と言われるのが怖くて、ずっと聞き出せないでいた。そのかわりというわけではないけれど、ある夜、春樹はこんな風にたずねてみた。
「ロウは、どうして僕を助けてくれたんだ?」
「おまえが困っていからだよ」
と、ロウの声が、頭上から聞こえてきた。
ロウは二段ベッドの上側で寝ていて、春樹はその下側にいた。春樹は、上段ベッドの底板に向かってもう一度言った。
「そういうことじゃなくて……どうして困っていた僕を助けてくれたんだ?」
「当たり前のことだと思うけどな。春樹だって、くたばりそうなヤツがいたら食べ物くらい与えるだろう?」
当たり前だと言おうとしたところで、春樹はドキリとして口をつぐんだ。ほんとうに当たり前のことだろうか? たとえば、僕が東京の道を歩いていたとして、路地裏に倒れている人を見つけた時にいっさいためらわず手を差し伸べられるか? 万が一、その人が赤い目をしていたら、果たして僕は……
「あのときは、ロウ以外だれも手を差し伸べてくれなかったよ」
春樹は言った。
「あぁ、そのことか……あれは春樹が悪いよ」
「え、どういうことだい?」
「あのときの春樹は、誰からも話しかけられないようにしていたってことさ」
「僕のいったい何が悪かったんだ?」
春樹はおどろいて尋ねた。
「そいつは、ちょいと難しい話になるな……また今度にしてくれないか?」
「うん……わかったよ」
なにやらロウは言いにくそうな調子だった。聞いてはいけないことを聞いたのではと、春樹は心配になりながらうなずいた。よくよく考えれば、それほど関心のあることでもないので、ムリに聞き出すことはない。
「ここの住民は、いいヤツらだろう? 俺じゃなくたって、きっと助けてくれたさ」
「うん、そうだね」
春樹はうなずいた。
「フグタのおばあさんは仕事が終わったときに飴玉をくれたし、果物屋のおじさんはバナナを一本いつもおまけしてくれる」
「春樹もやっとここに馴染んできたってきたわけだ。あとは、話しかけられるたびに肩をビクリと震わせるクセを治すだけだな」
ロウが、春樹をからかうようないつもの調子で言った。
「ねぇ、僕はずっとここにいていいのかな?」
春樹は思わずたずねた。
「春樹がここにいたければな」
ロウはあくび混じりで答えた。
「僕は、他に行くところがないんだ」
春樹は続けた。
「それに、いまの暮らしが好きだ。ずっとこのままでいたい」
「なら、このままでいればいいさ……」
ロウは言った。
「もう寝ろ。明日も朝から仕事なんだ」
「わかった。もう訊かないよ。おやすみ……」
春樹は、毛布をかぶり直して、横になった。
「あぁ、そうだ……忘れていた」
急にロウが言ったので、春樹は毛布から顔をだした。
「どうした?」
「おまえに見せたいものがあったんだ」
「なんだい?」
「それは……ここにはないんだ」
ロウが言った。
「そうだな……今度、そこを通りかかったときに見せてやるよ。仕事の帰りにでも……」
「何を見せてくれるんだい?」
春樹はたずねたけれど、ロウはそれきり何も言わなかった。まもなくして、彼の寝息が聞こえた。
「おやすみ……」
そう言い直して、春樹も目を閉じた
◇
それから三週間が経った。カンパニーに囚われていた頃から日にちを数える習慣がなかったので、正確にそうだという自信はないけれど、きっと三週間だろう。春樹は、ロウといっしょに暮らし、毎日彼の仕事を手伝っていた。つまりアパートの部屋に電線を伸ばしたり、ケーブルを曲げたり、作業中のロウに工具を渡したり(ロウは「あれとって」としか言わないので、何を渡せばいいのか春樹にはわからない)を繰り返す毎日だった。
食事を用意してくれる見返りというわけではないけれど、春樹は夜寝る前に電気工学の授業をした。春樹が学校で習っていた「電気の基礎理論」や「配電理論」について、毎夜ロウに講義していたのだ。ロウは、「どうしてそんなもの、学ばなくちゃならない」と腑に落ちなかったようだけど、「将来かならず役に立つから」と言って聞かせて春樹はその知識をさずけた。
一方で春樹は、ほかの住民たちとわずかながら交流できるようになった。交流といっても、声をかけられて、世間話をするくらいのものだけど。そのたびに春樹は、ロウから借りたハンチング帽を目深にかぶって目をかくすのだけど、住民たちはこれといって春樹の行動を気に留める様子もなく、かまわず話しかけてきた。
近所の食堂の店主に相談されて、天井のファンをタダで修理してあげたこともあった。ロウはタダ働きをイヤがったけど、そこの店主はとてもやさしく、貧乏なふたりにいつも焼豚や煮玉子をおまけしてくれる手前、断りづらいたのみだった。だから、このときは春樹だけで引き受けることにした。
家電の故障原因の大半は、ネズミが天井裏の配線をかじったからで、破れた箇所を応急処置をするだけで修理は終わる。ただ、ロウが配線の壊れた箇所を見つけるのがものすごく得意なのに対し、春樹は、百人前のスパゲッティーのように複雑怪奇な配線に手も足もでないことが多かった。
「配線をかじったネズミが感電死しているから、そいつを見つけるんだ。ホコリ臭さの中に紛れた焦げ臭さを嗅ぎ取るのだがコツだな。オームの法則よりよっぽと役に立つ知識だぜ」
と、ロウはいつもえらそうに言っている。
この時も屋根裏で痕跡(なんと、子猫サイズくらいネズミが天井裏に転がっていた)を発見できたので、ファンの修理はすぐに終わった。知識や技術で上回っていても、現場でロウに頭の上がらない理由がこれである。
毎日が忙しくて、あっという間に時間は過ぎた。こんな毎日であれば、ずっと続いてくれればいいと思った。忙しいのは、楽しかった。つらいことも思い出さないで済む。
だけど、どんなに充実した日々だっていつか終わりが来る。きっかけは、ロウが「あのこと 」を思い出したからだ。
「そうだ、春樹。前に言っていたやつが、このそばにあるんだ。行ってみようぜ」
仕事の帰り道、中央回廊の西側の繁華街を歩いているときにロウが唐突に言った。春樹はすぐにピンとこなかったけど、数週間前の夜にロウが「見せたいものがある」と言っていたことを思い出した。
「何を見せてくれるの?」
春樹は、雑踏の中で立ち止まって言った。
「来ればわかる。ついてこい」
ロウは、ショッピングモールの入ったビル(この街最大の建てもので、「ジューケー・マンション」と呼ばれている)の一階にあるテナント型の商店に挟まれた通路を抜けて、ビルの裏口から外に出た。小さな路地だった。そこは抜け道を知らなければ絶対にたどり着けない裏道で、「この手の路地は、街に数えきれないほどあるんだ」とロウが言った。
「黒い塔では、道がすべてつながっているとは限らないわけだね?」
「そのとおりだ」
ロウは、裏道をしばらく歩きつづけると、小ぶりな雑居ビルの角を曲がって、さらにずっと狭い路地に入った。あまりにも狭いので、ひとりで通るのが精一杯の隙間道だった。
「昔は、ここもすんなり通れたんだけどな!」
壁にツナギをこすらせながら、ロウは道中しきりに毒づいていた。
「たしかに子どもじゃないと、通るのは難しいかもね」
春樹も文句を言いながら、ロウのうしろをついていった。春樹の体はロウよりもさらに横幅があったけど、塔で暮らし始めてからというもの、日に日に痩せていったおかげで極細の道もなんとか通ることができた。
道が終わると、視界が一気にひらけた。たどり着いたのは、広間のようなところだった。コンクリートがむき出しのままで、壁も、床も、なんの装飾も施されていなかった。柱がいくつもそびえ立ち、天井ははるか頭上にあった。春樹は、いつかカンパニーで見た「自然融合エネルギー」の発電施設を思い出した。あそこも柱がいくつも乱立している大広間だった。もちろん黒い塔に自然融合炉などあるはずもなく、むしろ何もなくて、すっからかんである。
「驚いたな。こんなに広い場所があるだなんて」
春樹はそのワケをすぐに理解できた。ここには、建モノがまったくないのだ。まさに雑居ビル群の終点と言うべき場所であった。
子どもたちが遊んでいて、そのけたたましい笑い声がコンクリートの空間で鳴り響いていた。赤い目の子どもたちが、鬼ごっこをしたり、縄跳びをしたりしていた。その様子は、人間の子どもたちが遊んでいるのとなにひとつ変わらない。なんて懐かしい光景だろう……
「いや、そんなことよりも……」
広間は、オレンジの光で包まれていた。春樹は、信じられない面持ちでロウを追い越し、前に進み出た。
ロウが見せたいものはきっとあれに違いない。春樹はそう確信した。そして、その光に向かって走り出した。
「まさか……」
広間の壁の一部に大きな穴が開いていて、そこからオレンジの光が差し込んでいた。春樹は、駆け回る子どもたちの間を抜けて、穴を目指した。「危ないから近づいちゃダメだよ!」という女の子の声がしたけど、春樹は構わず進んで穴の縁に立った。
「そ、外だ……外が見える!」
はるか眼下を海原のような大都市が広がっていた。それは、夕焼けに照らされた鉄とコンクリートの森だった。鳥でさえ目がくらむ高さから東京を見たのは初めてで、摩天楼と呼ばれるビル群ですらツクシくらいのものだった。街を駆け巡っている車も人影も、ここからだと見えそうにない。
あまりの光景に足が震えた。一方で上半身はこわばり、背筋が固まってしまったかのようだ。それでも春樹は、生まれ故郷の姿を見て泣きそうになった。
無意識のうちに自分の家を探していた。他の大きな建物の影に隠れて、僕の家なんて見られるはずもないのに……
代わりに、遠く新宿区にある「あの建物」が目に入った。この黒い塔に比肩しうる建造物はそれだけで、イヤでも目についた。東京のどこからでも見えるふたつの建てモノ……そのうちのひとつ……この塔の兄弟とさえ呼べそうな「カンパニー・タワー」である。塔の牢獄に連れ去られるまで、ずっとあのタワーの病室で過ごしていた。時が経ってさえしまえば、おぞましい思い出の場所ですら懐かしく思えるから不思議だった。
ロウは、黙って春樹のとなりに立った。夕焼けが、ススで汚れた二人の顔をしばらく照らしていた。けれど、やがて太陽は沈み、夕闇があたりを包んだ。東京も、この広間も、真っ暗になった。あんなにも騒がしかった子どもたちも、いつのまにか姿を消していた。
「家に帰りたいんだ……」
春樹は言った。
「あぁ、そうだな……」
ロウは、静かな声で言った。